第11話
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意識が収斂し、暴力的な喧噪がイルの全身を襲った。
エイテリオン王宮のバルコニー。集まった無数の群衆、その血走った眼差し、けたたましい怒声、ちかちかと点滅する感情。クライスト王の巨躯が剣を構える。
そして、イルは自らの身体を見下ろす。半透明の幽体だった。バルコニーの床が透けていた。そのことを確認して、イルは限りない安堵を覚える。
良かった。私はまだある。魔物の身体に魔法が迸っている。ネットワークは正常だ。現実がきちんと稼働している。
よし、続けよう。
「アイナ」
からん、と仮面が落ちる音がした。かつて「アイナ・アイザック・アイヴァリー」を象徴づけていた仮面──それを、存在のほどけかけていたがアイナが拾い上げる。
そこで、イルはすかさず告げた。
「あなたはアイナ・アイザック・アイヴァリー。ほかならない私、イル・トーヴァが保証する」
「ありがとう」
アイナが礼を言う。このやりとりによって名前が渡った。行き場を失っていた仮面の魔力が、新たな身体の器を見つけて殺到する。一人分の承認しかないから全盛の力には及ばないが、それでも、この窮地を乗り越えるのには十分だろう。
「霊人だ!」
クライスト王が叫んだ。その声には怨嗟がこもっていた。自らの膂力、宝剣を以ってしても仕留められなかった、忌まわしき存在。ほとんど反射的にその得物で斬りつける。しかし、今や彼の手にあるのは鋼鉄の剣でしかなく、霊人の身体を捉えることはできない。空ぶった剣がバルコニーの窓ガラスを叩き割り、悲劇的な破砕音が鳴り響いた。カサンドラ妃が悲鳴をあげた。
「ざんねん」
イルは挑発的に言い放つと、ふよふよと浮かんでみせる。久しぶりの感覚に、自由を得られた感じがした。眼下に広がる人々は、ぽかんとした顔で遙か上空のイルを見つめている。すさまじい景色だ。うっかりすると、全能になったような錯覚に陥ってしまいそうだ。
「人たちよ」
イルは彼ら彼女らに呼びかける。
「長らく私の幻術にかかり、あれこれ考えてきてくれてご苦労でした。お陰様でずいぶんと楽しむことができました」
喋る魔物を知る人間は多くない。油に浸した布に灯した火のように、瞬く間に混乱が広がっていく。あいつ、幻術と言ったのか? 俺たちは魔物の手の上で踊らされていたということか? まさか、アイナ殿下自身も魔の手に──。
イルは、全てこの霊人の仕掛けた罠である、という認識が広がってくれるのを見届ける。そうしたら、次の台詞。
「しかし、あなたがたの王女は実に聡明でいらっしゃった」
イルは大げさに言って、首を振ってみせた。
「騙していたつもりで──まんまと釣り出されたのは、私の方でした、と」
風を切る音が聞こえる。
振り返ると、宝剣を振りかぶったイルが、風魔法の飛翔によって猛烈な勢いで肉薄してきていた。その刃には強烈な光が漲っている。霊をも滅ぼす聖剣だ、と言われれば、誰だって納得できるだろう。光魔法の講習を実によく活かしている。
ここまで来ればわかってくれるはずだ。アイナがあらゆる主義の主張を擁護していたのは霊人の首根っこを掴むためだ。
ドッ、と群衆が湧いた。王女が、今、卑劣な霊人を討ち果たそうと、王都の空を馳せている。今まで、報道や映写塔での映像を通してしか見ることのできなかった魔物討伐を、目の当たりにできるかも知れない。その期待が凄まじい興奮と化し、魔力となってアイナへと集中する。
「イル、また絶対に会えるんだよね」
青空の下、念を押すアイナは実に美しい表情をしていた。
「はい。嫌なことをさせて、すみません」
「本っ当にね」
「私は悪い気がしませんけども」
大切な人に伐たれる。それは倒錯でしかないけれども、否定しがたい幸福のひとつなのだと、イルは感じていた。
「馬鹿、なんだから……」
アイナは悲しそうに漏らした。
直後、ふたりはすれ違う。魔力を宿した剣の軌跡は大げさな弧をいて、霊人の実体のない肉体を斬った。
恐ろしい寒気が全身を貫いて、やがてすぐに凪が訪れた。プラズマ状の肉体は虚空に消散し、イル自身は生命ネットワークの円環に還っていくだろう。しかし、もうそこは閉じた場所ではない。魔法の理と繋がっている。研究室を数式でびっちりと埋め尽くすくらい、四六時中にらめっこしていたあの魔法だ。怖くはない。
「また、しばらく……さようなら……」
だが、ひとまずここで、イルの時間は幕を閉じる。
そうして彼女のいなくなった世界で、エイテリオン国民は新たなる王、アイナ・アイザック・エイテリオンの誕生を見届け、かつてないほどの熱狂に包まれたのだった。




