【Case:06 影法師】7
「あ、もうみんないる」
ちょっと空気を読まない間抜けな声を上げたのは、自転車で駆け付けた鞆江だった。クール系の彼女の自転車がちょっとシュールである。
「そのままにらみ合ってて」
つまり、目を離すな、と言うことらしい。目を離せば、逃げられてしまう。鞆江は手のひらサイズの本を片手に詠唱を始めた。英語やフランス語ではない気がする。近い言語体系に聞こえる、と思ったところで、おそらくラテン語だと思い至った。詩編だ。たぶん。
脩の目には、その影が何かに締め上げられているように見えた。ぎりぎりと拘束がきつくなり、鞆江が何かを投げつけた。影が膨張し、爆発して飛び散ったように見えた。なかなか衝撃的な光景だ。
「大丈夫?」
「おう、助かった」
駆け寄ってきた鞆江に、拓夢が手を挙げて応えた。鞆江も自宅でくつろいでいたようで、ショートパンツに薄手のロングカーディガンを羽織っている。後ろから見ると、何も履いていないように見えるやつだ。
「その子が被害者? ……男の子だね」
鞆江が倒れている男子高校生をのぞき込む。沢木が怪我の応急処置をしていた。この時代、男子はスラックス、女子はスカートと決めつけていない学校も多く、スラックスだからと言って男子生徒だとは限らないのだが、この子は男の子である。十代の。
「男女問わず、十代の人間を狙ってたのか?」
「さあ……もう消しちゃったから確認しようもないね」
意思の疎通もとれないだろうけど、と鞆江。というか、消えたのか。鞆江が投げつけた何かを拾い上げた。銀の十字架だった。
「吸血鬼だったってことか?」
吸血鬼が銀の銃弾や十字架に弱いのは有名だ。創作かもしれないけど。拓夢の問いに、鞆江は首を左右に振った。
「対処方法は吸血鬼と同じだったけど、違うと思う。なりそこない……というか、吸血鬼の概念が意思を持ったものだと思う」
明日にでも報告書を上げるよ、と鞆江は肩をすくめた。こうした方法で消滅してしまった怪異は、それが何だったのか見分けるのが難しい。
「というか、俐玖、対処できてるじゃないか」
自分ではどうしようもない、と言っていなかったか、と思って脩が言うと、拓夢も「そう言えばそうだよな」とジト目になった。
「私の力っていうより、概念的なものだったから、弱点だと言われているものに過剰に反応して自滅しただけだよ」
そのために聖書の詩編をラテン語で暗唱したらしい。銀の十字架はドイツに在住していた時にもらったものだそうだ。ネックレスになっている。
ひとまず救急車を呼んで、男の子を回収してもらう。拓夢も沢木もこれから報告やら徴収やらの手続きがあるため、男の子に同行した後に署に戻るそうだ。必然、脩が鞆江を送っていくことになる。
「俐玖もそう言う格好でくつろいだりするんだな」
新鮮な恰好なので思わず眺めてしまったが、これでは脩も変態のようだ。思わず、すんなりと伸びた足に目が行ってしまう。
「脩も格好が緩いね」
チノパンにパーカーなので、確かに緩い格好だ。からからと鞆江が手で押す自転車の車輪が回る音が聞こえる。
自転車をアパートの駐輪場に停めて。オートロックの入り口まで鞆江を送り届けた。このアパートのエントランスは暗証番号式のオートロックだ。少し古いタイプのオートロックだが、築十年ほどらしいのでこんなものだろう。閉まる自動ドアの向こうで鞆江が手を振るのに振り返したところで、彼女の後ろに日曜日の婚活イベントの帰りに遭遇した男性が立っているのに気づいた。
「ちょっと待った!」
慌てて駆け寄るが、脩が中に入る前に自動ドアが閉まった。暗証番号なので、生真面目に見てはいけないと思って彼女の手元を見ていなかった。番号、何番?
