【Case:03 落とし物】2
連休明け、出勤すると日下部がコーヒーを入れていた。
「おはようございます」
「おはようございます、向坂さん。ていうか、あたしに敬語はいいですよ」
年下ですし、と言われるが、一応先輩なので、と答えておく。もう少し慣れてきたら、敬語が取れてくるかもしれない。
課の中で最年少の日下部は、たいていの場合一番に出勤してくる。たまに別の人のこともあるが、この日下部と、新入社員の脩が朝一緒になることが多かった。
「向坂さん、コーヒー飲みます?」
「いただきます」
自分の分とついでに、脩の分も入れてくれるようだ。ありがたく自分のマグカップを受け取る。
「連休、どうでした?」
「まあ、遊びに行ったりとか。街で鞆江さんに会いましたね」
「へえ~」
そこに件の鞆江が出勤してきた。机越しに会話していた日下部と脩であるが、日下部は挨拶もそこそこ、自分の斜め向かいの席に着いた鞆江に飛びついた。
「俐玖さんっ! 聞いてくださいよ!」
「え、何? 聞くから落ち着きなよ」
鞆江が日下部を慰めている間に、脩は鞆江の分のコーヒーを持ってくることにした。始業時間まで、日下部の話を聞くことになるだろうと思ったのだ。
「彼氏に浮気されたんですよ! 信じられます!?」
「信じられます、が何にかかってるかわからないけど、麻美が恋人に浮気されたのはわかった」
生真面目な返事をしながらも、鞆江が聞く姿勢なので日下部も話が止まらない。
「あたしとのデートドタキャンしといて、あいつらは部屋でいちゃついてるんですよ。ありえない!」
「はい、鞆江さん」
鞆江にコーヒーの入ったマグカップを差し出すと、「ありがとう」と受け取られた。ついでに尋ねられる。
「ドタキャンって、直前の取りやめのことだっけ?」
「そうですよ」
土壇場でキャンセルの略である。日本の風習になじみ切れない、と言っていた彼女の姉・恵那の言葉を思い出した。
鞆江が日下部から聞かされたところによると、日下部の彼氏はデート当日の朝に風邪気味でデートにいけない、という連絡をしてきたそうだ。ならば、とお見舞いに行ったけなげな日下部は、浮気相手の女性に出迎えられた、と言うわけだ。
「年上の色っぽいお姉さんだったんですよ! むっちりした妖艶な感じの! どうせあたしは出るとこ出てませんよ!」
「スレンダーでうらやましいけどね、私は」
女性をじろじろ見るのは失礼だが、確かに日下部はすらっとしたモデル体型だ。背の高い脩の顎より上に頭があるので、百七十センチくらいはあるだろう。華奢な体格で女性がうらやましい、というのはわかる気がした。
「うう……俐玖さんだってすらっとしてるじゃないですかぁ。胸も大きいし」
「こういうのをセクハラと言うのだろうか」
「……まあ、鞆江さんは立ったときの後ろ姿が素敵ですね」
パンツスタイルで背筋が伸び、体幹がしっかりしているのがわかる立ち姿は結構目を引く。日下部が言いたいのもそういうことだろう。フォローになっているかはともかく、脩は無難に口をはさんだ。
「おはよー。若人たちよ、何してるの?」
藤咲が出勤してきた。日下部が「藤咲さぁん!」と鞆江にしがみついたまま半泣きになる。
「なので、俐玖さん、藤咲さん。今週の土曜日、駅前のホテルのケーキバイキングに行きましょう!」
「娘の保育園の体験学習なのよ」
藤咲に冷静に断られ、日下部はショックを受けた顔で固まった。
「じゃあ俐玖さんは!?」
「私は予定もないけど。でも、高校の友達とかと一緒に行ったほうがいいんじゃないの?」
確かに、と思うようなことを鞆江は言うが、日下部は拒否した。
「あの彼、高校時代からの知り合いなんですよぅ」
要するに、高校時代から付き合っていたらしい。そのため、高校の友達には話しにくいのそうだ。当時から日下部たちを知っている友人なら、確かに気まずくなるかもしれない。
ちなみに、日下部は就職したが、彼は地元の私立大学に進学した。浮気相手は、大学の先輩らしい。
「確かに最近ちょっとすれ違ってるっていうか、かみ合わないなってことがあったんですけど、浮気ってどうなんです!? 振られる方がまだましなんですけど!!」
まだ憤懣やるかたなし、と言った様子で日下部が叫ぶ。出勤してきた幸島がびくっとして佐伯が面白そうな顔をしている。
「なので! ケーキバイキング、行きましょうね!」
日下部は一方的に言って、始業時間になるために席に戻っていった。脩も座席に戻る。資料をまとめなければならない。外に出ることも多いが、雑用も少なくはないのだ。
財政課に資料を出しに行き、その帰りに脩は市民課で捕まった。市民課は新人職員が配属されやすい課で、脩の同期も二人配属されているが、そのうち一人に「英語を話せるんですよね!」と連れてこられたのだ。確かに今転入手続きをしている彼は英語を話しているが、これが母語ではないと思う。
正面玄関から戻ってきたらしい鞆江と目が合い、ぎょっとされた。一緒に出掛けていたらしい幸島に荷物を預け、ぱたぱたと駆け寄ってくる。いつも通りスラックスで、フライトジャケットを着ていた。身分証を首から下げているので、かろうじて市役所職員だとわかる。
「向坂さん、何してるの」
「この方の転入手続きなんですけど」
「わかった。代わって」
通訳者が鞆江に代わったとたん、スムーズに話が進みだした。終わった後にこっそり聞いたところによると、スペイン語が母語だったらしい。
「鞆江さん、多才すぎません?」
「たくさんの言語を話せることは、同じ才能なのでは……」
変なところが引っかかってしまったらしい。脩は鞆江と一緒に地域生活課に戻りながら尋ねる。
「助かりましたけど、どうして気づいたんですか」
見ただけでは、困っているとわからなかったと思う。そのままスルーすることもできたはずだ。そう言うと、鞆江は少し口ごもってからった。
「……この前、恵那が助けてもらったらしいから、困ってるなら代わろうと思って」
大丈夫そうならそのまま去るつもりだったようだが、案外困っている風だったので代わってくれたそうだ。プライベートでの様子を見られたからか、仕事中なのに少し内気な様子を見せられて、不覚にもほっこりした。
「……そうですか。ありがとうございます」
微笑むと鞆江は少し安心したように「おせっかいじゃなくてよかった」と言った。そんな鞆江の格好について尋ねてみた。
「そういえば、鞆江さん、フライトジャケットのこと多いですよね」
「ああ……ヘリコプターに乗っていたから」
「ヘリに? なぜです?」
「クマを撃ちに」
「クマ!?」
鞆江は狩猟免許を持っている上に、なかなかいい腕をしているらしい。猟師の数が足りない時にたびたび駆り出されるらしいが、たいてい防災ヘリから該当地域を眺めることになるらしい。鞆江と猟師が結びつかない、と思ったら、そもそもは射撃を習っていての延長線上にあるらしい。それならまだ納得できる。
話しているうちに課に到着した。今日も半分くらいが外に出ている。朝からあれだけ騒いでいた日下部も、今は仕事に集中していて、切り替えが素晴らしい。鞆江も仕事とプライベートがはっきり分かれているタイプだろう。休みの日に会った時の、恥ずかし気な顔がかわいかったな、と思った。
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