Point1-2「ダンジョン」
「あんのギルドマスター、今に見てなさいよ!」
ルカは地面を踏み固められてできた道を進みながら、舌打ちとともに唸った。
コロコ村の冒険者ギルドを後にしたルカは一路、ヴァノス国北部のピッケ村へと向かっていた。徒歩で半日の距離にあるピッケ村はヴァノス国の最北端にある林業の盛んな村で、避暑地として貴族の別宅などの管理も請け負っているというのどかな村らしい。
「本当にツイてない……ダンジョン出現が近いからって、物価も総上がりしてるしっ! 最悪っ!」
コロコ村を出た際に購入した携帯食を思い返しながら、ルカは額に青筋を浮かべる。収入がないところに出費が重なるのは辛いものだ。ピッケ村についたら、森に入って狩りか採集でもして食料を確保しようか。ルカは真剣に悩んだ。
「だいたい翡翠眼の渡り鳥も、この時期で現れなくたっていいじゃないの! 予知能力者だか悪魔の使者だか知らないけど、あんたのおかげでこっちは死活問題よ!」
ルカは早足で道を進みながら、不満を口にする。
「ダンジョン、ダンジョン、ダンジョン……誰も彼もが口を開けば『ダンジョン』ばっか! もううんざり!」
彼女の目に映る南国の気候と景色は、開放的な気分にさせるどころか苛立ちを募らせるばかりであった。
「ああ、腹が立つ!」
ルカはとうとう叫んだ。それもこれも、すべてが「ダンジョン」のせいである。
「どこにダンジョンが現れるのか知らないけど、もし今私の目の前に悪魔が現れたら叩き潰してやるんだから!」
ルカは照り付ける太陽を見上げると、全身を震わせて怒鳴った。
それからしばらく進んでいくと、やがて開けていた視界が木々に覆われ始めた。体感温度が二、三度低くなった。空気に覆い茂る緑の青くさい香りが混じり、湿った土の香がルカの鼻孔をくすぐる。
「……やっぱ、森の中は涼しいわね」
目を怒らせていたルカもようやく態度を落ち着かせる。
傍らを流れる川のせせらぎも、荒れる心を鎮めてくれた。不満は消えないが、せっかくヴァノスの避暑地を訪れたのだ。依頼を終えた後、しばらくピッケ村で先の依頼の報酬が支払われるまで待つのもいい。この際だ、たまにはのんびりするのもいいだろう。
「さて、そろそろ村が見えてきてもいい頃だけど……」
ルカが呟いたところで、遠目に木造家屋の屋根が見えてきた。周囲を獣除けの堀と塀で囲んだ、隠れ里のような村だ。ルカは歩調を速める。
村の入り口に差し掛かると、塀に背を預けて眠りこけている男がいた。傍らに弓と矢筒を置いている。見張り番の男性だろうか、あるいは狩りから帰ってきた狩人か。どちらにしろ、真っ昼間から居眠りとはなんともいいご身分である。
「なんというか、平和な村ねー……」
ルカは思わず腰に両手を添えると呆れ顔でため息をついた。
「あの、すみません。コロコ村の冒険者ギルドから来ました! 依頼人のカトロさんという方はどちらにお住まいですか?」
ルカは眠りこけている男性の傍にしゃがみ込むと声をかけた。それなりに大きな声で呼びかけたつもりだったが、男性は規則正しい寝息を繰り返して目を覚ます様子がない。
「あの! もしもし! 起きてください! コロコ村の冒険者ギルドから依頼を受けてきました!」
ルカは男性の肩を掴むと強く揺すって大声を上げた。しかし、男性は目を覚ますどころか、ルカに揺すられた拍子に地面に倒れた。それでも目を覚まさない。
「……」
ルカは立ち上がると、村の中を見回した。村の様子に目を見開く。
家の軒先で項垂れている老人、大樹の木陰で寄り添うように横になる子供たち、井戸端で洗濯物を抱えたご婦人たちが一様に倒れ伏している。人間だけではない。猟犬として飼われている犬や家畜の山羊も、一様に地面に伏していた。ザッと見回した限り、彼らに外傷は見当たらないが、この状況は異常だった。
「いったい、何が起きているの?」
ルカはひとまず、最初に声をかけた男性の首筋に触れる。脈は正常だ。体温は日向にいたせいでやや高い。ルカは塀の影に男性を移動させると、村の中へ足を踏み入れた。
背に負った武器を手に取り、覆いをはぎ取る。中から姿を現したのは長い柄を持つ斧槍だった。真っ白な斧槍には鋭い槍先の両端に斧頭と突起が備えられている。しかし通常の斧槍に比べて、ルカの持つものは斧頭の刃が幅広く、成人男性の肩幅ほどもあった。槍先と斧頭、突起からちょうど中央に位置する場所には大地の精霊の力を増幅する劣化結晶が埋め込まれている。ルカの肉体に宿る精霊核の加護を増幅する、れっきとした精霊武器であった。
ルカは愛用の斧槍を構えながら、周囲を油断なく見回す。
「ただ相手を眠らせるだけなら、風の精霊術師や植物を操る土の精霊術師でもできるけど……」
呟きながら、ルカは目を細める。
彼女の脳裏に浮かんだのは、つい先刻の冒険者ギルドでのやり取りだった。
――近々、このヴァノスにもダンジョンが出現する。
ルカは斧槍を構えたまま、村中を見回す。もしも、この村人たちを眠らせた方法が悪魔による「魔法」だとすれば、人間が扱う精霊術での解除は不可能となる。
