第10話
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「私が魔物に戻ることで……ここで人間と魔物との対話が成立する、ということ、ですか……」
絶たれたはずの生命ネットワークへの縁が、魔力の抜けていくごとに少しずつ戻ってくる。霊人であった頃のイルの経験が、遡及的な記憶となって戻りつつあった。
「私が偉くなったら話してくれるんだよね」
アイナが無邪気に言う。理屈で言えばその通りだ。生命ネットワークはひとつのイデアであり、相手が魔力ネットワークというイデアであるならば、どの魔物を介しても対話ができる。法人と法人が、代表を立てて交渉をするのと同じことだ。
「はい、可能ではありますが……でも、アイナは魔物側の要請を実現できるのですか」
生命ネットワークの太さが数的なボトルネックとなる魔物は、人間の無尽蔵な増殖を恐れている。その抑制が対価になるのは自然のことだ。今のアイナに王位が渡るかは怪しい状況であり、仮に頭首になれたとしても人口の抑制など可能なのだろうか。
しかし、アイナは静かに首を振った。
「何で? そんなの、実現する必要はないよ」
「……どういう意味ですか」
「私はイルと、ずっとここでお話できるっていうだけで、十分だから──」
そう告げるアイナの眼差しには、イルだけしか映っていなかった。
「アイナ……」
イルはやっと、そこで理解した。
イルへの強い執着を抱いたアイナは、いつしか二足歩行種族の戦いから興味を失って、ただイルと静かに過ごせる空間が欲するようになったのだろう。人間と魔物というイデア同士なら、時間の流れも秩序も気にせず、永劫に近い時間を共有することができる。神の作った箱庭を飛び出して、ルールに縛られることもなく、いつまでもお喋りをすることができる。
なんて素晴らしいことなのだろうか。
そして、その素晴らしさと同じくらいに──イルは嫌だと思ってしまった。
イルはアイナの肩を掴むと、強くその身を引き剥がした。
「……イル?」
アイナは何のことかわからないように、イルを見た。そのあどけない瞳に向けて、イルは告げる。
「私は、嫌です」
「な、何で……?」
「私が人としてアイナに対して抱く親愛の情を……失いたく、ないからです」
強い口調で、イルは言い切った。アイナは目を見開く。そんなこと、思いも寄らなかったとでも言う風に。その反応にイルの感情は熱くなった。
「魔物と人間の感じ方はまるで違います。霊人として見るあなたは、ただの愉快な他人程度でしかない。でも、人として対するあなたは、とても魅力的で美しい存在で……あなたのためなら、何でもしていいと思えるほど、感情が突き動かされてしまうのです。今、私がなけなしの魔力を取られて、魔物として生命ネットワークに回帰し、我を失うと同時に……ようやく手に入れたこの想いを失うと思うと、とても辛くて……悲しいです」
「イ、イル……わ、私は……!」
アイナはうろたえたようにイルに歩み寄ろうとする、が、魔力が染み出ることを恐れて、イルに近づくことを躊躇してしまう。イルはその仕草をも愛おしく思った。
「だ、だって、私は、イルが……霊人に戻りたいのかと……思ってて……それで……」
アイナは震える声で、振り絞るように言う。今にも泣き出しそうな、かわいそうな声音だった。
「そうですよね」
それを聞いて、イルは仕方のないことだと思ってしまった。知識を得て、思索をする以外に楽しみを見いだせない者が、こんな感情を持つことができるなんて想像ができない。ラボールが聞いたら、ひっくり返ることだろう。
これも、元は霊人イルの撒いた種だ。
たまさかに訪れた、短く豊かな夢だったと思いなすのが落とし所だろう。
イルは息を深く吐くと、両手を広げてみせた。
「ごめんなさい、戯れ言でした。ただ、この気持ちが伝わってくれればそれで良いです。私はアイナの幸せを第一に願います。さあ……おいで、アイナ」
しかし、アイナはぐずる子供のように近寄ってくることはない。
「で、できない……できるわけないじゃん……、イルの馬鹿……ばか! ばかばか! 私のばか……うわあああああああん!」
「……泣かないで、ください。私は後悔していませんから」
嘘だった。もっとこの豊かな感情を持ったまま、アイナのそばにいたかった。でも、前提からして無理な話だったのだ。魔物が自我を持つなんてことは。
アイナが来ないのなら、こちらから行くしかない。
イルは心を鬼にして足を踏み出した。
「もう戻ることはできません。さあ、アイナ──」
『いや、どうとでもなるであろう』
突然、空間そのものが震えるように、何ものかが言葉を発してきた。アイナもイルも身体を強ばらせて辺りを見渡す。
そこには、一匹の老いた狼がいた。
「あ、あなたは……」
『原種創造……とか、呼ばれていた者だ』
「神話の……助言者」
イルは呆然と呟く。そうか、《空》は魔力を規定する魔法であり、その行使は限りなく箱庭の神へと近づくことを意味する。神話の存在が現れても、一応、不思議ではない。
『《空》は私が記述した魔法だ。生命ネットワークから分離させられた二足歩行生命が、自然と共にある側に負けないための力として』
「神にあだなすことを恐れたから……ですね」
『その通り。しかし、その神はもういない。とっくの昔に死んだ。二つの二足歩行生命がしのぎを削り合う意味は解消してしまっているのだ』
「死んだ? 神が?」
神話存在が現れた時点で、これ以上の衝撃はないと思っていたが、そんな見立ても軽く超えられてしまった。
『同じくして、私も朽ちている。ここに喋っているのは《空》を記述した後、余った創造力の残滓に過ぎない』
「もう……創造の力はないと」
『たったひとつだけできることがある』
