十二段 金椀
Ⅰ
スマとウツの手伝いにより、川に流す灯篭も、社が出す屋台の組み立ても進んだ。他の屋台の荷物が少しずつ運ばれてくるようになり、それぞれに場所を与えられるよう、地面に印をつけた。
日が傾く頃、クラトは神社を振り返る。
「二か月前とは全然違う」
かむさびていた空間に生気が戻った。見た目にどこか錆が落ちたとか、色塗り直したとか、植物を整えたとかいう意味ではない。どことなくそのように感じたのだ。感じ入っていると、裾が引っ張られる。クラトには慣れた感覚だ。
「タマキもそう思うか」
「違う」
「だろう?」
「違う。変なのが来る」
タマキは声を大きくした。しかし、クラトにタマキほどの、霊力の感度はない。
「またよその神とかが茶化しに来たのか?」
鈍感なクラトに緊張感はない。怪異であっても、自分がいる上に、遣いであるスマもいるため、打ち破れないはずはない。
「違う」
タマキは繰り返し、裾を握る手を強める。
「何だろうな。聞いてみるか」
スマとウツのいる水場に向かう途中であった。
タマキはクラトの斜め後ろにぴったりとくっついて歩いていた。
その肩が触れられた。
タマキはクラトの腕を引っ張りながら振り返る。クラトも引っ張られるままにそちらを向く。
そこに、背の高い、顔の見えない男が立っていた。
「あんたは……」
クラトは彼が、人間なのか神なのか、分からないままに尋ねる。
男はタマキの袿に触れようとするのを、クラトが割って入る。
「何すんだ」
男は腕を伸ばしたまま、動きを止めた。
「……その服はお前のものではない。返せ」
タマキは水色の地に白い夕顔の模様の入った袿の襟をぎゅっと締める。
「私の。主からもらった」
「そうだ。こんな安い着物なんて、うちの主が持ってるくらいだ、誰でも買える! 見間違えてんだろ」
クラトが加勢しても、男は腕を下ろさない。
「同じ色、同じ柄、同じ匂い」
「匂いだ? 香もみんな同じようなの焚いてるだろ。帰ってくれ!」
クラトはわざと大声を出す。
それでも男は退かず、じっとタマキを見ている。タマキは恐れて、クラトの右半身にしがみつく。
クラトの左半身が投げ倒される。
「クラト!」
タマキが叫ぶと同時に、男はタマキの顔に触れ、自身の真っ暗な顔と近づけた。
「……似ている」
タマキの目から、男が触れている頬へと涙が伝う。男は濡れた指を、タマキの頬に強く押し当てた。
「お前はユウガオの親類か」
尋ねても、タマキは泣くばかりで答えられない。
クラトは何とか体を起こす。
そのクラトの視線の先に、松の枝の先に立つスマがいた。
スマは弓を放ち、男の背に当たった。
続けて射った矢も命中し、男は渦を巻いて、煙のように消えて行った。
タマキの涙が土に落ち、タマキの体も地面に倒れようとする。クラトが受け止めると、タマキは目を閉じていた。
「そっちに行く!」
スマは木から飛び降り、二人の元に駆け付けた。木の幹に隠れていたウツも後に続く。
Ⅱ
「芥河!」
常世に逃げ帰ると、スマは玄関の引戸を殴り破る勢いで開け、怒号を飛ばした。クラトの打ち身に響き、ウツの心象に訴える。
芥河は仰天しながら出てきて、ウツの肩を借りているクラトと、スマに背負われているタマキを目にした。
「悪霊じゃない怪異が出た」
スマがそう言うと、芥河は引戸に片手を委ねたまま、うなだれるように背を垂れた。
スマはその古びた衣に覆われた背を見下ろす。
「人の形をしてて、俺が矢を射ったが、浄化されないまま逃げられた。……杜若さまには言うか?」
芥河は顔を上げる。
「言わないでくれ」
「そうかよ。……じゃあ、秘密のまま俺たち二人だけで、祭りの日までは手伝ってやる。まずはこの子を治せ」
スマは芥河を押しやって玄関に下駄を脱ぎ捨てる。
ウツを待たずにクラトが単身でそれに続く。
「主」
「君も。……ケガレを受けているね」
「平気だ。先にタマキを完全に治してくれ」
ウツが追いついて、クラトを支える。
「無理やって。そんなん待ってたらクラト君、何日後になるか」
「いいっつってんだろ。俺は動ける」
「動けてないって。あ、失礼します」
ウツはスマとクラトが散らかした履物を手早く並べなおし、軽やかな会釈までしながらクラトについて行った。
クラトは自室に寄って着替えとタオルを取ると、風呂場に入った。
服を脱ぎ、ぼけた金属のたらいに水を張り、タオルを浸してしぼり、体を拭く。
「クラト君」
