~黒衣の男~
楽しんでもらえるかなぁ。
「こんばんは、こんな夜更けにお散歩ですか?」
暗闇から溶け出たような、ドス黒いローブの奥に隠れた口が弧を描くのが見えた。
声の感じからすると、おそらく若い男性だろう。場違いなほど優しい声だった。
まるで街中で知り合いに出会ったかのような、そんな気軽さを感じさせる声色だ。
その異様な雰囲気に、わたしは思わず後ずさった。
逃げなくちゃいけないと本能的に悟る。
でも足がすくんで動けない。恐怖で身体が震える。
助けを求めたいのに、喉から漏れるのは掠れた息の音だけだった。
黒衣の男はゆっくりとした動作で、手に持っていた杖のようなものを地面に突く。
カランという乾いた音が響き、それと同時にわたしの周りに光の輪が現れた。
魔法陣のような紋様が描かれた光の壁が、わたしを守るようにして現れる。
男はそれを確認してから、再び微笑んだ。
慈愛に満ちたような笑み。
まるで子供に絵本を読み聞かせているかの様な、柔らかな語り口でわたしに言った。
「危ないですから、ね。もう大丈夫ですよ」
ふいに差し込んできた月明かりに照らされて、彼の姿が露わになる。
フードから覗いている白い髪が月の明かりを柔らかに受けて光っていた。
口元は最初から変わらないままの、ゆるやかな弧。
澄んだ湖のような蒼い瞳をこちらに向けながら、静かに微笑んでいた。
わたしは今まで見たことのないような不思議な雰囲気を持つ彼に、少しの間魅入られてしまっていた。
先程まで感じていた絶望感や焦燥、恐怖などは全て消え去り、ただ彼の存在だけがわたしの心を支配していた。
わたしが黙って彼を見ていると、彼はまた優しく笑いかけてきた。
「怖がらせてしまってすみません。僕はあなたを助けに来たんです」
助けに……? どういうことなのかよくわからないけれど、少なくともこの人は味方のようだ。
彼が発する言葉の一つひとつが穏やかで心地よい。
ずっと聞いていたくなる。
わたしの警戒心が解けていくのを感じたのか、彼もまた安心させるように笑みを深めた。
そして、わたしに近づきそっと抱きしめた。
突然の事に驚きはしたものの、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろその抱擁は温かくて、とても懐かしくて……
わたしの頬を涙が流れ落ちる。
その雫は、抱き寄せられた胸元へと吸い込まれていった。
わたしの背中に回された腕の力が強くなる。
それは、わたしの心を落ち着かせるには十分すぎるほどの力を持っていた。
まるで、母の腕に守られているかのように感じる。
わたしは無意識のうちに、その胸に顔を埋めた。
温かい。
まるで、わたしの中に流れ込んでくるかのように、その体温を感じる。
心の奥底にある何かが満たされるような感覚。
その優しさに身を委ねるようにして、わたしは言った。
「助けてください」
それは、自然と口から零れ落ちたものだった。
心の奥深くにあった感情が溢れ出すように、わたしの口を通して外界へ出て行く。
それを聞いた彼は、わたしの頭を撫でると、優しい声で答えてくれた。
――ええ、もちろん。
その言葉を言い切る前に、彼の胸から剣が生えた。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
剣が突き刺さった衝撃で、彼とわたしは弾かれた様に離れる。
彼は苦しげな表情を浮かべながらも、わたしに向かって手を伸ばした。
しかしその手が届くよりも先に、横合いからの斬撃によって吹き飛ばされてしまう。
地面に叩きつけられたわたしは、痛みに耐えて起き上がった。
目の前では、黒いローブの男――黒衣の男が、血を流して倒れ伏している。
その体からは、赤黒い液体がじわりと広がっていく。
その光景を見た瞬間、わたしは全身の血が凍り付くような錯覚を覚えた。
心臓が激しく鼓動を打ち始める。
(なんで?どうして?)
頭の中で疑問の言葉ばかりが浮かんでしまう。
(わたしのせいで?)
(どうしてこんなことに?)
(どうして?)
(どうして?)
