第126話 『神なる獣』①
『秘匿神殿圕』の入り口である水面に、ぽつぽつと気泡が浮かび上がる。
ソルたちが水面下に消えたからとて「はい解散!」とできるはずもないイシュリーをはじめとした聖教会御一行は、彼らが知るのとはまったく別の顔を見せている石の神殿の前でソルの帰還を待ち続けていた。
そのソルが沈んでいった先から浮かび始めた気泡は徐々に大きくなり、やがて水面を揺らすほどのものとなる。
中でなにかがあったことは疑いない。
気泡に続いて赤い液体――血でも浮かび上がってきた日には大事では済まない。
慌ててイシュリーだけではなく考古学者たちも距離を置いていた水際まで駆け寄り、沸騰したかのように気泡を生じさせ始めた水面下――『秘匿神殿圕』を覗き込む。
その瞬間。
どおん! という肚に響く低音と共に爆発的な水柱を生じさせながら、なんとか入り口である円内に収まるまでに大きさを抑えたルーナの魔創義躰が、超スピードで上空へと駆け上がる。
教皇庁の高さを超えてからは本来の大きさに戻り始め、ものすごい速度で上昇しているにもかかわらず、徐々にその輪郭が大きくなるという矛盾をイシュリーたちは口を開けて見上げるばかりだ。
遥か上空でほぼ直角に進行方向を変えた魔創義躰の巨躯が、一瞬で視界から消え去る。
そのタイミングで噴き上げられた大量の水柱が地上へと降り注ぎ、イシュリーたち全員を豪雨に見舞われたかのように濡れそぼった姿へ変じさせた。
わりと酷い。
『イシュリー教皇猊下! ちょっとガルレージュで緊急事態が発生したので急ぎ戻ります! 申し訳ありません。『秘匿神殿圕』の蔵書はすべて入手完了しています、片付いたら連絡しますのでエメリア王都マグナメリアまで、考古学の先生方と一緒に来ていただければ助かります! 無理ばかり言ってごめんなさい!』
「滅相もありません、すべて仰せのままに」
『お願いします!』
びしょ濡れで茫然としたまま魔創義躰が消え去った上空を見つめることしかできないイシュリーの眼前に、ソルからの表示枠が浮かび謝罪の言葉を伝えてくる。
ソルをして慌てるだけの事態が発生しているということらしい。
であれば自分を含めた聖教会関係者を濡れ鼠にすることくらい、なんの問題もない。
その程度のことに対して、わざわざソルが謝罪の言葉をこうして伝えてくれたという事実の方が、今のイシュリーにとってなによりもありがたい。
待ちぼうけた上に水をぶっかけられた程度で絶対者からの謝罪の言葉を皆の前で受け取れるというのであれば、教皇専用の司祭平服の一着や二着お安いものだ。
そればかりか現状を可能な限り伝えてくれた以上、イシュリーとしては遅滞なくそれに応えるように動くのみである。
イシュリーは自身を無能だとは思っていないが、フレデリカをはじめとした現ソルの頭脳陣たちにはとても及ばないことも冷静に受け入れている。
イシュリーの立場であれば、「よきに計らえ」よりも具体的に「こうせよ」と言われた方が、間違いがなくて助かるのだ。
「……さて先生方、出発の準備と参りましょうか」
「ソ、ソル様は連絡をすると仰っておられましたが……」
ゆえに張り切ってそう告げるイシュリーに対して、他の者はなぜそこまで早急に動くのかに疑問を持っているらしい。
ソルが今やこの世界の持ち主と言っても過言ではないほどの絶対者だと頭では理解していても、そんな絶対者が慌てる事態であればこそ、その趨勢を見極めてから動いた方がいいのではないかということらしい。
幸いにして「そうする」ようにソル本人からも言われているのだからと。
「ははは、ソル様の手に負えない事態が起こっているのであればどのみち世界は滅びます。それが意志持つ存在の仕業だったとして、すでにソル様に与している我々がどう扱われるかなど誰にもわかりません。だからこそ今我々はソル様に従う者としてできることをやるのです」
だがそれを嗤い飛ばすイシュリーである。
一度目はまだ許されるだろう。
だが何度もそんな「日和見」を許すほど、支配者は――支配者の脇を固める者たちは甘くもなければ寛容でもない。
実際がどうかは知らないが、知恵も力も足りぬ身であればそれを前提にして動くべきなのだ。
それを誰に言われずとも理解できる程度にはイシュリーは頭が回る。
「……はあ」
「ピンときませんか」
だが考古学の学者先生たちの鈍い反応に、イシュリーはため息をつく。
一方で自分が残した旧体制の中枢を担っていた者たちは顔色を変えて理解しているようなので、一定の安堵も得てはいる。
「ソル様が旧聖教会を鎧袖一触したように今回の緊急事態が片付いた場合、その趨勢を間抜けに見守って動いていなかった我々がソル様――だけではなく、その側付きの優秀な首脳陣にどう見えるかというお話ですよ。私は即座に向かいます、それがお厭ならご自由に」
「いえ……申し訳、ございませんでした」
「先生方がわかってくださって、私も嬉しいです。さて急ぐとしましょうか」
流石に明確に言語化して伝えれば、先生方も理解してくれたらしい。
以前のイシュリーであれば「これだから学者共は」と口には出さないまでも、内心では蔑んでいたかもしれない。
だが今のイシュリーは、話してわかってくれる相手がどれだけありがたい存在なのかをよく理解している。
