第4話
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イルはコウモリみたいな格好のアイナについて、王都郊外を歩いていた。ここまで来ると建物の密度は大きく減り、ぽつぽつと民家があるだけ、夜燈の設置もまばらになり、星空も見えるようになってくる。ふたりが歩いているのは、ここから更に辺境へと向かう道だった。
彼女の外套は光を吸収するよう魔力でコーティングが施されていて、夜の暗がりよりも真っ黒に見える。ブーツに風魔法による防音技術を仕込んでいるのか、足音も聞こえない。魔力で駆動する、隠密衣装といったところか。今、アイナはフードを外しているので、仮面がちらちらと反射する星明かりを目当てについていけばいいが、本気で気配を隠したらすぐに見失ってしまいそうだった。
「その格好で普段から外出を……」
イルは訊ねる。その作りこみから、昨日今日で準備したものではないはずだ。アイナは仮面越しにイルを見て、答える。
「いつでもドレスというわけにはいかないもの」
「それは、何のために、ですか」
「世界を見るため。王宮の部屋だと狭すぎるから」
「……このことを知っているのは」
「もちろん、イルだけ……って言いたいところだけど、結構の人が知ってる。今から、会いに行くのもその人たち」
反戦主義の人々ですか、と訊ねるほどの勇気はイルにはなかった。そもそも、何故自分が連れ出されているのかも訊いていなかった。「そばにいて」という命令に付き従っているに過ぎない。
「……それじゃあ、イルもこれ着て」
やがて、アイナは立ち止まると、懐から彼女が着ているのと同じ外套を取り出した。
「私は魔力容量がかなり少ないんですけど、隠密の効果は持つでしょうか」
「ふぅん、流石、これの仕組みは見抜いてるのね。心配しなくても、スタンドアロンで一年は持つから平気」
「とてつもないですね」
イルは呆然とそれを受け取った。上質な服のようになめらかな手触りだが、シリコン素材が組み込まれているのか革のように硬い。防具にも兼用できるらしい。
「あと、これを。使い方はわかるでしょ」
外套を羽織ったイルに、アイナは映写カメラと記録用のシリコンリールを渡す。
「はい。私が開発したようなものなので」
「そしたら、これからの私の行動を撮影して」
「えっと……今からですか?」
「ううん、私がフードを外した時だけ」
そう言って、アイナはフードをかぶった。仮面も隠れ、辺りの暗さが増したように感じる。
「……わかりました」
アイナがどういう意図を持って、何をするつもりなのか、見当もつかなかったが、イルは何も訊かなかった。悠々と振る舞っているように見えて、その言葉の端々から緊張が感じられる。重要な仕事をしようとしているのは間違いない。イルはそこに水を差すようなマネはしたくなかった。
「そしたら、移動するんだけど……」
アイナは、ふいに不安要素を見つけてしまったかのように言いよどみ、イルのことを足下から頭のてっぺんまで見つめる。
「な、何か」
「うん、私の力でも大丈夫そう」
「ひぁっ!」
アイナがぐっとしゃがみこんだと同時に、イルの身体がふわっと浮かんだ。アイナがイルを抱きかかえたのだった。アイナの方が小柄だというのに、クライスト王の子というのは伊達ではない。
「風魔法で飛んでいくから、捕まってて」
ごうっと、空気の騒ぐ音が聞こえる。風魔法の駆動音。抱き上げられた時とは次元の違う、本物の浮遊感と重力を覚えて、イルは言われなくともアイナにぎゅっとしがみついた。
「こ、こんな使い方する魔法では……!」
目を白黒させるイルを、面白がるようにアイナの口元が緩む。
「歩いてたら夜が明けてしまうから」
次の瞬間、恐ろしい加速度がイルの全身を襲った。
アイナは、歩いたら一日はかかりそうな距離をあっという間に踏破したが、イルにとっては徒歩と同じくらい果てしなく長い時間に感じた。
「ああ……」
目的地についてアイナに下ろしてもらっても、脚がガクガクと言うことを聞かずに、膝をついてしまった。
「ごめんなさい、予告もなしに飛んでしまって」
肩を貸してくれながらアイナが謝罪する。イルは恨めしそうに見返した。
「ほ……本当に、その通りです」
「ちょっとびっくりさせてあげたくて」
「は、反省してください」
「次やるときには、ちゃんと言うから」
アイナが愉快そうに言うのを聞いて、イルは唇を固く結んだ。行きがあれば、帰りもある。もう一度、あの内蔵の踊るような恐怖に身をさらさなくてはいけないのか。「そばにいて」とは、思った以上に過酷な役割だった。
「さて」
アイナは一息吐くと、表情を変えて辺りを見渡した。
王都からはるばるやってきたのは、どこにでもあるような村だった。耕作地に放牧地帯が広がり、その傍らに見た目の全く同じレンガ造りの家々が、ぽつぽつと建てられている。土魔法を利用した自動建築機によってあつらえられたものだ。貧しくて設計図を調達できない集落などではよくある風景だった。
