十五段 蛍火
Ⅰ
「起きられるか? 灯篭始めるぞ」
立体感のある声に目を開けると、腰を落としたクラトがいた。シラツユは目を開ける。
「はは。昼寝してたのか」
ぼうっとしながら、横になっている体を起こそうと、伸ばした腕に力を入れる。そして想起した。たった今まで、この手をカタノと繋いでいたではないか、と。その感触が幻ではなかったかと、指を曲げて確かめようとする。
「血が上ったか」
「いえ……、大丈夫です」
シラツユは諦めて、腕を曲げて体を起こした。
「始めるとは、どこからですか? 今は何時ですか」
「三時半。四時から希望者に灯篭を配る」
「よかった。どこまで寝過ごしたのかと」
「珍しいな。でも、昼寝はそれが気持ちいいんだ」
シラツユはカタノのことを打ち明けないまま、クラトについて行った。
Ⅱ
日没が近づき、空には星よりも早く、提灯や街灯がつく。子どもが持つ玩具も、遠くから見れば蛍火のように、不規則に踊りながら光っている。
大人の腕には、木と紙でできた灯篭がまだ冷たいまま抱えられている。人々は神社を離れて、川辺でそのときを待っていた。
「高子ちゃん」
約束をしないで、たまたま出会った友人どうしが喜んでいる。
「こんなところに」
「おじいちゃんがどうしても行きたいって言ってたから」
「うちはテレビがつまらなかったから飛び出してきた」
普段着の女性と、紺色の服の女性が笑い合う。
「ねえ、何を書いたか見せてよ」
灯篭の紙の部分には、好きな言葉や絵を描けることになっている。貸し出されたのは安物のペンで、人々はそうとしか思っていないが、実はクラトが教則本を片手に祈祷をかけたものであった。スマが言うには、全く利益がないということはない、らしい。
高子は恥ずかしそうに桜の花の絵を見せた。
「かわいい」
友人は猫なで声を上げる。
「そっちも見せて」
言われると、友人は堂々と、「出会い」の文字を見せる。
「今年こそ絶対、ね」
「男がいなくてもあたしがいるよ」
「高子もそう思っていいよ」
二人は大声で笑う。
その様子をクラトは遠くから凝視していた。
「人間の女の子もかわいいもんだな」
シラツユの肩を叩いて、「あっち」と指をさす。シラツユは対象に気づいたものの、返事に困る。
「ごめんって」
クラトはウツのようにへらへらと笑う。
「おもしろいですか」
「別に」
「シラツユ」
神妙な面持ちの芥河がやってきた。
「うわ、地獄耳」
けむたがるクラトをよそに、芥河はシラツユの背に腕を回す。
「主?」
数秒して、芥河はシラツユを放す。そして、指でつまんだものを吹き飛ばす仕草をした。
「虫がついていたから」
「……それは、失礼しました」
「うん。気をつけてね」
「噓だろ」
芥河はクラトに笑いかける。
「君も、よく見ていてあげて」
「は?」
芥河はクラトの疑問に答えないまま、タマキの元に戻る。
タマキは神社のテントに残って、残った灯篭を売っていたが、既に人はまばらになっていた。
「重い銀色の硬貨を五枚、もしくは金色の硬貨を一枚、あるいは青鈍の紙幣と金色の硬貨を交換」と絵付きで教えられ、客向けの看板には「金銭はこれら三種類しか受け付けません」と書いた甲斐があり、順調に受け渡しされている。
その方法を考えて教えこんだ芥河は誇らしい。
「その調子なら、数字はいつか覚えられそうだね」
「数字?」
「だってもう計算ができてる」
「そうなの?」
「そうだよ」
タマキはよく分からない、という顔をした。
「もう買う人はあまりいないようだから、君も川辺へ行っておいで。僕が代わるから」
「うん」
「それと、みんなにも」
芥河は灯篭を三つ、タマキに抱えさせた。
