【Case:01 人数が合わない】3
ちょっと変わった部署だと言っても、すべてがその課内で完結するわけではない。外に出ていることも多いし、ほかの部署とのかかわりだってある。脩は日下部に案内されて、どの書類はどこの課に行くか、と実地で説明されていた。正確には、起案書をどの順番で回すか、調査に行くときにどうやってほかの部署から協力を得るか、という方法を教わっているわけだが。
「こちらは市民課です。最近は厳しくて個人情報を簡単に教えてくれないので、ちゃんと書類にのっとって請求してくださいね」
「わかりました」
「あ、別に敬語はいいですよぉ。あたしのほうが年下だし」
「そうですか? でも、仕事上では先輩なので」
もしかしたら、そのうち崩れるかもしれないが、しばらくはこれで。日下部は「まじめ!」と目を見開いた。
『すみません』
声をかけられた。おそらく住民であることはわかるが、なんと言われたのかわからなかった。それは、話しかけてきた男性が話したのは、日本語ではなかったからだ。ついでに英語でもない。近い言語ではありそうだが。
市役所職員とわかる名札を下げた脩と日下部が反応したので、まくし立てるように話しかけられるが、すべて外国語でわからない。脩はアメリカに留学していたことはあるが、それでカバーできるものではない。しかし、おそらくフランス語らしい、と言うことはわかった。
「ちょ、ちょっと待ってください! えっと!」
市民課から廊下に出てすぐのロビーにいるので、市民課に戻れば外国語を話せる職員くらいいるだろう。プチパニックになっている日下部に声をかけようとしたが、その前に彼女が手を振った。
「あっ! 俐玖さーん!」
ちょうど正面階段を下りてきた女性職員に手を振る。同じ課の鞆江だ。鞆江俐玖、と言うのが彼女の名である。ほかの課の職員と話していた彼女は、日下部に呼ばれて駆け寄ってきた。
「どうしたの、麻美」
ちなみに麻美は、日下部の名だ。
「この方が御用らしいんですけど」
と、日下部は男性を示す。一目でヨーロッパ系とわかる顔立ちだったからか、鞆江は流暢な英語で話しかけた。
『どうかされましたか?』
男性は驚いたようだが、すぐに別の言語が返ってくる。やっぱりフランス語な気がする。
鞆江も驚いたように何度か瞬きした後、英語ではない言語でその男性に応じた。いくらかやり取りし、男性は嬉しそうに「Merci beaucoup!」と鞆江の手を握って大げさにシェイクし、手を振って先ほど鞆江が示した方へ歩いて行った。
「ありがとうございます、俐玖さん! 英語でした?」
「明らかにフランス語だったよね。Merciって言ってたでしょ」
苦笑気味に鞆江は日下部に言った。日下部は唇を尖らせ、「フランス語なんてわかりませんよぅ」と言った。まあ、大学まで行っていれば第二外国語で習う程度だな。
「すみません、鞆江さん。英語なら俺にもわかったんですが」
脩がそう言うと、鞆江は「別にいいよ」と首を左右に振る。
「よくあるからね」
「よくあるんですか?」
「俐玖さんは六か国語が話せるマルチ……えっと」
「マルチリンガル?」
「そう! それなんです!」
なぜか日下部が得意げだ。と言うより、今日話していて思ったのだが、日下部の語彙の少なさが気になる脩である。
「どっちかと言うと、ポリグロットだと思うわ。それに、フランス語は本当は、役所に届け出てないしね。聞かれたのが第二駐車場への行き方で助かったわ」
「あ、そういうこと聞いてたんですねぇ」
日下部がぽん、と手を打った。なんとなく三人で歩き出す。地域生活課へ戻る道だ。
「鞆江さんは何語が話せるんですか?」
好奇心で聞いてみた。やはり日下部が先に答える。
「日本語と英語とドイツ語、あと……えっと、なんでしたっけ」
「ん」
と、鞆江は首から下げた名札兼身分証のIDカードを見せてくれた。多言語話者として、英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語が書かれている。しかし、これに日本語を合わせても五か国だ。
「六か国語目はなんです? フランス語?」
「いや、ラテン語」
「ラテン語を話せるのって、バチカン市国の聖職者だけじゃないんですね」
その言いように日下部が噴出した。めちゃくちゃ笑っている。いや、自分でもちょっと変なことを言ったな、と思ったけど。
「まあ、否定はできないけど、某漫画の古代ローマの女性研究者だって話してるじゃない」
「そうですけど」
というか、そういうの読むのか。
「鞆江さん、頭いいですもんね!」
「頭がいい人っていうのは、宗志郎みたいな人のことを言うのよ」
腕にしがみついてきた日下部にそういいながら、鞆江は課の扉を開けた。
「というか、普通に戻ってきたけど、よかったの?」
「あっ」
脩と日下部は同時に声を上げ、顔を見合わせた。まだ説明の途中だった。
「そこー、入るか入らないか、どっちだよ」
ツッコみを入れてきたのは神倉だ。鞆江は肩をすくめて先に入ってしまった。脩と日下部も続く。
「あのー、帰ってきちゃいました」
「と言うことは、まだ全部回ってないのね。ま、いいわ」
さばさばと千草が言った。すみません、と言いながら席に着く。
「ほい、決裁。あと、青い桜の被害総額。良かったら再計算してみてくれ」
「わかりました」
神倉からファイルを預かり、言われたとおりに確認していく。そして、今日も背後は騒がしい。
「請求書、請求書知りませんか!?」
「ヴァルプルギスぅ? まだ先の話!」
「俐玖さーん。総務課から通訳依頼!」
「翻訳アプリを使って下さーい」
まあ、ちょっとしたことでいちいち呼び出されるのは鞆江も困るだろう。実際、すごい勢いで文章がつづられている。
今日も今日とて、課内の半分くらいの人がいなかった。相変わらず来宮はいないし、幸島と汐見もいない。と言うより、下っ端ばかり残っているという微妙な状況である。目の前の脩と神倉の席の間にある電話が鳴った。脩が電話をとる。
「はい、北夏梅市地域生活課、向坂です」
どこへ行っても電話の取り方はほぼ一緒、と教えられた電話の取り方である。「地域生活課」が言いづらい以外はシンプルで覚えやすいフレーズだ。
『すみません、あの……うちの父が変、なんですが』
名乗らずに急に始まった用件だが、市役所にかかってくる電話ではよくあるらしい。
「変、ですか?」
『ええ……急に壁に向かって話しかけたり、人が変わったように暴れだしたり……』
それは医療の範疇なのでは、と思いつつ一度電話を保留にして神倉に話しかける。
「神倉さん。住民の方からお電話なのですが」
ざっくりと説明すると、替われ、と言われたので電話を替わる。まだこういう対応はできない……。
「……鞆江」
「なんです?」
電話を切った神倉に話しかけられ、脩の背後で鞆江が椅子後と振り返るのがわかった。
「突然壁に話しかける、人が変わったように暴れだす、部屋の隅に女の人が立っていると言う……これらから導き出されるのは?」
「……何らかの精神障害でしょうか」
「と、思うよなー……でも、明日来るっていうから、日下部、調書頼んだ」
「はぁい」
日下部の返事が聞こえた。神倉は「明日、課長っていたっけ」と汐見課長の予定を確認している。なかなか面白い職場だと、二日目にして思う次第だが、ほかの部署もこんな感じなのだろうか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
脩は順応力高めです。