アイナはそのうちのひとつの扉を、何の挨拶もなしに開いた。
あまりにも当然のように入るので、特殊な一軒家なのかとイルも続いたが、中を見てぎょっとした。狭い部屋の中、並んで眠っていたと思しき三人家族が、突然の出来事にぽかんとした顔でこちらを見上げていた。
強烈な居住まいの悪さを感じたイルとは対照的に、アイナは堂々と言い放つ。
「来た。通せ」
父と母が顔を見合わせる。息子らしい少年は感情の見えない眼差しで、じっとアイナの顔を見つめていた。イルはその視線から隠れるように深くフードをかぶった。
どうしてこんな田舎の家を──と怪訝に思った時、にわかに父の方がふいに凄みを帯びた顔つきになって、口を開いた。
「アイナ様、お待ちしておりました」
父から男の顔つきになった、とイルは思った。母は少年の傍らに身を寄せ、覚悟の据わったような目つきでイルを見ている。部屋の隅にはもう使われていない布団が畳まれていた。魔物と戦う軍人は、大体こういう村から集められた若者だ。イルは映像で見た、あまりにも軽やかに舞う血を思い出し、懐の映写カメラを外套の上から触れる。
男は自分の布団をどけると床板を外した。そこには地下へと続く階段が伸びていた。イルは静かな足取りでそれを降りていく。イルもそれに続いた。
地下道は、湿った陰気な感じはしなかった。人の出入りが多くあるからだろうか。道の中央は大きく凹んでいて、最初は戦略的な機構かと思ったが、昔資料で見た王都の下水道と同じ形だった。きっと、アイナがその設計図を使ってこの秘密の場所を作ったのだ。
しばらく行くと、人の気配が一気に濃くなった。アイナが、あとではめ込まれたらしい木製の扉を開くと、そこには大きな空間が広がっていて、たくさんの人々が集まっていた。
「アイナ様!」「アイナ様だ!」「おお、アイナ様!」
口々に人々が歓呼する。アイナはどこいっても歓迎されるな、とイルは思いつつ、少し下がったところで並んだ顔立ちを眺めていると、その中に見知ったものを見つけて鳥肌がぶわっと立った。
知り合いではない。
魔物だった。
そこには人間に混じって、竜人がいた。記録映像で大量の兵士を殺していた、誰もが憎んでいるはずの魔物──他にも、獣人、狼人、塊人、鳥人、蛇人、魚人、木人、粘人等々、あらゆる種類の者たちが、当然のようにその場にいてアイナが来たことを喜んでいた。まるで、遙か未来の光景を先取りして見ているような錯覚に陥る。だが、現実だった。
イルは極力、動揺を押し隠す。イルは、人間と魔物とは永遠に対立するものだと思っている、或いは、思っていた。国民の大半はそうだ。だが、その思想はここでは異質になる。自分の異物感を極まったように感じる。一応、反戦主義者の集まりであるはずだから、バレても大変なことにはならないにしても、相手は魔物だ。それだけで恐怖だ。それに、イルにとっては仇でもある。何故、アイナは事前に教えてくれなかったのか、と疑心が起こったが、もはや、この光景は説明するまでもない、至極自然なことなのかも知れなかった。そうでなければ、反戦に及ぼうとは思うまい。
「アイナ様、そちらの方は」
竜人の魔物が言った。アイナはちらりとイルの方を見やる。
「付き人だ。疑うことはない。彼女も戦に故郷を焼かれて、それ以前の記憶を全て失ったのだ。戦を憎む気持ちは皆と変わらない」
アイナの口から語られるイルの来歴は強い説得力を持って響いた。竜人はその厳めしく凶暴な顔相に、器用にも同情の色を浮かべる。
「そうでございましたか……」
「今後のことについて、話をする。皆を集めろ」
アイナの号令で、付近の人の形をした者たちは三々五々散っていった。この地下空間はなかなかに広く、集まっている人員も多くいるらしい。反戦地下組織として結構な規模があるらしい。
「……魔物が自我を」
イルはアイナにしか聞こえないような小声で言った。魔物に友好的な個体がいるのは信じられないことだった。彼らは生命の輪廻に漂う存在のために自我はなく、一部の多量の生命エネルギーを蓄積する親玉個体を除いて、大した個性もないはずだ。
「彼らは発話者と呼ばれてる。生命ネットワークは一つの合議制のような空間になっているらしいの」
「合議制……?」
「例えば、あなたの中で葛藤が起こった時、頭の中で複数の自分が意見をぶつけ合うことがあるでしょう。仕事をしたくない自分、仕事をしなければいけないと言う自分、それぞれを取りなす自分……っていう風にね。その結節点として、彼らのような存在がたまに生まれる。大雑把に言うと、魔物国の投書みたいな人々」
「つまり……逆に、人間殺すべしという発話者もいるということですか」
「そちらの方が多数派ね。人間と同じ」
皮肉めかしてアイナが言う。つまり、彼らは生命ネットワークを根とすることで、自我がないことと、意思があることが両立しているのだ。そして、魔物の総体として、人間の殺戮という方向性を決定している。そんなこと、想像だにしたことがなかったので、イルは慄然とする。
