初段 芥河
Ⅰ
灰や黒の石が淡水に磨かれ、つやめく。
男は裾もまくらず、川に入っていく。魚を獲るのではない。水を飲むのでもない。ただただ入っていき、浅く、日光に照らされる底を踏み過ぎて、ずんずんと姿を消していく。
男の他には誰もいなかった。
男が沈んでいった川の底の奥は竹林であった。土でない土から、竹でない竹が生え、空でない空がかそけく、鶯とも雀ともつかない鳥が歌い、兎がひょこひょこ跳ねている。その奥に粗末な家があった。
「ただいま」
男は戸を開けてから帰宅を知らせる。
「お帰りなさい。お茶をお淹れしましょうか」
学生のような少年が出迎えると、男は笑顔を作った。
「ありがとう。君たちの分も淹れてくれ」
君たち、というからには、彼の他にも同居人がいる。
少年は台所に立ち、茶葉を急須に入れ、沸かしてあった湯を注ぐ。蓋をして、また別の部屋に歩いて行く。
「クラト、お茶です」
障子の前で少し声を張ると、彼より二、三歳年上に見える青年が、袴の皺を直しながら大儀そうに出てきた。
「悪いな。主、もう帰って来たのか」
「はい。楽しみですね」
少年の表情や声色は硬いが、より心に近いのは言葉である。しかしクラトと呼ばれた青年はその心に同意しない。
「シラツユは純粋でいいな」
「なぜですか」
「面倒が増えたら嫌だなって」
「面倒を減らすためなのでは?」
「そうだけどさ」
クラトとシラツユは台所を経由して、主と呼ぶ男が待つ居間に上がる。
「やあ」
男はクラトに軽く手を振り、クラトは虫唾が走ったような顔を一瞬して、改めた。
「失礼します」
形式的な礼を口で済ませ、ちゃぶ台を囲んで座る。シラツユは運んできた、全て同じ湯吞みに入った茶を一人一つ並べ、卓の中央に切ったきゅうりに山が入った器を置いた。
男は楊枝できゅうりを差して口に運ぶ。
「社は問題なかった。予定通り今日、新たな精霊――君たちの後輩を作るよ」
シラツユが少し笑顔になる。
「おめでたいですね。これで私たちも主も楽に……」
「上手くいくといいけど」
クラトは不機嫌そうに茶を飲む。
「クラト、後輩の前ではそのような態度を取らない方がいいですよ。真似されては困ります」
「別に困らないだろ。仕事ができればそれで」
「まあまあ」
クラトとシラツユの間を男が嬉しそうに取り持つ。
「クラトもシラツユも、そのままでいいよ。新しい精霊にも伸び伸びやってほしい」
諫められて、クラもシラツユも熱が冷める。
「……主は、あまり神さまっぽくありませんね」
「そりゃ、八百万もいるんだもの。みんな同じようだったら気味が悪い」
男は笑った。
白い着物に着替えた男はクラトとシラツユを引き連れて、家の裏の、ただ大きな石を重ねただけの祭壇の前に立った。
〈**********〉
ほかうと、光の玉が生じた。クラトは腕をかざし、シラツユは思わず目をつぶった。
光が弱まるとそこに、十代半ばの少女が生まれて、撫子色の重ねをまとって座っていた。
男は彼女と視線を合わせる。
「おめでとう。君はタマキ。僕は君の主の芥河という。神だ」
タマキはじっと芥河の顔を見て、後ろに立っているクラトとシラツユの顔も見て、目を伏せた。
「私はタマキ。芥河さまの精霊。私とあなたに、幸多き未来をお祈り申し上げます」
言い終えると、ぱっちりと目を開けて、歯を見せて笑った。
家の中に戻ってきた三人は、初めて家に入ったタマキに、緑茶と、落雁と、果物と、やはりきゅうりを勧めた。
「なんできゅうりなの?」
「いい質問だ」
芥河は胸を張る。
「僕は名前の通り、川の神だ。川の神と言えばきゅうりなんだよ」
「なんできゅうりなの?」
タマキは質問を繰り返す。意地悪ではない。ただの純粋な好奇心である。
「……一口食べてみるといい。おいしいよ」
芥河は手づからきゅうりを楊枝で差して、タマキに与えた。タマキは嫌がらず、噛んで飲み込んだ。
「果物の方がおいしい」
芥河はショックで崩れ落ちる。それをクラトが鼻で笑う。
「すげえなお前、神さまがくださったものを拒否するとは。……俺もやるけど」
「いけませんよ」
シラツユは眉をひそめる。
「タマキ、知らないようなので教えますが。私たちは精霊。自然のモノが、神から人格を与えられた存在です。当然その神に仕えます。主は優しいので許してくださいますが、あまり無礼な態度は取らないように」
シラツユから静かに説教されて、タマキは素直にしゅんとする。そして、うなだれている芥河に合わせてしゃがんだ。
「主」
「なんだい」
タマキは芥河の頭をなでた。
「元気出してね」
「……うん、ありがとう。……君のせいだけど」
芥河はおとなしくされるがままにしている。
クラトは笑いを堪えられずにむせる。シラツユがその背中をさする。
「クラト、先ほどあなたが言っていたことの意味が分かりました」
「なんだ」
「面倒が増えた気がするというか、……、あの人、生まれたてにしてもばかすぎじゃありませんか」
「ああ、俺もそう思う」
クラトとシラツユは背中の後ろで「頑張ろう」と拳を突き合わせた。
Ⅱ
「さて、早速だけど、初陣に行ってもらおうか」