「さて……どうしたものかしら?」
ルカが途方に暮れた様子で呟いた時だった。
「お嬢さんの選択肢はただ一つ。ただちにこの場を立ち去ることだ」
唐突に、背後から男の声が言った。
ルカは右足を軸に腰を落とすと、手にした斧槍を振り返りざまに大きく横へと薙いだ。甲高い金属音が、沈黙の落ちたピッケ村に響き渡る。
ルカの渾身の一撃を、背後に立っていた青年は腰に吊るした剣で受け止めていた。しかも鞘からわずかに剣身を抜いただけである。
ルカは警戒の目を青年に向けた。気配すら感じなかった。
青年は短い金髪に、額には鳥を意匠化したような木綿布を巻いている。すらりとした長躯で、服装は動きやすさを重視した首元まで覆った袖なし上衣と脚衣、革製の長靴を履いている。一見すれば中央大陸の者かと思われたが、青年はおそらく東大陸の出身だろう。
ルカも駆け出しながら、それなりに依頼をこなしてきた。その中に、東大陸から逃れてきた依頼人を麗国へ送り届けたことがある。彼の話では、東大陸に住む人々は上着として前開きの筒型衣を羽織っているという。しかも、住んでいる場所によって、筒型衣の裾に刺繍を入れ、中には裾丈が短いものから脛まである長いものまで実に幅広いデザインがあったそうだ。青年の纏っている筒型衣は、かつての依頼人が東大陸の中央部に住んでいた人々が着ていたというものに特徴が一致する。
もしかしたら東大陸から悪魔の手を逃れて、このヴァノス国に帰化した人物なのかもしれない。
「あんた、何者……っ!?」
ルカは青年の瞳を見て、息を呑んだ。青年の鮮やかな翡翠色の双眸が唐突に言葉を切ったルカをじっと見下ろしている。
「翡翠眼……渡り鳥?」
「なんだ、俺のことを知っているのか。なら話は早いな」
翡翠眼の青年はそう呟くと、剣を鞘に仕舞った。ルカも斧槍を引いて青年を見据える。
「はやくこの場を離れろ。ここにダンジョンの入り口が出現する」
「はぁっ!? ……なんでそんなことわかるのよ!」
ルカの質問に青年は眉間のしわを寄せた。
「説明している時間がないんだ。早くしないと入り口が――」
「そう言って犯行現場から追い出そうっての? 不審者さん」
ルカが掲げる武器の穂先が青年に向く。
「俺が翡翠眼の渡り鳥だと君が言ったんじゃないか」
「確かに言ったわ。でも私は翡翠眼の渡り鳥さんを直接見知っているわけではない。あんたはそいつの名を騙って、この村に危害を加えようとしているかもしれない。どちらにせよ、あんたがこの村の異常に何らかの形で関わっていることは理解できるわ」
ルカの黒い瞳と青年の翡翠色の瞳が真っ向からぶつかる。青年の視線がルカの首から下げた首飾りに向く。冒険者ギルド所属の証を見て、青年が小さく息をついた。
「なるほど、お嬢さんは駆け出しの冒険者か。己の正義に熱く燃えるのは結構だが、今回の場合は愚考だな」
ルカは頬を引きつらせる。
どいつもこいつも、駆け出しだからと馬鹿にする。
「そりゃ目の前で犯罪が行われるかもしれない状況を目にしたら、普通は止めに入るわよ。善人であるつもりはないけれど、私は悪人であるつもりもないわ」
「ああ、別に善意を否定したわけではない。ただ、腕に覚えがないと、俺はこの後君を見捨てなければならない。見捨てる人間が事前に一人減るのなら、俺としてはありがたいんだよ。心理的負担が減るってだけのことだ」
語調を強めたルカに、青年は取り合う様子もない。ルカから視線を外し、何もない空間へと視線を向けている。まるで目に見えない何かを察知したようだ。
青年の眉間のしわが深くなる。
「残念だよ、お嬢さん――もう手遅れだ」
青年が呟いた時だった。
明らかに、周囲を取り巻く空気が変わった。皮膚を焼くほどの日光が陰り、夏特有のむせ返るような草木の香りが一斉に遠のいた。まるで季節が一瞬で秋にでもなったようだ。肌寒さと光を失った世界を前に、ルカは息を呑む。
どこからか、腹の底に響くような鐘の音が響き渡った。
青年は目の前で移り変わる景色を、無表情で見つめている。
「お嬢さんに一つ忠告をしよう。こうなった以上、君の成すべきことは生き残ることだ。いかなる状況になっても、ひたすらに俺の後についてくること――それが生き残る道だ」
目を見開くルカの視界に、儚い蛍火が一面に揺れた。月明りを受けて輝く見たこともない植物が、夜の森を覆っていた。硝子のように透けた花々、大振りの枝を広げる大樹、崩れかけた石壁が大樹の根の間から覗いている。あちらこちらで木々の葉から落ちた雫を受けて、水たまりに波紋が広がった。遠くで何かの断末魔や雄叫びが聞こえる。
のどかなピッケ村の風景は跡形もなく消え去り、目の前には鬱蒼と茂る夜の森が出現した。
「お嬢さん、死にたくなかったら黙って俺についてこいよ」
翡翠眼の青年がルカを振り返る。その吸い込まれるほど落ち着いた瞳を前に、ルカは反論することができなかった。
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