ぐるぐると同じ疑問が頭を巡る中、不意に視界の端に人影が映った。
ハッとしてそちらに視線を向ける。
醜悪な顔をした男達が、わたしを取り囲んでいた。
男達は手に持った武器を振りかざすと、わたしに襲いかかってきた。
男達の動きが圧倒的に早い。
逃げられない。
もうダメだと思った時だった。ふいにわたしの前に誰かが立ちふさがる。
――鎧の死体だった。
彼はわたしを庇うようにして立ちはだかると、向かってきた男たちを斬り伏せる。
どうして死体が私をわたしを守ってくれるのだろう?そんなことを考えている間にも、次々と男達の首が落ちていく。
瞬く間に、その場に立っている人間は二人だけになった。
眼帯を付けた野獣のようなひげを生やした大男と、鎧の死体。
「てめぇは、てめぇは何なんだ!」
男は青ざめながら叫ぶように言うと、鉈のような剣を構えながらゆっくりと後ずさっていく。
その瞳には怯えの色が見て取れた。
「彼はね、生前騎士だった男だよ。」
いつの間にか、わたしの隣には先程の青年がいた。
その声は先程までの柔らかなものではなく、どこか悲し気な感じのするものになっていた。わたしは思わず彼を見る。
彼は微笑みを湛えたままだった。
しかし、その笑顔は先程までのものとは全く違うものに見えた。
わたしの身体に鳥肌が立つ。
彼はわたしに背を向けたまま、語り始めた。
「彼は、とても正義感のあふれる人でね。人を護るということに誇りを持っていたんだ。」
彼はそのまま言葉を続ける。
その口調は、まるで物語を読み聞かせているかのような穏やかなものだった。
――彼は、ある貴族の子息の護衛をしていた。
その家は代々優秀な騎士を輩出しており、彼も例外ではなかった。
護衛の任務についている間は、常に主人である貴族とその家族、そして彼の仲間達の事を第一に考えて行動していた。
その生活は充実しており、とても幸せなものであったと彼は語る。
ある時、屋敷に賊が入った。
それは、本当に突然の出来事であったらしい。
彼はその時、主の部屋で待機をしており、すぐに駆けつけることができたのだという。
部屋に入った時には既に遅く、そこには血まみれで倒れ伏す家族の姿があったそうだ。
彼は必死に呼びかけたけれど、返事はなく、やがて事切れた。
そして、彼の目の前には一人の男が立っていたという。
その男は、この国の大臣を務める人物の息子であり、次期国王となるべき存在でもあったのだ。
――この国は腐っている。この国を変えるためには力が必要だ。
そう言って、その人物は彼に近づいて来た。
――俺と一緒に来ないか?お前の力が必要なんだよ。
その言葉を聞いた瞬間、彼は全てを理解したという。
その人物が、自分が仕えるべき主君ではないということを。
彼はその誘いを断った。
すると、その人物は激昂して、家臣に命令を出して襲い掛かって来る。
いくら優秀な騎士といえど、多勢に無勢であっけなく殺されてしまった。
「それから彼は、秘密裏に山奥へ埋められてしまってね。 彼の無念さが周囲に満ちていたよ」
彼はそこまで話を終えると、わたしの方へと振り返った。
その顔には、いつもの優しげな笑みが浮かんでいる。
わたしは、その顔を見て、なぜか安心してしまった。
わたしは無意識のうちに口を開く。
――あなたはどうしてそんな事を知っているんですか?
わたしの言葉を聞いた彼は、寂しさを感じさせる表情を浮かべながら言った。
「彼から聞いたんだよ。直接、ね。」
――えっ……
どういう意味なのか、わたしはすぐにはわからなかった。
まさか、死体が喋っていたとでも言うのだろうか。
わたしがその考えを口にしようとした時だった。
「彼はね、その貴族はもちろん、賊の事も恨んでいた。」
冷たい空気が辺りに満ちる。
「彼に話を聞いた後、ボクはその子爵の屋敷に行ってね、話を聞いてきたんだ。」
彼の周りに、揺らめく光がポツポツと現れ始める。
「その時聞いた賊の話をもとに情報を集めて、やっと突き止めた。だから、今こそ彼らの思いを晴れさせてあげられる」
光はどんどん増えていき、最後には数え切れないほどの数になった。
大男は恐怖に震える声で呟いた。
「死霊……術師――」
もはや土気色になった顔を
さらに青くしながら、その言葉を絞り出す。
黒衣の青年は、穏やかに微笑んだ。