混乱しながらも鞆江に電話を掛ける。中から着信音は聞こえるが、出る様子はない。杞憂だったらそれはそれでいいのだ。脩は拓夢に電話をかける。
『なんだよ』
さっきの今なので拓夢は不機嫌だった。沢木が救急車に同乗していったので、拓夢は乗ってきた車を運転していった。スピーカーで話しているようで、車の駆動音が聞こえる。
「先輩! 俐玖のアパートのエントランスのオートロックの暗証番号は!?」
『は?』
「例のストーカーらしき男とかち合ってるんですよ!」
『はあ!? 芹香なら知ってるはずだ。少し待て』
通話が切られる。一分もしないうちに、音無から電話がかかってきた。連絡先を交換していないので知らない番号からの着信だったが、出たら音無だった。
拓夢の言う通り、彼女は鞆江のアパートの暗証番号を知っていた。たまに泊まりに来るからだと、後になってから聞いた。エントランスの自動ドアが開く。
エントランスはそんなに広くなかった。入って真正面にはエレベーター、その裏に階段。右手に各部屋のドアが並んでいる。小さく悲鳴が聞こえたのは階段の方だった。
「何をしている、離れろ!」
壁際に鞆江を押し付けてのしかかった男を力ずくで引き離す。勢いがよすぎたようで、男がべちゃっとつぶれた。
「俐玖!」
しゃがんで鞆江の肩を揺さぶると、彼女は恐怖と驚愕に見開かれた目を脩に向けた。
「お前……お前のせいだ! 彼女をたぶらかしたな! 俺の方が先に知り合ったのに!」
訳の分からない主張を叫びながら、男がこぶし……ではなくナイフを振り上げた。想定が甘かった。さすがの脩も驚いたが、だてにこの年まで剣道を続けているわけではない。身をすくませている鞆江を抱え込んでナイフをよけた。再度ナイフが振り上げられたところで拓夢が突入してきた。
「そこのお前! 銃刀法違反と婦女暴行で逮捕するぞ、こらぁ!」
口は悪いが、言っていることは間違っていない。脩は拓夢たちから離れるように一歩下がって鞆江を腕の中に抱き込む。
「うぎゃっ! な、なんだお前!」
「警察だって言ってんだろ!」
いや、言ってないと思う。この状況で逆に冷静になりつつ、脩は心の中でツッコみを入れる。鞆江がぎゅっと脩のパーカーの胸元をつかんでいることに気づいて、落ち着かせるように肩をたたいた。
「はい、暴行と公務執行妨害で逮捕! 二十時十七分」
当たり前だが武道を修めた拓夢の方が強かった。すぐに男を制圧して手錠をかける。初めて逮捕現場を生で見た。
平日の夜とはいえ、まだそんなに遅い時間ではない。仕事帰りの住人らしい人がエントランスをくぐり、状況を見てびくっとした。
「すみません、もう終わりましたので、どうぞ」
「ど、どうも……」
学生っぽい男性がそろりと脇を通っていく。二十代後半ほどの女性も、こちらを気にしつつ通り過ぎていく。一応セキュリティーのしっかりしたアパートなので、学生や若い女性の住人が多いようだ。拓夢が捕まえた男も学生ほどの年齢に見える。
「俐玖、大丈夫か?」
「えっ? あ、うん」
拓夢に尋ねられ、鞆江がきょとんとした風情でうなずく。何を聞かれたのかわかっていないような調子だが、不安なのか内心おびえているのか、脩のパーカーを放さない。
拓夢が警察署に電話をかけたようで、ほどなく応援の刑事が来た。ここまできても鞆江はきょとんした様子で、状況を理解できていないように見えて不安だ。押し倒されたときにでも破けたのか、カーディガンが悲惨な状況になっていた鞆江は、上に脩のパーカーを羽織っている。背が高い方の鞆江だが、脩よりはだいぶ華奢だ。
「俐玖、大丈夫!?」
エントランスに駆け込んできたのは芹香だった。彼女は鞆江のあちこちを確認し、怪我がないことを確認すると、「よかったぁ!」と鞆江を抱きしめた。
「拓夢君から電話が来たときはどうしようかと思ったのよ。向坂君も、間に合ったのね」
にこっと微笑まれた、脩は苦笑する。間に合ったのか、微妙なところだ。
さて、ここまできょとんとしていた鞆江は、音無に抱きしめられて顔をゆがませた。ぽろぽろと泣き出したのを見て、脩はぎょっとした。
「り、俐玖」
「よしよし。大丈夫よぉ」
音無が鞆江の背中をたたく。脩は戸惑っているだけで役に立たないので、鞆江のことは音無に任せることにした。鞆江も、やっと状況に自分の感情が追いついてきたようだった。
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