そう言って、原種創造はイルとアイナの顔を、交互に見渡した。
『生命ネットワークと《空》を接続する。この残滓はそのためにあてがわれたものだ』
生命と魔力の統合。いずれも神の整備したルールだ。その力があれば両者を繋げることもできる、ということか。まさに神話的なスケールの話だ。
「人間と魔物が……一体となるということですか」
『否。太古に分離した二種だ。もう一体にはなれない。しかし、通じ合うことはできるであろう。行き交うこともできるであろう。その如何は生命にかかる』
「……イルが人間と魔物を行き来できるようになるってこと」
そこで、黙っていたアイナが口を開く。もしそうなら、イルは感情失わなくて済むことになり、アイナの目的である永遠の時空間を阻むものはなくなるだろう。
『その可能性も開かれている』
そして、原種創造の答えは肯定だった。アイナの表情に光が戻る。
「それじゃあすぐに……!」
『ただし、接続が完了すると《空》のルールが書き変わり、この空間の発動は解除される』
しかし、そんなうまいことはなかった。《空》がなくなれば、イルとアイナは任命式のあの場面に戻される。裏切り者の王女とその協力者である。その先には、いかなる魔法も奇跡も用意されていない。
「どうしよう、イル……」
アイナは途方に暮れた顔でイルを見る。葛藤が生まれてしまった以上、何かを切り捨てる選択を行うしかない。
「……」
イルは忠実な僕のように居座るこの古き狼に視線を向ける。それは、《空》と生命ネットワークを接続するために組み込まれた創造力の残滓と言った。
前に、戯れに創造を巡らせたことがあるのを思い出す。アイナのような莫大な魔力を人間が得ることを、基底魔法は想定しているのだろうか──と。
恐らく、答えは真だ。そうでなければ、対話可能な表象を残したりはしない。原種創造は魔力のインフレーションを見越していた。ネットワークの統合という発想は、何かを守るための防衛機制なのだ。
そもそも、《空》自体が人間を定礎するために組まれたルールだった。そして、人間が生まれたのは、二足歩行生命の脅威から神を守るため──。
「私たちは、《空》に残るべきではないのですね」
ネットワークのリンクによって、《空》は書き換わり、更新される。それはのこのことやってきた部外者に与えられる恩寵なのではなく、追い払うための手段なのだ。
この狼が現れたのは、イルとアイナが留まることを決めたタイミングだった。それは悲劇的なふたりを憐れんでのことではなく、単に許されざることだったから。
原種創造はすぐには応えず、周囲を見渡した。その素振りには、何かを懐かしむような気配が感じられた。
『ここは神と私の墓標でもある。箱庭の外にはあまねく混沌が広がっている。その中、労苦の果てに作り上げた箱庭のもとで、せめて孤独で安らかでいたいという意思が、この私を残したと推察される』
それはアイナの願いと同じなのかも知れない。ただ、そばにいられるだけでいい。ただ、静かにいられるだけでいい。ただ、放っておいてくれれば。
イルは、そこに黄昏を見た。これ以上にない、端的な意味での終わりだ。
しかし、この風景に比べれば、私たちは──まだ始まってすらいない。
「アイナ、戻りましょう」
イルは告げた。アイナは今にも崩れ落ちてしまいそうな顔をした。
「イル……でも、私たちは戻っても……」
「生命ネットワークと魔法ネットワークが接続された後ならば、あの絶体絶命も乗り越えられるはずです。そして、アイナは今度こそ、人間の王となるのです」
「私が……王になって、今更、どうするの?」
まるで、出会ったばかりのような、自信のなさそうな表情を見せるアイナ。そんな彼女を勇気づけるように、イルは言った。
「ずっとそばにいられる、私たちの世界を作りましょう」
やがて、相談を終えたイルとアイナは、ふたりで原種創造に向き合った。
『意思は決まったか』
「決めました」
アイナが答えて、言った。
「ネットワークの統合をしてください」
『了解した。本来であれば、生命と魔法、それぞれのイデアを立てなければならないが、たまさかにも、ここに両者の代表が揃っている』
老いた狼は、イルとアイナをそれぞれ見やると、ふたりの間に割って座した。仄かに発光を始める。淡い光なのに、どうしてか直視できないほどに眩しく感じた。
『私の創造力を発露する。じきに双方の身体はこれを媒に、解けて融和を始めるであろう。意識は薄れていくが、恐怖を覚える必要はない。全ては表現である』
「……はい」
『私の使命はここに終わる。健闘を祈る』
それだけ残して、原種創造は光へと発散した。その輝きはまたたくまにふたりを包み込む。イルは強い引力を感じて、アイナに引き寄せられる。アイナも同じように近づいてきて、やがて、ふたりの輪郭が触れ合う。
アイナはイルを見上げる。その瞳には、見たことのない色の光が瞬いている。
「イル……私たち、とんでもないことをしちゃったみたい」
「本当に、とんでもないですよ」
「ただ、そばにいたいと思っただけなのに」
「素朴に思えて、限りなく奇跡に近い願いなのかも知れません」
「まだ叶わないっていうの」
「いいえ、じきにきっと、叶いますよ」
「そうね」
アイナの微笑む顔がすぐ目の前にある。イルは自分も同じような微笑を湛えていることに気がついた。不思議な感触が胸の奥に広がった。とても安らかで温かい、親愛の情だった。
全ては表現である。ここでの出来事は虚構でしかあり得ないのかも知れない。
だが、それによって動かされる心はある。どこか、ひそやかな場所で。
ふたりは身体を重ね、キスをする。
脈動が共振する。なめらかに繋がっていく。
生命と魔法のネットワークがここに結節し、《空》は書き換わった。




