Point12-3「退魔の刀」
「ジェイドよ、少しよいか?」
真にそう声をかけられたのは、準備のために皆が席を立った後のことだった。にわか雨の去った後の空気に、土の香が混ざる。先程よりも水気を含んだ風が、ジェイドの前髪を撫でていった。
立ち上がりかけたジェイドが、真を振り向く。
彼女は硬い表情のまま、座している。ジェイドは再び畳上に腰を下ろした。
「もしも、『私情に呑まれるな』という警告なら聞かないぞ」
「言ったところで無意味だろう? 実際に、東大陸に上陸すれば、嫌でも向き合わねばならん」
ジェイドの先回りした物言いに、真は苦笑を浮かべる。
「そうではない。尊から、渡したいものがあるゆえ、『天櫻大社』に寄ってほしいとのことだ」
「そうか」
おおかた、幽世の方へ出向いてほしいという意味だろう。
どういう理由なのかはわからないが、尊が幽世から現世へ出向いた姿を一度も見たことがない。ヤウ島の表舞台を真が統括し、裏の顔である幽世を尊が治める。何か、双方ともに踏み込めない事情があるのだろう。
「他にも言いたいことがあるんだろう?」
「……」
ジェイドは眉間にしわを寄せたまま押し黙っている真を促す。彼女は膝上に置いた両手の拳を硬く握りしめていた。
「……東大陸の奪還は、この中間世界に住む皆の悲願だ」
やがて、押し出すように真が呟く。ジェイドは視線を逸らすことなく、真の次の言葉を待つ。
「すでに十三魔将の二体を討ち取ったお主らの実力を疑うわけではない。しかし、相手はかの『虐殺』の最高位ディトリアンだ」
真の表情が曇る。
「我らヤウの民がこうして濃霧の中に身を潜めるは、かの悪魔の存在があるからだ」
「奴の目的は、東大陸の守護だけじゃないのか?」
ジェイドは眉間のしわを寄せる。真のどこか疲れた表情に薄っすらと笑みが浮かぶ。
「我らも、何も最初から他国との交流を絶っていたわけではない。今は滅んでしまった海上都市『海の真珠』、東大陸の者とは交易をしていた時期があった」
その話はジェイドにとっても初耳だった。
真の強張った顔が、ジェイドの翡翠眼をひたりと見つめる。
「六百年前、『海の真珠』を滅ぼした悪魔が、ディトリアンだ」
「……因果、だな」
真の口から発せられた真実に、ジェイドは目を細める。
「それは、あんたたちが天使と悪魔の間に生まれたから、か?」
「裏切り者の粛清は『虐殺』に課せられた使命だったのだろう。我らは結界を張り、ヤウ島に籠ることでしかかの悪魔の凶刃から逃れることができなかった」
真の握りしめた拳が、小刻みに震えている。皆の前では気丈に振舞っていたが、彼女の中に巣食う本能としての「恐怖」を抑えることには限界があるようだ。
「オセアヌティス殿ですら、かの悪魔の一太刀で倒れた。そして十年前、東大陸を魔界が手に入れたことで、ディトリアンは我らを粛清するための足掛かりを得た。彼奴が東大陸を守護しつつ、そこから動かないのは我らの出方を窺っているからだろう」
ディトリアンの配下の悪魔でさえ、中央大陸の東端まで攻撃をすることができるのだ。ヤウの結界が弱まれば、ディトリアンの凶刃は真たちに届く。
ヤウ島の人々が、外から来た者たちを警戒するのも当然だろう。
「お主らは我らの希望だ。しかし、お主らを失うかもしれんことを思うと……」
初めて、吐露した真の弱音だった。
「俺は『侵略』のヘルヴェムを倒す」
ジェイドの決意に、真は顔を上げた。二人の視線が正面から交錯する。
「だから、俺の前に立ちふさがるなら、ディトリアンもついでに片付ける」
ジェイドの口元に笑みが浮かぶ。
「俺は……そのために生きている。そして、これからもそのつもりだ」
ジェイドはそれだけ言い終えると、今度こそ席を立った。廊下を進み、曲がり角に差し掛かると、壁に背を預けて顔を俯かせているルカとすれ違う。すれ違う寸前、彼女が顔を上げて何か言いたげな表情をしたのを目の端で捉える。しかし、ジェイドはあえて足を止めなかった。