そうこうしているうちに、更に多くの人々が集まってきた。人間も魔物も混然一体となり、もはや区別するのも煩わしく思えた。蛇人と人が演説台を運んできて、アイナの前に設置する。アイナはその上に上がると、そこでようやくフードを取った。イルは自分の任務を思い出し、急いで映写カメラを彼女の仮面をつけた顔に向ける。
「諸君、未開の古代において、われわれは同一の生命体だった」
アイナは言った。重々しい言葉遣いながら、歌うような響きさえある声音。
「戯れに箱庭である大陸を生んだ神は、創造原種の助言に従い、数多の生物を創造した。はじめは、上下左右の分別もつかないような炭素生命体であったが、数々の進化の難題を乗り越え、生命はやがて二足歩行に至った。しかし、神はこの奇怪な生物を恐れ、無力化するために分断してしまった。自然の側の魔物と異質の側の人間とに」
それは現在に伝わる大陸神話の一つだった。
大学校の文学講義などでは耳にすることはできるが、国民には膾炙していない。エイテリオンにとって、コンプレックスを植え付ける以外に、利用できるところのない神話だからだ。そんなものよりも、領土を獲得していくという現在進行形の物語の方が、よっぽど受け入れられる。
「われわれが相争うのは、まさに神の空虚な恐れのためでしかない。卑小な神の恐れを埋めるためだけに、われわれは幾人の同胞を血に返し、また骸に帰しただろうか。生命の輪廻は傷つき、悲劇は増すばかりだ。今こそ、われわれは神の古の玩具から脱するべきではないか。手を取り合い、お互いをかつての同胞として認め、神に代わって新たな創造に着手しなければならないのではないか」
アイナの声が天井にこだまする。歓声はない。しかし、観衆は静かに呼応している。それぞれの心の地下奥深くで熱狂していた。そんな中で、イルは黙ってカメラを回し続ける。
「ついに時は来る。近く、私は国軍の総指揮権を正式に獲得する。この大陸で最大の害意を持つ神の傀儡が、この地下組織最大の矛となるのだ。そして、その矛は確実に折らねばならない。粉々にしなければならない。そこで、諸君らに課す任はただ一つ……任命式において、最高位に就いた王族として私がこの仮面を取った時、素顔のアイナ・アイザック・エイテリオンの名のもと、その理念を高らかに王都の中で斉唱せよ! その瞬間、諸君らは反抗者ではなく、新たな秩序を求める探求者となる! そして、エイテリオン軍という矛を収める塚となり、真なる創造、平和への輝ける一歩を踏み出すのだ!」
アイナが言い切ると、しんと空気が静まりかえり、やがて堰を切ったように大歓声が地下空間を覆い尽くした。様々な相貌を持つ二足歩行者たちが、ひとりの少女の方を向き、その名を喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
偉大な指導者アイナ様、真なる創造、平和へと導きたまえ──。
「以上だ。皆、夜が明け次第、王都へ向かい、潜伏せよ」
最後に、鋭い指令を飛ばすと、アイナはフードをかぶって踵を返した。終わりだ。イルはカメラを止めて、その場から立ち去るアイナの後を追った。
「正気ですか」
地下道を戻りながら、イルはいてもたってもいられずに訊ねてしまった。いかに結束が固いところで、所詮は辺境に拠点を構えるしかない地下組織だ。支部があったところで、少数派であるには違いなく、社会通念をひっくり返せるとは思えない。
第一、魂の港を制圧するまでは、クライスト王はまだ現役という扱いなのだ。即座に鎮圧される光景が目に浮かぶ。
箴言に近い言葉に、冷たい言葉を浴びせられるかと思いきや、そうはならなかった。
「もちろん、こんな方法じゃダメ」
アイナがあっさりと言い切ったので、イルは面食らう。
「それでは……一体、どうやって、平和なんて……」
「……わからない」
「えっ」
その告白にイルは絶句する。わからない? わからない、ということがどういう意味か、さっぱりわからなかった。知らない言い回しがあるのかと、パニック寸前になる。
アイナは取りなすように、或いは、自分に言い聞かせるように続ける。
「違うの。私には、言葉で説明できない……ただ、こうするしかないってことだけはわかる。こうすることで、何か、私たちが望むところへいけるって確信できるの」
「私、たち……?」
「そう。私とイルのこと。あなたもきっと、同じものを感じて、同じところを見つめているはず。わからないけど、この考えが正しいことは、きっとこの仮面が空かしてくれる」
アイナは自分の仮面に手を触れる。王家の仮面。人々の関心を集めるために備え付けられた、魔力を集めるための象徴装置。
アイナはそれ以上、何も言わなかった。イルはただただ、困惑する。イルには、アイナがどこを見つめているのか、全く見当もつかない。何故、イルをそんなに信頼するのかもわからない。ただ、暗がりの地下道で、先を往くアイナにすがってついていくしかない。その感覚は、イルの最古の記憶とにわかにリンクする。
瀕死の我が身を、かつての幼き王女に助けられた、あの時と──。