世の中には自分ではどうしようもない絶対者を前にしながら、なぜか己の権利だけは守られるべきだと妄信できる阿呆が信じられないほど多いことを、この短期間で嫌というほど思い知っているゆえに。
弱者には権利などなく、義務すらもない。
それを強者から与えられていることに感謝することもできないほど、人という種の一部はこの千年で思いあがってしまっているのだ。
一方、アムネスフィア皇国領上空を、最寄りの『龍穴』へ向かって超高速で移動しているソルは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべている。
「油断したなあ……」
表示枠による緊急通信は、リィンたちからのものだったのだ。
だがそれは暴走した神獣アヴリールの結界に阻まれて、今は通信不能状況に陥っている。
発生した緊急事態とは、ソルや全竜、妖精王が一定以上の距離まで離れ、ある程度時間が経過した上で起こった『神獣』の暴走である。
『秘匿神殿圕』の調査には特に必要でもなく、今のアヴはただの愛玩動物枠だと甘く見ておいてきたことが災いしたのだ。
「獣はもともと憑くモノでした。主殿が仰っていた白と黒の違いにもっと留意しておくべきでした」
「お互い反省だね。だけど幸いにしてリィンたちがなんとか留めていてくれているっぽい。僕たちが到着するくらいまでは充分持つ……と思う」
ソルが『召喚』の際に見た手札に描かれていた『死せる神獣』は純白の毛皮をしていた。
それが黒く染まっているのは、『大深度地下空間』で死に絶えた獣人種たちと、おそらくはアヴリール自身が殺される際に己も世界も呪った『呪詛』に穢れていたからだったのだ。
小動物として逃れていた意思を宿した分身体を憑代に、再び世界に満ちた外在魔力を吸収して再起動した真躰が地上へと顕現したのだろう。
分身体すら呪詛に黒く染まっていても正気を保っていたアヴリールの意思は、生前の自身と、自分が守るはずであった獣人種たちの千年を経ても褪せない呪い――怒りに呑み込まれたのだ。
だがまだなんとかソルが落ち着けているのは、リィンたちが神獣アヴリールの暴走を食い止めていてくれているのを映像で確認できているからこそだ。
「リィン様とフレデリカ様の御二人でも、我の魔創義躰に対して半刻は持ちますからね。そこにジュリア様とエリザ様が加われば我らが戻るまでであれば充分でしょう。もしかしたら不完全な神獣程度であれば倒しきるかもしれません」
「頭上がらなくなるなあ……」
「それもまたよろしいのでは?」
通信は不可能でも、城塞都市ガルレージュ近郊で神獣を囲んで攻防を繰り返している『固有№武装』を展開したリィン、フレデリカ、ジュリア、エリザの姿を直上から捉えた映像が表示枠のひとつに映し出されている。
圧倒するには至ってはいないので、ルーナの評価はソルを安心させるための冗談の類だろう。
だがこの4人であればレベルがみな4桁に至っており、疑似魔導器官である『光輪』の稼働時間の制限は実質ないと言っていい。
つまり現時点で拮抗できているということは、問題となるのはソル不在のため『固有№武装』が使用可能な武技、魔法、スキルの再使用可能待機時間キャンセルができないことと、『固有№武装』そのものが全力の超過稼働にどれだけ耐えられるかという点だけだ。
そしてそれらは今からソルが現場へ到着するまでの小一時間程度であれば、充分なんとかできる範疇だと判断できる。
だからこそソルはまだこうやって、まだしも落ち着いていられるのだ。
なによりも格上との戦闘に慣れているリィンとジュリアが現場にいてくれることが心強い。
彼女たちなら『プレイヤー』の能力が使えない状況を前提としての戦闘構築も十分可能だと信頼しているのだ。
大きな借りにはなるが、確かにルーナの言うとおりそれもいいのかもしれない。
無茶な要求の一つや二つには応えないといけない関係の方が、まだ健全だと思うから。
「ははは。まあここからでもできる援護はしておこうかな」
とはいえそういう意味ではなく、心配である事には違いない。
であれば直上からの映像を捉えているだけに留まらず、4人での戦闘を楽にする援護射撃程度はしておくべきだとソルは判断した。
それと同時、ガルレージュ方面の遥か上空から光の槍が成層圏から降り落ちる。
だがそれは着弾直前に神獣が展開した障壁に阻まれて霧散した。
「さすが神なる獣、『神の雷』くらいは余裕で弾くんだね」
直上からの映像を捉え、今また『神の雷』を神獣に向かって放ったのは聖教会が保有していた中で最後に残った攻撃衛星――逸失技術兵器『第Ⅶ衛星』によるもの。
『プレイヤー』が掌握した逸失技術兵器をソルは行使しているのだ。
さすがに怪物たちの一角を占める神獣には通用しないようだが。
「ですが意識を上空にも割かねばならないことは明確です。よい援護かと」
だがルーナの言うとおり、障壁で防がなければいけないということは喰らうのは拙いということでもある。
神獣の警戒意識をいくらかでも上空に割けるのであれば、4人がより戦い易くなることは間違いない。
あとはソルと全竜、妖精王の現着を急ぐだけだ。
同じ怪物同士であれば彼我の戦力差が2対1、それも絶対的強者である『全竜』がいる場において、暴力でソルの意に逆らうことはもはや何者にも不可能なのだから。




