【Case:18 雨女】1
ぴちょん、と水滴が落ちる音がする。ひた、ひた、と水にぬれたものを引きずるような足音が聞こえ、それは扉の前で止まった。
ぴちょん、とまた水滴が落ちる音。
今、いる。玄関扉の外に。部屋の中に迎え入れられるのを待っている。
開けなければ入ってこられない。わかっているのに、そこにいると言うことが死ぬほど怖い。
布団にくるまり、震えながら目をつむる。
どうか、そのまま行ってくれ……!
夏と言えば台風シーズンである。と言っても、北夏梅市は南東側に大きめの山脈がある日本海側なので、台風が到来しても大した勢力ではない。
とはいえ、毎年一回くらいは上陸する。今日も台風が直撃していた。朝の通勤、通学時間のころは降っていてもそこまでではなかったものが、昼過ぎには大雨になり、ついに注意報が出た。この降り方ではそうかからず警報に代わるのではないだろうか。
そうなると、役所としては避難所を開設したり、災害対策本部会議を開いたりと、いろいろしなければならなくなる。北夏梅市はまあまあの大きさの自治体だが、こうした非常事態に対応するには職員数が足りない。そのため、最低限を通常業務に残して、他は災害対応に駆り出されることになる。
昼食後から駆り出されて市街地に出ていた俐玖は、夕方になって市役所に返ってきた。職員玄関から入ると、そこで夏木と遭遇した。
「お疲れ鞆江。髪までびっしょりじゃない。大丈夫?」
「思ったより風が強くて……夏木さんもメイク落ちてますよ」
「ほっといてよ」
いつもきっちり化粧をしている夏木も、この暴風雨の中外に出ていたからか、化粧が落ちている。ウォータープルーフにも限界があったのだろう。化粧が崩れたままになっているよりは、と自分で落としたのかもしれない。
「私、工業団地を回ってきたのよ。外国人労働者が多いでしょ。状況を説明するのにさぁ。でも、英語があんまり通じなくて。あんたを連れて行けばよかったのに」
俐玖もそうだが、夏木もこの災害級の台風の状況や避難場所などの説明を日本語が不自由な外国人にするために駆り出されていたのだ。ほかにも宗志郎が駆り出されているのは知っている。彼は中国語要員なので、オフィス街をめぐっていたはずだ。
「私は観光地巡りでしたよ。ほとんど店、やってませんでしたけど。外国人観光客ばかりだったので、久々にほとんど日本語が通じませんでした」
俐玖は観光地を巡っていた。こういう場所は、ホテルスタッフや従業員に外国語が話せる人が結構いるものだが、それでも行政的な説明は俐玖がしなければならなくて結構難しかった。
「あんた、英語とドイツ語はネイティブレベルじゃない」
「今回はスペイン語率が一番高かったですね。あ、あと、神父様とラテン語でやり取りしてきましたね。どうしても会話が通じなくて」
「……あんたのスペックの高さにびっくりしてるわ」
たまたま、性に合っていただけだ。英語とドイツ語以外は日常会話程度だし。ラテン語は完全に趣味であるが。
「これ、電車とか止まるわよね。私たちはいいけど、みんな、帰れる?」
「あ、私駅も行きましたけど、電車止まっていました。今日中に再開はしなさそうでしたが」
「あちゃあ」
夏木も俐玖も、役所の近くに部屋を借りているが、電車やバスで通っているものも多い。芹香や脩はバス通勤だったはずだ。
この雨だと、早晩、バスも止まると思われた。少なくとも、夜遅くまでの運行はしないだろう。みんな帰れなくなれば役所で一泊になるのだろうか。
レインコートを着ていたのに、中のシャツまでぐっしょりだ。むしろ下着まで濡れていて、着替えても少し気持ち悪い。シャツやスラックスの替えは置いてあっても、さすがに下着の替えは持っていなかった。
「下着を着ないわけにいかないしなぁ」
「気持ちはわかるけど、それじゃ痴女よ」
「ですよね?」
どうやら夏木もびっしょり濡れてしまったようだ。少々気持ち悪いが、下着はそのままで服だけ着替える。靴下を替えれば結構落ち着いた気がする。
湿った髪もまとめ上げ、夏木と女子更衣室を出る。すると、外に出ていた男性陣も戻ってきていた。土嚢積みや排水の援助、土砂崩れが起きそうな場所の確認など、やることはいろいろある。力仕事がほとんどなので、比較的若い男性職員が駆り出されていた。地域生活課からも脩や下野、鹿野が駆り出され、戻ってきている。
