【Case:19 感染】1
台風の日、俐玖の部屋に泊まってから、脩は頻繁、と言うほどではないが、それなりの頻度で俐玖の部屋に泊まりに来るようになった。その日も夕食を外で食べた後、上がり込まれた。
「なんだ?」
寝る前だがコーヒーを飲んでいる脩をまじまじと見つめていると笑顔で尋ねられた。俐玖もカフェインが効かないタイプなので、同じコーヒーのマグカップを両手で持っている。お酒を飲むと、なぜかコーヒーを飲みたくなるのだ。
「なんか……遠慮がなくなったなって」
「俺が? 俐玖も大概遠慮がなくなってるぞ」
「そう?」
そうかもしれない。男の人と付き合うのが初めてなので、最初は動揺したり緊張したりと忙しかったが、三か月も経てば慣れてくる。人間はなれる生き物なのだ。
相変わらずの安物の小さめの二人掛けソファで並んでバラエティ番組を見ていたのだが、脩は自分のマグカップをサイドテーブルに置くと、俐玖の手からもマグカップを取り上げた。肩を抱き寄せられる。こうして、断りなく雰囲気でキスされることも増えた。
懸命に応えていると、ふいにアパートの部屋のチャイムが鳴った。ピンポーン、となじみの音がした後、連続で鳴り響く。しかも、これはオートロックのアパートのエントランスではなく、本当に部屋の前まで来ているときの音だ。
無視を決め込むには鳴り響くチャイムに根負けし、俐玖と脩は離れた。それから、俐玖のスマホが鳴る。常にマナーモードなのでバイブレーションの音だが、こちらもしつこい。見ると電話で、しかも拓夢からだった。と言うことは、玄関にいるのは芹香か。
「……多分、芹香だね。電話は拓夢からだから、出ておいて」
「わかった。ドア開ける前に一応確認しろ」
「うん」
俐玖のスマホを受け取り、脩はCALLをタップする。俐玖は一応のぞき穴を覗いて、芹香であることを確認してドアを開けた。
「芹香、っと」
「俐玖ぅ~!」
ドアが開いた瞬間に抱き着いてきた芹香を受け止め、俐玖はドアを閉める。部屋の中からは脩の「今、そこで俐玖に抱き着いてます」という声が聞こえた。
「また喧嘩したの? ていうか、お酒臭いよ」
芹香は意外と飲める人だが、どれだけ飲んできたのだろう。多分、拓夢と一緒だったはずだ。
「だって、拓夢君が~!」
「はいはい。とりあえず、中に入ろう」
靴を脱がせて部屋に入れる。電話を切った脩が「今から来るって言っているが」と言うと、泣いていた芹香がその声にはっと反応した。
「だめ!」
「駄目って言っても来るでしょ、あの男は」
「俺もそう思う」
真面目な二人に真顔でうなずかれ、芹香はうなだれた。とりあえず、先ほどまで自分が座っていたソファに座らせた。脩は勝手にお茶を用意し始めた。こういうところが遠慮がなくなったと思う。
「どうしたの? 拓夢が来る前に話しとく?」
俐玖の膝の上に顔を突っ伏した芹香は反応がない。俐玖はお茶を持ってきた脩と顔を見合わせた。さすがにマグカップは数がないので、来客用のティーカップが出てきた。いや、俐玖のものだが。
「芹香、お茶のもう」
お茶を飲んで少し間を置けば、多少は落ち着くだろう。芹香を座らせてお茶を飲ませた。
「で、どうしたの?」
と、尋ねたところで再びチャイムが鳴った。今度はエントランスの方だ。多分拓夢だろう。芹香は暗証番号を知っているから勝手にエントランスを突破してきたが、さすがの俐玖も拓夢には教えていない。
「拓夢さんか? 俺が行こう」
「お願い。ちょっと足止めしておいて」
「わかった」
脩も部屋を出たところで、ぽつりと芹香がつぶやいた。
「拓夢君、浮気してるかもしれない……」
思わず、「はあ?」と思いっきり怪訝な声を上げてしまった俐玖は悪くないと思う。
脩はちゃんと時間稼ぎをしてくれたようで、十分くらい経ってから部屋に戻ってきた。拓夢も一緒だ。
「芹香!」
拓夢が芹香を見て声を上げるが、芹香は無視だ。
「話を聞いてくれ!」
それにしても、拓夢の声がでかい。近所迷惑なので、もう少し音量を落としてほしい。
ちなみに怒鳴られても芹香はスルーだ。
「芹香ぁ」
少し音量は下がったが、随分情けない声が出ている。ソファに座った芹香と、その前に正座している拓夢。俐玖は脩と一緒にダイニングテーブルの椅子に座った。
「どうしてこうなったか、聞いた?」
俐玖は傍らの脩を見て言った。拓夢を迎えに行っているときにそういう話を聞いたのだが、芹香は何も言わなかった。少し時間があったから、拓夢は脩に話しただろうか。
「いいや。聞いていない」
だよね。俐玖はうなずいてそこで痴話げんかをしている二人は放っておくことにした。あの二人なら勝手に仲直りするだろう。たぶん。
それより、狭い。このアパートは単身者用だが、それなりに広い。ベッドを入れればいっぱいになるが、寝室もついている。なので、一人で暮らしていても、そこにもう一人が出入りしても、あまり狭いと思ったことはない。だが、さすがに四人集まると狭い。四人のうち二人の男がでかい。
