第088話 『聖戦』⑤
空中に黒点が発生する。
誰もが茫然と見上げる中、それは漆黒の閃光を迸らせながら徐々に人間大の黒洞にまで巨大化したと同時、その位置に禍々しい黒魔法光を噴き上げる人型を吐き出した。
この現象は、単なる転移とは明らかに違っている。
ただ距離をゼロにしただけではなく、まったく異なった空間とこの世界を繋げるがためにこそ、特殊な手順を踏まれていることは間違いない。
吐き出されたその人型が人間だった時の名を、マーク・ロスという。
ソルの幼馴染の一人であり、元『黒虎』のリーダー。
今のソルがいるような立ち位置に憧れてやはり届かず、その絶望に付け込まれて『勇者』に身を堕とした、哀れな『村人』の成れの果て。
これを造り上げる時間を稼げさえすれば、『旧支配者』たちにとっての聖教会は充分に与えられた仕事を果たしたとさえいえる。
そしてこの場に投入されるということは、急造とは言え間に合ったのだ。
そして役目を果たし終えた聖教会は『旧支配者』たちにとって特段必要でもない。
どうせこの後人の数を一定まで減らし、千年前と同じような偽りの『勇者救世譚』を騙るのであれば、この場で忌むべき敵もろとも殲滅してしまえばいいだけなのだ。
全身から漆黒の雷光めいた魔法光を噴き上げ、翼こそはないが巨大な両角と朱殷に染まった竜眼という人造魔導器官が、マークがすでに人を辞めていることを雄弁に物語っている。
その上『旧支配者』たちから与えられた時代錯誤遺物級の特級装備に身を包んだ今のマークは、とんでもない戦闘力をその身に宿している。
だがその力と引き換えに、まともな思考能力と残りの生命力をたった100時間余りに圧縮されるという代償を強制的に支払わされてもいる。
もっともマーク本人はそんなことを知らされているはずもない。
いや今のマークであれば、知らされていてもさほど気にもしないだろう。
今マークを支配しているのは、増幅された憎しみを苗床に植え付けられた強烈なソルへの殺意だけだ。
もともと整った顔をしているマークなのだ、この姿になっても、いやなったからこそすました顔をしていれば美形の魔族で十分通用するだろう。
だが今その表情に宿っている狂気と、落ち着かなげにしている姿勢の悪さがただただ不気味さだけを助長している。
なまじ容姿が整っている方が、奇行の際の嫌悪感は高まるらしい。
「どこだ、どこにいるソル。俺は強く、すごく強くなった。お前の力なんかに頼らずにだ。どこだ、殺してやるから、はやく…………あ、王女様だ」
当たり前のように空中に浮遊しながら、子供のようにきょろきょろと周囲を伺ってソルを探している。
だがマークは戦場のど真ん中上空に顕れたため、もっとも至近距離にいたのは人造天使を殴り落したままその位置に浮いていたフレデリカだった。
その美しい姿を見つけて、マークの瞳に僅かに理性の光が戻る。
「貴方はマーク・ロス……なのですか?」
だが視線を合わせてしまったフレデリカは、自分が震えないようにするのが精いっぱいだった。
全竜の幼女形態を男にして成長させたような、外連味たっぷりの今のマークの見た目を笑うことも出来ない。
自分とてたかが一ヶ月という短期間でこれだけの力を身に付けた――ソルに与えられたのだが、敵側にはそれすら凌駕しうる手段があるとわかったからだ。
――私では絶対に勝てませんね。
ソル一派の中でもまだ数人しかいないレベル4桁に至ったうちの1人でありながら、いやそこまでの強さを身に付けたからこそ、今目の前に平然と浮かんでいる落ち着かなげな男がとんでもない戦闘力を有していることがわかってしまう。
彼我の戦力差が一定を超えてしまえば、どれだけ強くなっていても「自分を瞬殺できるほどに強い」ということ以外わからなくなってしまう。
今フレデリカが怯えてしまいそうになるのは、強くなった今のフレデリカが全竜に感じるそれと同じものを目の前のマークにも感じてしまっているからに他ならない。
だがなんとか自分を奮い立たせる。
レベル2桁の兵士たちから見れば全竜も自分も同じに見えるのだという事実をこの一ヶ月で実体験していなければ、もっと慌てていただろう。
「そうですよ、俺がマーク・ロスですよ。近衛に入って華々しく活躍し、貴方に惚れられて王配となる将来の夫です。ソルを殺したらそうなりますよね? 大丈夫まだ間に合います。あれ? なんでお前俺の女なのにソルに媚び売ってんだこのクソ売女が」
もはやマークは理路整然とした思考ができなくなっている。
最初は緊張気味に、途中からはへらへらと、最後は激昂して唾を飛ばしながら喚き出している。