当然のようについて入ってきたウツが声をかける。クラトは驚いて身震いする。
「なんで入ってきてるんだよ」
「背中拭いてやろと思って。嫌やった?」
クラトは一瞬戸惑った。芥河とシラツユ以外の者に肌を見せたことはない。しかし男どうし、歳も近い、同じ精霊で、何を恥ずかしがることがあろうか。
「いや、……まあ。じゃあ、頼む」
「へへ」
ウツは楽しそうにタオルを持ち、クラトを椅子に座らせた。
「なあ」
背中越しに話しかける。
「あれは何やった? スマさんは悪霊じゃない怪異って言っとったけど、悪霊と怪異って同じやないの」
「うん。俺は知ってる」
「本当? 教えて」
「言えない」
「なんで」
クラトは振り返って、ウツの手からタオルを取る。
「シラツユもタマキも知らねえんだ。知らなくていい」
「ずるいなあ」
ウツは笑う。
「なんでだよ」
「かっこいいやん?」
クラトは椅子を立って、浴室から出る。
脱衣所の籠に畳まないまま入れられていた下着を取り、着始め、
「ダサいよ」
そう、小さく断った。しかし狭い風呂場の中で、ウツの耳はそれを聞き逃さなかかった。
「なんで?」
クラトは浴衣に袖を通す。
「守れなかったから」
ウツはたくし上げた裾を戻し、帯を持ってやる。
「守ったよ。タマキちゃん、スマさんが行くまで守って、帰って来られた」
「でも、」
クラトは拳を握りしめ、帯をウツに任せる。
「俺は動けるのに、タマキは目を覚まさなくて、シラツユもずっと具合悪いまま」
「それは、クラト君が打たれ強いから倒れなかっただけで」
「代わりになれば、助けられた」
クラトは再びたらいに冷水を張り、両手で打ち付けるように顔に浴びせる。
ウツがタオルをやろうとしても、受け取らない。
手を止めても、濡れたままの顔を上げない。
ウツは持っていたタオルを広げたままクラトの頭に被せて、風呂場を出ていった。
別れの挨拶をしないまま、芥河の家を出る。竹林でスマが待っていて、合流しながら帰路につく。
「どうだった」
スマは報告を求める。
「気づいてません。自分も相当ケガレを受けてるのに」
「ああ。あの状態でよく立って歩くもんだと思ったが」
「ボクも思いました。そういう設計なんやありませんか」
「まあ、そうだろうな。……きついだろう」
「はは、ボクには無理です」
「俺もだよ」
「それで、タマキちゃんは」
「芥河に渡した。……なあ、芥河は何か知ってると思うんだが」
ウツはクラトが教えないと言ったことを思い出した。恩人の顔と、タオルで隠してやった顔を頭の中で比べる。
「何をです」
「あれの正体。心当たりがなきゃ、もっと驚くはずだ」
「心当たりがあるんなら、神さん自身でどうにかすればいいんやありません? 行って倒れるような精霊は下がらせといて」
「あの一帯は、一月以内に杜若さまが浄化に当たってる。それで見過ごす訳はないから、ずっといるということはないんだろう。……たまたま今日だった」
「はあ。ボクたちもクラト君もタマキちゃんも運がなかったってことですか」
「後は芥河次第だ。俺には解決できない」
落ち込むスマに、ウツは申し訳なさを感じた。自分こそ、あのとき戦いもしなかった、それからクラトを慰められもしなかった。
「それにしてもあのときのスマさん、かっこよかったなあ。世界一やった!」
ウツはへらへらと笑う。
Ⅲ
「クラト、入るよ」
芥河は部屋の戸を徐々に開ける。開いていく隙間から衣文掛けが投げられて、芥河はとっさに隠れ、またゆっくり戸を開けていく。
「入ってくんな!」
クラトはウツにかけられたタオルを被ったまま、今度は木箱を構えて座っている。
「ごめんね、君を治さなくちゃいけないから」
「タマキを先にしろって言っただろ!」
木箱は芥河の胴体に命中する。それでも芥河はびくともしない。木箱は音を立てて床板に落ちる。
「今できる処置はした。だから君の番だ」
「他にやることないのかよ」
「あるよ。それまでに君の力が必要でね」
芥河の背後から、紙のように薄い矢尻が八本、クラトを目掛けて飛んでいく。
クラトは避けられず、目をつむり、打たれながら、木箱と同じ格好になる。
目を開けると、矢尻が首や胸、両腕両脚に刺さっている。
「大丈夫。君が暴れるから優しくできないだけなんだ。すぐ終わるよ」
矢尻を抜こうとしてか、動かした右腕も床に落ちて、クラトはまた目を閉じた。
頭に被っていたタオルも床に落ちている。芥河はそれを拾い、クラトの顔を覗いた。
「……不憫だね。君も」