Point2-16「悪魔の追憶」
――行こうっ! 広い世界を見に行くんだ!
そうして差し出された幼い少年の手を、じっと見つめる。そのまま、無邪気に笑う少年の笑顔に目が吸い寄せられた。緩く波打つ茶色の髪に、王族の証である碧眼が柔らかな輝きを宿している。
神殿での修行が辛くて、逃げるようにしてやってきた塔の上で、「私」は彼に出会った。
少年はいつだって「私」の知らない先を見据えていて、その言葉には希望が宿っていた。
彼の話す「夢」を聞く度に、「私」も彼と同じようにこの国の遥か遠くまでを見通すことができた。それは幼い「私」の心すらも、自由に空へと飛び立たせるには十分な瞬間だった。
いや、当時の「私」はそう勘違いしていただけだった。
乱れる水流に、沈殿していた意識が浮上する。
地下の神殿にたまった水床より起き上がれば、先程まで胸を苦しめていた感情が流れ出す。ものの数秒で、あらゆる感情が押し流されていく。凪のように鎮まった心には、いかなる感情の起伏も存在しなかった。
やがて巡り出す思考に、アシュルは意識を向けた。ダンジョン内を巡る水の循環が鈍っていたようだ。滞らせてはならないと、すぐさま意識を集中させる。不足した魔力はだいぶ回復したようだ。全身から魔力が出ていくと同時に、ダンジョンを構成していた一部の魔力が戻って来た。
「……第三階層を、突破された?」
驚きのあまり、光の差さない神殿の天井を仰ぐ。青い宝石のような両目が映すのは、石壁を突き破って根を伸ばす大樹と、己の身体とこのダンジョンを繋ぐ水床のみであった。
かつてこの神殿に祈りを捧げに訪れていた人々の姿はなく、また彼らが心の拠り所にしていた背に翼を持つ女神像は大樹の根に呑まれてもはや足元しか見えなくなってしまっていた。
意識を再び循環する水流へと溶け込ませる。
侵入者たちは地下墓地へと入っていくところだった。
「長く……眠り過ぎた」
己の中へ戻って来る水が、第三階層での経緯をアシュルに告げる。
このまま第四階層も突破されてしまえば、侵入者たちはアシュルのもとへ辿り着いてしまう。
しかし、アシュル自身が迎え撃つならば下手に第四階層へ魔力を回すのはかえって危険だ。お世辞にも多いとは言えない己の魔力をこれ以上割くことはできなかった。
「最適解を……何かないだろうか――」
アシュルの魔力の大半を割いて形成した第三階層を突破した侵入者たちである。その実力は十分脅威であるとアシュルは認識を改めた。同時に、己の眷属たちだけでは心もとない。ならばアシュル自身が戦うことは必然であり、確定事項と言っていいだろう。
――お前はそうやって、安全な場所に居座っているからこの国が置かれた状況を見えていなんだっ!
ざわりと己の身体を形成する水が跳ねた。己の手を見下ろす。透けて透明な己の腕が、一瞬、真っ赤に染め上げられた。動揺のあまり、人の姿を保てず水床へと崩れ落ちる。無数の空気の泡が薄暗い水面に向けて上っていく。
太い腕が伸ばされ、顎を掬い上げられる。どこか優しげな手に頬を撫でられた気がした。こちらを見下ろす碧眼が、悲しみに揺れていた。
――どうして……最後まで俺を信じてくれなかったんだ。
「……」
再び水床から起き上がり、己の手を見下ろす。透けた腕が、大樹の根の茶色を映した。見慣れた色のない身体。紅に染まったように見えたのは、まやかしだろうか。それとも、アシュルを形作る幾百もの記憶の残滓だろうか。
見つめる手のひらをぐっと握りしめる。
今は余計なことに思考を巡らせている場合ではない。考えねばならない。侵入者たちをこのダンジョンに引き留め続けることができれば、アシュルの目標は達成される。後は、のんびりとダンジョンの侵食率が規定値を超えるのを待てばいい。さすれば、中間世界への進出の足掛かりとして、アシュルはアルディナスの恩に報いることができる。
「であれば……」
アシュルは思考を巡らせる。彼女の肉体を構成する水が、素早く流れ去り、再び己の中に戻って来る。アシュルがすべき、最善の手は……侵入者たちを閉じ込めることだ。
「上位権限者より、ダンジョンに接続」
ダンジョンを巡る水量が一時的に多くなる。激しく消耗する意識をどうにか繋ぎ、アシュルは己の眷属たちに厳かに命じた。
「囲え」
やがて激しく巡っていた水流がその速度を落とす。水が飛び散る音ともに、水床にいくつもの波紋が広がり、やがてしんっと静寂が満ちた。
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