タマキは装飾的な浴衣の帯をはためかせて、軽々と土手を下っていく。指環をつけているタマキの姿は人々にも見えていて、浴衣でよくも活動的になれるものだ、と関心の目を向けられる。普段は袿を羽織っている身からすると、帯がやや苦しいものの、それ以外は身軽で、動き回りたくなる。祭りの雰囲気が合わされば尚更だ。
「クラト! シラツユ! 何してるの」
タマキは走ってきた勢いで声を張った。
クラトは悩んだ挙句、芥河の言葉を文字通りに受け取って、シラツユの浴衣全体をはたいてやっているところだった。
「何してるの?」
タマキは繰り返す。
「……身だしなみ?」
クラトは疑問形で答えた。
「あ」
タマキはシラツユの手を取る。
「指環なくても見えてる」
タマキの指摘に、クラトもシラツユ本人も驚いて、感嘆の声を重ねる。
「すごいぞシラツユ!」
「主がお世話くださったおかげです」
「よかった。クラト、何もないところをはたいてる人じゃなかった」
「それは怖いな」
クラトは胸をなでおろす。
そしてシラツユが尋ねる。
「それで、タマキが持っているそれは?」
「私たちの分!」
クラトが指揮を執って、参加者たちの灯篭に明かりがつき、芥河に流される。
川の流れは穏やかで、自分が放した灯篭をしばらく目で追い続けることができた。
灯篭の火は金魚のように、金柑のように、蛍のように、流れていく。
そしてタマキとシラツユの霊力で明かりを消され、姿も消した。
どうして明かりがつき、消えたのか、人々には分からない。ある人が「ご先祖さまがお線香を落として、くしゃみで消したのよ」と言った。
暗くなった川辺で、友人が高子の背をさすった。
Ⅲ
常世に戻ると、クラトとタマキは一目散に、屋台で買ったもの、もらった余りものを居間の机に並べだした。
「いか焼き!」
「鈴カステラ!」
「からあげ!」
「おいも!」
「チョコバナナ!」
「チーズドッグ!」
「人形焼き!」
「普通のきゅうり!」
タマキは全部に喜んで飛び跳ねる。
「これが本物の人形焼き……」
シラツユは小さい人形の形をした饅頭に見入る。
「それはいいけど、他のものは切り分けようか」
芥河が指を立てると、いかやバナナが一口大に裂けた。
「便利だな」
クラトが驚く。
「普段からやってくれ」
「だって、神経使うし」
「そんなふうには見えなかった」
芥河とクラトが言い合う横で、タマキが櫛型のフライドポテトを一本、つまんで食べた。二人は「あっ」と、悔しさを漏らすも、そこでぐっとこらえた。
「……おいしい?」
タマキは新たなフライドポテトを一本取ることで答えた。
「こら、座って食べてください」
シラツユに言われると、指に持ったまま従って、座ってから口に入れた。
そのシラツユは既に着座していて、鈴カステラを食べ進めている。
「うん、そうだね。でももっというとみんな揃ってからがいいんじゃないかな」
クラトは面倒そうに、人数分の箸、グラスと麦茶、そして瓶を一本運んできた。
その瓶をやや乱暴に芥河の前に置き、自分の席に着いてそっぽを向く。
「……主が飲むなら俺も」
芥河の開いた口が閉まらない。
たまたまタマキの方を向いているクラトの顔が紅潮していく。
「じゃ、飲もうかな」
芥河は言葉をそれだけにして、シラツユに合図して、クラトのグラスを取らせる。自分の前に置かれた酒を注いでやった。
シラツユはそのグラスをクラトに返す。
「どうぞ」
「うん」
クラトも芥河も、互いに礼を言わない。
シラツユは細切れにされたチョコバナナの一欠を食べる。カタノがこれを見たらやはり、味の好みを笑うだろうか。笑ってほしいような気がして、人形焼きに手が伸びる。このおかしさをここにいる誰にも説明できないので、今日の昼のこともずっと黙っていようと思う。
タマキは指についた塩と油を拭う。箸を持つためだったが、その前に麦茶を飲むことにした。ただの麦茶でも、すぐ近くで酒の匂いがして、意地を張り合う年長者たちがいると、趣が違う。自分も少し大人びてみようか。