芥河に命じられ、タマキは軽い服に着替え、髪を結び、頑丈なブーツを履いた。
竹林を歩いて行くと、目の前に水泡が現れる。そして気が付くと、川のほとりに立っていた。
灰や黒の石につまづきそうになりながら水から上がる。
「ここは?」
「下界の、主の領地」
「下界?」
タマキの溢れる質問にクラトが答え続ける。
「正確に言うと、さっきまでいたのは常世。神さまや、お仕えする俺たちが住んでる。それでここは現世。人間とか動物とかが住んでる。神さまはこの世界に領地を持って、人間が幸せに暮らせるようにしてる。人間の幸せで神さまは生きてる。俺たちはその手伝い。俺たちの姿は人間には見えない」
「ふうん」
説明を受けながら川辺と野を出て、集落らしき場所に出る。
一軒家がぽつぽつ立っていて、どの家にも立派ではない広い庭のような、畑のような土地がついており、誰のものとも分からない井戸や資材置きがある。
どの建物もやや古びて見えるが、窓ガラスや玄関の格子は清潔そうに保たれており、そこから覗くレースのカーテンやビーズのすだれ、少しも欠けていない屋根瓦などは、装飾的である。
「ほら、これとかが人間の家」
「……? さっきのお家より立派」
「そうだな、悲しいけどな」
クラトがそう言った瞬間、シラツユが弓を構えた。
タマキは腰を抜かしてクラトにしがみつく。
彼らの正面、数十メートル先に、異形のものがあった。山がテーブルクロスを被ったような形をして、色は黒っぽく、目鼻はないが口のようなものが見える。そこから絶えず、何か空気のようなものを吐き出している。
「あれ、何……?」
「あれは怪異。細かく言うと悪霊。人間のケガレ――不幸が形になった化け物だ」
シラツユは矢を放つ。高い音を鳴らしながら、真っすぐに悪霊に飛んでいく。
しっかりと腹に刺さり、爆発を起こす。
「お前はまだ今日は見学な。俺の傍から離れるな」
タマキは必死に頷く。
小爆発したものの、悪霊は依然とぴんぴんしている。
「あれは瘴気を吐く。人間も俺たちも、吸いすぎると心がやられて、体も動かなくなる。広がる前に倒す」
悪霊の方も、シラツユに浄化されたくはない。
皮膚から大量のカエルを飛ばす。クラトが手を伸ばすと、シラツユと、クラトとタマキの前方に水の膜が現れ、盾として防いだ。それに当たったカエルは泥になって地面に落ちる。
残っているカエルが自立してシラツユの足に近づく。シラツユはそれを踏んで破壊した。裾に泥が跳ねる。舌打ちしながら次の矢を放つ。放ち続け、悪霊の体力を奪う。
悪霊は最後のあがきと言わんばかりに、シラツユ一人をめがけて口から泥を吐く。
シラツユはそれを避けながら跳躍し、悪霊の頭に矢を打ち込んだ。
悪霊は消滅する。
タマキはクラトにしがみついて泣きそうになっている。
「怖かったか?」
タマキは頷く。
「悪霊とシラツユ、どっちが?」
クラトは面白半分で尋ねる。
「どっちも」
「どっちもかあ」
笑っていると、不機嫌なシラツユが戻って来る。
「汚れてしまいました」
「ご苦労さん。そのくらいならまだ大丈夫だろ。見回りしてから帰って風呂だな」
タマキはシラツユの眉間にしわが寄っているのを見て、クラの背中に隠れる。
「怖いってよ」
シラツユは数秒考える。
「距離を空けて歩きますか」
「怖くならない努力はしないんだな」
「ケガレを浴びた状態では無駄なので」
「そういうことだ。そのうち慣れる」
そうは言っても、シラツユがタマキに目を合せないようにしてくれているのに気づいて、タマキはよたよたとクラトの後をついて行った。
初めて見る人間の街は、無機質なくせに色々な感情が渦巻き、混濁する煩わしい世界だった。
灰色の四角い建物に、大きな文字の書かれた看板が所せましとうめこまれ、ときには電飾が目を刺し、その下を種々の車が行きかい、煙が立つ。人の話し声は大きくても、それ以上に大きな放送や電子音にかき消される。草花はアスファルトの隙間になんとかして生えて、人の足に踏みしだかれていく。
とても、あの優しい芥河が治めている場所だとは思えない。
タマキはクラトの服の裾を引っ張る。
「どうかしたか?」
「……気持ち悪い。おんぶして」
クラトもシラツユも、自分がそうだった頃を思い出す。
背負われると、タマキは目を閉じた。
クラトは小声でシラツユに問う。
「俺たちは慣れたけど、やっぱりここはおかしいよな」
「ええ。一日に一体は怪異が発生しています。他の領地では聞きません」
「街の構造だけじゃない、何かがある」
Ⅲ
芥河は、一時間前まで空き部屋だったタマキの部屋に入った。まだ物は少ないが、衣紋掛けに先ほどまで着ていた、撫子色の衣が掛けてある。近づいて見ると、撫子や夕顔の花柄が薄く浮かんでいる。
「ユウガオ、僕はまだ君が恋しいのかな」
芥河はそれを指でなぞって、鼻に近づけた。
芥河が期待した匂いとは違った。
……たまたま同じ色の衣を着ているだけだ。顔も少し似ているだけ。全くの別人だ。
そうだとしても、湧き出た思い出が纏わりついて振り切れない。
「ユウガオ、君と同じ女の子が産まれたよ。会いに来てくれないかな」
芥河はもう一度衣をなでる。