野望と妄想と希望と絶望と妬みと憧れと怖れと欲望と――そのすべてが現実に溶けて狂気というカクテルに仕上がってしまっているのだ。
それに酔っていなければ、ありとあらゆる負の感情に押しつぶされて生きてさえいられない。
「――あら怖い。別に貴方でも構わなかったのですよ私は。貴方がソル様と同じ力をお持ちか、ソル様と完全な信頼関係を築けているのであれば貴方の女になるのでもよかった。私はエメリアの第一王女ですから。手順を間違いましたね」
圧倒的強者から叩きつけられた殺意にひるまず、フレデリカが自分らしく言い返す。
この場で情けない姿を晒すわけにはいかない。
だから無理をしてでも、想いきり挑発してやった。
それに言っていることは別に嘘でもない。
この一ヶ月の間にソルと親交を深めた結果、おためごかしや媚を嫌うわけでもないがそう好みもせず、逆に常にいかにも王女らしく優しく美しく振舞っているフレデリカが素――二人の兄をも超える実際的にすぎる思考を口にしたときにこそ、ソルは喜んでいるように見えた。
定番の純情初恋清楚系はリィン。
圧倒的な力で代替の利かない相棒&疑似愛娘ポジションは全竜。
ソルにも本人にもその気はないとはいえいかにも愛人という立ち位置にはジュリア。
ピグマリオン的育成枠はエリザ。
すでにソルの周囲は充分にハーレムめいている。
大国の王女様という立ち位置もハーレム物の定番ではあろうが、役が被るのはよろしくないというのは迷宮攻略パーティーでも、ハーレム物でも変わらないだろう。
だから敢えてフレデリカはいかにも王女らしく振舞いながらも、ソルに対しては実利こそを最優先において振舞う小賢しい女ポジション――自分でもらしいと思える素の路線で攻めると決めていた。
そしてそれはこの一ヶ月、奏功していたと言っていいだろう。
だからこその先の物言いであり、ソルと出逢うまでのフレデリカであれば一片の曇りなく本気の言葉としては口にすることも出来ただろう。
だが今はちょっと複雑だ。
朴念仁のソルにはそのあたりピンときはしないのだろうが、横暴に振舞わない絶対者の側に実際的思考の持ち主が居続ければ、実利を軸足にしてはいても慕情というのはどうしたって生まれてしまうモノなのだ。
王女であろうが傑物であろうが、フレデリカだって一人の女の子なのである。
そういうあたりが強いよなあと、リィンやエリザからは強敵と見なされているフレデリカなのだが、自己評価はそう高くないらしい。
「殺す! コロシテヤル!」
そんなことを知る由もないマークにしてみれば、一番憧れていた女性から見下されたという激情が、あっさり殺意に直結する。
今のフレデリカでは不可避の一撃を怒りにまかせて叩きつけんと一瞬で距離を詰める。
だが信じられない轟音を発生させながら、その一撃は下方からの一撃で弾かれた。
「よう言うた王女様。さすが主殿の「はーれむ・めんばー」の一人よな」
完全に戦闘態勢に入っている全竜が、全身から魔力光を噴き上げながらマークの前に立ちふさがったのだ。
当然のその背後にはソルも浮かんでいる。
「フレデリカらしいけど、あんまり煽ったら危ないよ。カッコよかったけど」
そう言って笑うソルに、そういうところですわーとフレデリカは思う。
御伽草子の『拳撃皇女アンジェリカ』でも、主人公が恋に落ちるのはこういう展開からだった。
自分だって一人の女の子なのだ、こういう憧れのシチュエーションを再現されてしまえばコロッと行きかねないことをソルにはもっと理解して欲しいと思うフレデリカである。
「ソル! そるうぅぅううぅぅぅぅ!!」
そんなフレデリカの甘酸っぱい感情などお構いなしに、ソルの姿を視界にとらえて狂気とも驚喜とも恐怖ともつかない叫びをマークがひしり上げる。
「なんだよ元リーダー――しばらく見ないうちに、すごく雰囲気変わったね?」
ソルの方もこのマークが真打だと理解しているので、落ち着いたものだ。
世界を裏から支配していると信じている者たちの、当面の切り札はこれだ。
つまりこれを処理してしまえば、ソルの夢を阻む当面の障害は取り除かれる。
そう理解しているからこそ、ソルのその表情には幼馴染が変わり果ててしまったことに対する憐憫よりも、邪魔を排除できるという喜びを示す獰猛な笑いが浮かんでいる。
これより千年の時を超えて、『勇者救世譚』の再戦が行われるのだ。
急造の二代目『勇者』と、いまなお真躰を封じられたままの『全竜』によって。
だが千年前と明確に違うのは、そこにすべての戦いの理を覆す、『プレイヤー』が介入していることである。