ルカの視線を背に受けつつ、ジェイドはその足でヤウ島において枯れることのない桜の大樹を目指した。
天櫻大社の鏡池より幽世にやってくると、尊がすぐさまジェイドを出迎えた。
「御足労いただき、痛み入ります」
尊がこちらに会釈を寄越す。彼の背後には相変わらず、崩れた社の残骸がその半身を水の中へ沈めていた。
「……ずっと気になっていたんだ。幽世がこうも荒廃しているのは、ディトリアンの襲撃でも受けたからなのか?」
ジェイドは真から聞いた話から推測したことを尊にぶつけた。白布で顔を覆う尊の表情はわからない。
「幽世の荒廃は、結界の維持が難しくなっていることの現れです」
落ち着いた声音で、尊は幽世に咲く桜の大樹を振り向く。
「結界も永遠ではありません。ディトリアンもそれを知っているからこそ、待っているのでしょう。東大陸ならば、彼の攻撃はヤウに十分届きますから」
ふと、尊は己の胸に手を当てた。
「私も、真も、老いることのない身体です。人間相手ならば、いくらこの体を串刺しにされようと死ぬこともありません。しかし、相手が悪魔や天使ならば話は別です」
悪魔の魔力は身を蝕む毒に、天使の神力は肉体を崩す劇薬のようなものになるのだと、尊は囁くように告げた。
「しかし、どのみち殺されるのだとしても、かの悪魔へ一矢報いたい気持ちはあなたと同じです。六百年前に、『海の真珠』にてディトリアンに討たれた両親や多くの同胞を思えば、彼らの無念を……晴らしてやりたいのです」
尊はそう告げると、右手に持っていた布包みを差し出してきた。幽布に包まれたそれを、ジェイドは両手で受け取る。布をはぎ取ると、一振りの片刃の剣だった。ヤウでは「刀」と呼ばれる、相手を切ることに特化した刀身を持つ剣である。
「あなた方に集めていただいた天使と、悪魔の遺骸を組み合わせた鍛え上げた刀身です」
尊の声に険が混じる。静かだが、確かにそこにはジェイドと同じ、両親や数多の同胞を失った悲しみと怒りがこもっていた。
「ただの鉄で鍛えた剣では、下級悪魔ですらその身体を傷つけることができません。しかし、この刀であれば、悪魔の身体に傷をつけることができます。力の強い悪魔相手ならば、ルカさんの技と合わせれば、その威力を増すことでしょう」
「ありがたく、使わせてもらう」
ジェイドは己の腰に吊るしていた鉄の剣を無造作に外し、代わって尊から受け取った刀の下げ緒をベルトに括りつけた。
「そしてこちらは、私からです」
尊が差し出したのは真っ白な弓だった。材質から、桜の大樹の枝から作られたものだろう。ヤウでは背丈ほどの高さの大弓を使うことが一般的だが、扱い慣れていないジェイドのために小ぶりな大きさにしてくれたようだ。
「ジェイドさんの弓の腕も相当なものだと、ミザールさんより伺っています。悪魔の瘴気や、天使の神力を養分にする弓ですので、ダンジョンではその力を糧に矢を生み出します。空を飛ぶ悪魔相手に、ご活用ください」
「それはありがたい」
ジェイドが右手で弓を掴むと、白弓は淡く輝き、ジェイドの右手首に巻き付いて腕輪の姿を取った。
「ここまでいいものを揃えてもらったんだ。あんたたちの期待には応えないとな」
「どうかお気をつけください。皆様の生還を、心からお祈り申し上げます」
ジェイドの視界が揺らぐ。真っ白な装束に身を包んだ尊の姿が消え、ジェイドは天櫻大社の根元に佇んでいた。吹き抜ける風が、桜の花弁を散らす。
ジェイドは頭上を仰ぐ。散り行く桜の花弁を手のひらでひと掬いするも、ほんのわずかな風にあおられ、すぐさま手のひらから飛び立ってしまった。
舞い散る花弁を見送り、ジェイドも大樹に背を向けて歩き出した。
その翡翠眼は、遥か西――己の故郷へと向けられていた。
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