芹香と拓夢が二人で話している間に、俐玖も脩と話をする。喧嘩が盛り上がりそうなら追い出す所存だったが、夜でもあるのでさすがに二人ともわきまえていた。だが。
「俐玖……すまんが芹香を頼む……」
こんなにしょげ切った拓夢を見たことがない。どうやら、仲直りができなかったようだ。これは予想外。
「俺も追い出されるのか」
「さすがに四人では泊まれないよ」
脩もちょっと落胆していた。本当なら彼が泊る予定だったのだ。そうして男たちはちょっとしょげて帰って行った。
「ごめん……」
おっと、こっちもしょんぼりしていた。芹香がうなだれて謝ってきた。可憐な女性が気弱気な様子。同じ女性で十年近い付き合いの俐玖もぐっとくる。俐玖はうなだれて丸まる背中をたたいた。
「仕方ないよ。私もいろいろと芹香には迷惑かけてるしね」
いろいろと相談に乗ってもらったり、巻き込んだりしているのは俐玖も一緒だ。脩と過ごせなくなったのは少し寂しいが、また次がある。
「なんで喧嘩したの」
無理に話さなくていいけど、と俐玖は言うと、芹香はぽつりと言った。
「拓夢君が浮気してるかもしれない……」
「さっきも言ってたね。そんなことないと思うけど」
というか、芹香の情緒が不安定すぎる。もしかして妊娠しているのでは、と思ったりもしたが、お酒を飲んでいるし、曰く月経中だからそれはない、と真顔で言われた。そうか。
「だって、私に内緒でどこかに行ったり、聞いてもごまかされるの。香水の匂いをさせていたこともあるわ」
それからもいろいろと芹香の思う拓夢のおかしな点を吐き出し、芹香は少し落ち着いたようだ。言えばすっきりする、というのはある。
「とりあえず、お風呂入ってきなよ。メイク崩れてるよ」
「あ~、うん。ありがと。化粧水とか、借りていい?」
「いいよ」
芹香もよく泊まっていくので着替えなどはまだ残っているが、さすがに消耗品はストックがない。いざと言うときは俐玖のものを使えばいいというわけだ。
芹香を見送り、俐玖はスマホを取り出した。脩はまだ、拓夢と一緒にいるだろうか。メッセージを送ると、どうやらバーで飲んでいるらしい。付き合わされる脩がちょっとかわいそうになりつつ、俐玖は芹香から聞き出したことを送り、さらに聞いているうちに気づいたことを送る。脩は隣にいる拓夢に確認したらしく、すぐに俐玖の推察が当たっていることが分かった。なんとなく馬鹿らしくなってスマホを放り出した。心配することはなかったが、拓夢はもう少しうまく隠すべきだったと思う。
上がってきた芹香と交代で風呂に入り、来客用の布団を出す。一緒に布団を敷きながら、芹香は言った。
「ごめんね、今日、向坂君が泊る予定だったでしょ」
俐玖は苦笑した。
「そうだね。まあ、いいよ。私は芹香のことも好きだからね」
「俐玖ぅ~! 私も好きよ」
芹香に笑顔が戻ってきたのでとりあえずは良しとする。なんとなく浮上した気分で二人は就寝した。
翌日は日曜日だったので、いつもより遅く起床した。すでに芹香は起きていて、朝ごはんを作っていた。
「おはよ~。勝手に食材使っちゃったわ」
「かまわないよ。むしろ、朝ごはんありがと」
「って言っても、オムレツとサラダだけだけどね」
十分である。これにトーストをつけて、朝食だ。
「本当は今日、拓夢君とデートの予定だったの」
「昨日も一緒にいたんじゃないの」
「ううん。昨日は友達と飲んでたの」
寝て起きたらすっきりしたらしい芹香がそう言った。お酒で判断力が鈍って大騒ぎした自覚はあるようだ。
「友達に、それって浮気してるんじゃないって、言われて……今から考えると、冗談だったってわかるんだけど」
にわかに不安になったところで拓夢が迎えに来て、聞いてみたらはぐらかされた。そこで芹香は興奮状態に入ってしまったようだ。
「友達からもごめんって連絡来てたわ」
「そっか」
仲が良くて気やすくなると、少しきわどいことを言ってしまうこともある。たいていは笑って流せるものだが、そうでないこともある。親しき中にも礼儀あり、とはよく言ったものだ。
芹香が気にしていないのなら、俐玖も指摘しないことにする。
「それで……俐玖、今日は特に予定ない?」
「まあ、そうだね」
脩が泊る予定だったので、どこかに出かけたかもしれないが、どこに行くとは厳密には決めていなかった。
「じゃあ、ダブルデートに行かない?」
芹香が拓夢とのやり取りの画面を見せた。とりあえず、拓夢は芹香に「会いたい」と繰り返している。俐玖もスマホを確認すると、どうやら脩は朝から拓夢に付き合わされているらしい。
「まあ、私は構わないけど」
脩にも連絡を入れておく。振り回されているなぁと思う。まあ、いつもは振り回している気がするので、たまにはいいだろう。
「ううっ、ごめんね……」
「芹香はいつも、こういう時私に礼を言えって言うよね」
そういうと、芹香はきょとんとした。それから「そうね、ありがとう」と微笑んだ。
「それで、服を貸して」
「いいけど」
芹香がデートに着ていくような服はあったかな、と俐玖は少し考えた。
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