日本史 超概略[明治維新以前まで]
伊野上と桃子は、簡単に歴史を復習するところから始めることにした。
「帝国憲法へつながるために、絶対必要だと思うことをとりあえず取り上げてみよう」
伊野上がパソコンを使い、調べてきたことを表示させる。
[以下の情報は『Wikipedia』内、『日本の歴史』より要約。]
・旧石器時代~平安時代
10万年ほど前に地球一大きい海である太平洋の隅っこにある島に定住しはじめた人類は、1万2千年ぐらい前に起こった温暖化現象により大陸と完全に切り離されたとされている。その後、縄文時代を経て弥生時代へ突入すると、『卑弥呼』を筆頭とする『邪馬台国』が最終的な王となり周辺地域を統治していくことになる。しかし、邪馬台国がどこにあるのかは、九州説と畿内説とがあり、決着はついていない。
古墳時代へ入ると、畿内を中心として、前方後円墳のような大型な古墳が建造されるようになっている。その時期と前後して『大和王権』が成立したとみられており、大王が中心となる国家を作っていたとみられている。卑弥呼の時代からの中国との朝貢は、この時期にも引き継がれている。
飛鳥時代、聖徳太子や蘇我氏を中心として天皇[当時は大王]を中心として国家を作っていこうとする機運が高まり、中国との朝貢体制は、この時期になり崩れていく。聖徳太子が作ったとされる十七条憲法は、国家の中心である役人集団に対してどのような心構えで、どのように政治を進めていくかを定めたものである。今でいう憲法とは全く意味合いが違うし、法律とも言い難い。しかし、心構えの中を明文化したところに今に通じている者があると思った。ただ、十七条憲法自身、後世に付け加えられた創作という説もあり、聖徳太子が作ったという真偽は定かではない。
聖徳太子没後、大宝律令が制定される。これは、今でいう刑法や民法のようなものであり、日本国始って確実に制定されていると思われているのは養老律令といわれるものであり、これは、大宝律令を基にして作られていると思われている。以降大まかな変更をいく度と受けたり、平安時代中期ごろには王朝体制によって形骸化したりもしたが、明治維新期までは養老律令は有効だったとみられている。
奈良時代へ入り、王土王民思想が広く浸透し始めると、すべての所有権は王たる天皇に帰属するということになった。天皇中心の親政が敷かれることになるのも、平安時代にかけての基礎になった部分になる。中心となった律令は、天皇自身に関して一切記載されていないが、天皇が出す勅令に関しては、制限をかける内容となっている。さらに、太政官を挟んだ間接統治ともなっており、必ずしも親政であったとは限らないことになっている。
桓武天皇が気付いたとされる平安京へ都が移されると、平安時代が始まる。この平安時代は、律令体制に限界が来つつも、奈良時代を引き継いでいた。一方、平安時代の初期から中期にかけて、王朝体制というのが作られた。今でいう地方分権のようなものである。中央の天皇制に対し、地方にいる土地の所有者に対して土地に税金をかけるという方式に改め、個人に対して税を払うようにしていた律令制時代から転換した。
富裕層へ税金を納めるようにしたことにより、地方の権限が強化され、地方に出仕している人々が各地方の政治的実権も握り始めた。荘園政治の始まりである。このことにより地方で財を蓄えた者たちが、護衛のために武装集団を雇いだした。これが、武士の始まりとされている。武士は天皇親政ではなく、自らが政治を握ることができるとし、反乱をおこし実際にすべての権限を担うことになった。鎌倉時代はその将軍親政の最初とされている。
・鎌倉時代~江戸時代
執権政治で有名な鎌倉時代は、本格的な武家政治と思われている。成立は1183年、1185年、1192年と分かれており、確定はされていない。天皇方である朝廷が設置した税の収集機関や荘園はそのままとして、地頭などで地方支配を確定していった。地方支配を強めていく一方で、訴訟専門機関を設置し、源頼朝がいなくなったのちは、北条家により執権が将軍の輔弼機関として創設され、将軍がいなくなっても鎌倉幕府が存続できるようになった。さらに、以降に重大な影響を残した御成敗式目も、この時代に作られている。今の日本法や、武家法の先駆とも考える学者もおり、さまざまなところへ影響を残したことは間違いない。武士に対しての権利や義務などが記された51条になる法典で、武士が所有する土地に関しての記述が当時の法典に比べては多いことがあげられる。
元寇の来襲により、幕府の威信が全国的に消失し、討幕運動の結果鎌倉幕府は崩壊した。南北朝時代が訪れることになる。後醍醐天皇率いる南朝は、天皇親政の政治を目指し、建武の親政をおこなったが、武家の対抗に負け、吉野へと落ち延びた。北朝方と南朝方が合一するのは、南北朝並立した1331年から数えて61年後の1392年だった。
合一してから、南北朝時代から室町時代へと移る。室町時代は、各地に配備された守護達が勢力を強化し自らの権限を強めることで、土地への益を強化しようと仕向けた。彼らはのちに守護大名と呼ばれるまでに強くなるが、戦国時代に負けた者も多かった。
戦国時代は、各大名の権力が強くなり、下克上の時代へと入っていく。守護大名の一部や守護大名を倒し自らを大名とした戦国大名など、さまざまな者が支配者層として現れた。彼らは、自らの領土を確定していくと種々の税を決め、領土内の治安維持などを行いながら、隣の大名の領土へ侵攻するなどを続けていた。天下統一を成し遂げた人物が現れるようになると、群雄割拠の時代も終わりに近づき、一定の秩序が全国を巡りはじめた。一方、律令制は完全に崩壊しており、朝廷領のみに適応されるようになっていた。さらに、朝廷領に対しても大名が侵攻しており、律令は完全に消滅しているのと同義だった。
戦国時代が終わり、天下統一を成し遂げた結果訪れた一時の天下泰平の世野中で、太閤検地による土地にかかる納税の仕組み、楽市楽座などにより、商店の行動が活発化した。統一的に統治するための規則が必要になると、新たな律令のようなものを制定しはじめた。
関ヶ原の合戦が行われたのちに続く江戸時代は、泰平の世の中となった。江戸へ入り、徳川幕府を中心とする地方分権政治は、朝廷の上位に存在している徳川家と、血筋のスペアとしての御三家、規則上は徳川家に対して征夷大将軍の称号を与える立場という天皇家、地方政治の主体となった各大名という存在がおり、それぞれが中央政府たる徳川幕府に対して忠誠を誓い、地方の大名領に対して自治を認めた。さらに、文化の発展にも寄与し、武家・公家に対する規則もこの時期に制定された者や、鎌倉時代に制定された者を復興させたりした。
「で、明治時代へと入っていく。明治維新に関しては、また次かな?」
伊野上が桃子に聞いてみる。
「というか、こんなグダグダのもの、自分でもう一度調べてみないと分からないって……」
「相当おおざっぱに調べたからな。仕方がないだろうさ」
「いや、そんなレベルじゃないって…」
だが、二人とも、結局気にしないことにした。
「次は、明治維新から大日本帝国憲法が公布されるまでの世の中の流れだね」
桃子が伊野上のパソコンを見ながら聞いた。
「その予定だよ」