「あ、お疲れ俐玖。夏木さんも」
「おかえり……三人とも、大丈夫?」
脩に声をかけられたが、彼も下野も鹿野も、俐玖たちはまだましだったんだな、と言うくらいぬれねずみだ。一応上にレインコートを着ていたのだろうが、今は脱いでTシャツ姿の者が多い。
「びっしょりですよー。排水は雨がやんでからの方がいいと思いません?」
うんざりしたように下野が主張した。その通りだが、水がたまりすぎる前にある程度排水しておきたい場所もあるだろう。
「ともかく、お疲れ」
夏木も肩をすくめてねぎらい、さらに何か言おうとしたとき、庁内放送のチャイムが鳴った。
『観光推進課 夏木主任、地域生活課 鞆江主事。帰庁済みなら災害対策室まで来てください』
若干緩い呼び出しのアナウンスがかかった。二人とも帰庁しているのがわかっているのに、一向に顔を出しに来ないから呼び出しがかかったようだ。雨に濡れることはわかっていたので、俐玖も夏木も、スマホを持っていなかった。
「呼び出されてるぞ」
「そうね……」
半笑いの脩に言われ、俐玖もため息をついた。夏木に「行くわよ」と背中をたたかれるので、脩たちと別れて階段を上る。
「あなたの彼氏、いい体してるわね」
「……突然なんですか?」
何の脈絡もなく言われ、俐玖は怪訝そうにする。夏木は俐玖を見上げ、「向坂よ」と言う。それはわかっている。
「体格の話。まあ、鹿野さんや下野もいい体してたけど」
確かに、雨に濡れていたので体格ははっきりと浮き出ていたが、突然の生々しい話に俐玖は戸惑った。これを女性にやれば立派なセクハラである。言わなければばれないかもしれないが。
「そう言う話、しない? いつも自分はあの体に抱きしめられてるんだな、ってならない?」
俐玖は驚いて夏木を見た。やっぱり生々しい。これまで俐玖は、そう言った話は聞く専門だったから、聞いたことはある。女性と言うのは、意外と生々しい話をするものだ。そして、脩と付き合うことになってわかったのだが、俐玖は聞く分には平気だが、自分のそう言ったことを話すのは苦手だった。
「……そんなドン引きしなくてもいいでしょ。ていうか、あなた二十代半ばの成人女性よね。そんなんで大丈夫なの?」
「ドン引きまではしてませんが……」
面と向かってそんな話題を出されて戸惑っただけだ。夏木は「どうかしら」と肩をすくめ、「からかって悪かったわ」と謝った。なんだ、からかわれていたのか、と俐玖はほっとした。
災害対策室に到着すると、もともとの職員以外の職員も大勢集まっていて、人口密度が高くなっていた。背の低い夏木が「戻りましたー!」と声を張り上げる。庁内放送をかけた係長が手を振って「こっちだ」と声をかけた。
「大川で洪水が起きた。下流地域に避難のメールと防災無線をかけた。土砂崩れも発生したため、立ち入り禁止のアナウンスをしたい。英語での防災無線の放送と、一斉通知の英訳の確認を頼む」
まあ、そんなようなことだろうな、と思った。夏木が放送原稿を手に取る。
「私が放送をかけてくるわ。鞆江は英訳の確認をお願い」
「了解」
さらっと面倒くさい方を任されてしまった。早い者勝ちと言うことで、俐玖は防災メールの英訳を確認した。多少スペルなどが間違っていても、早く情報を流す方がいい。とはいえ、明らかなミスがあると、後で批難されることがあるのでみんな慎重なのだ。
夏木の防災無線のアナウンスが響き、俐玖のチェックを通過したメールも一斉送信される。ひと段落して地域生活課に戻るころには、終業時間が近くなっていた。
「あー、俐玖さんおかえりぃ」
外に出ることはなかったが、相変わらず少ない人数で通常業務を回していた麻美がすっかり伸びている。瀬川も「おかえり」と言ったが、その口でそのまま言った。
「遅くなる前に帰れよ。夜の方がひどいからな」
それはそうではあるが、何も仕事が終わっていないのも気になる。というか、俐玖は役所の近くのアパートに住んでいるので帰ることができるが、電車やバスでの通勤の人はどうするのだろう。
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