Point1-0「悪魔」
カルバイン暦2740年、春。
東大陸中央部に位置するルトス国は建国祭に湧いていた。
首都サンレムの宮殿は花で彩られ、真っ白な街並みが活気づいている。石畳の道を行き交う人々は翼を広げた鳥の刺繍を施した木綿布を腕や頭に巻いていた。花籠を手にした女性の脇を、金髪の少年が走り抜けた。息を弾ませ、花や色帯で飾り立てられた首都の街並みに目を輝かせている。
「ジェイド、先に走っていかないで!」
少年を追いかけて、長い金髪を揺らす女性がいた。少し遅れて、翡翠色の瞳を持った男性が歩み寄る。二人の姿を目にした少年の笑顔が弾けた。
「父さん、母さん! はやく!」
舞い散る花弁を追う少年の腕を、呆れ顔の父親が掴んだ。
「こらこら、焦らなくても神殿は逃げやしないさ」
少年は興奮で頬を赤らめ、己の父親を見上げる。
「だって、はやく精霊と契約したいんだ! ぼくも父さんみたいな風の声を聞ける狩人になるんだ!」
「ははは、お前ならできるさ! なんたって、俺の息子なんだから!」
父は少年を抱き上げた。幸せそうに笑っている少年は、陽の光の眩しさに一瞬だけ目を閉じる。
そうして少年が目を開けた次の瞬間、世界は一変した。
辺りが薄暮に覆われ、世界が色を失った。
少年は呆然と、頭上を仰ぎ見る。
真っ赤な月が、空を覆っている。雲はない。代わりに、蝙蝠のような丈夫な飛膜を持つ翼を背に生やした化け物が黒い飛影を残していく。一匹、二匹の数ではない。幾千、幾万の大軍が赤い月を背に空を覆っていた。
視線を戻せば、ねじ曲がった木々の枝が隆起した地面の岩に絡みつき、月光を受けて不気味な影を落としている。噴水広場のあった場所には、一面に水が張っていた。深さはせいぜい人差し指の第二関節辺りだ。そんな水たまりが廃墟と化した街全体に広がっている。
東大陸ルトス国首都サンレムは、一瞬にして夜の荒野へと様変わりしていた。
何が起こったのか。
幼い少年はすぐに状況を理解することができなかった。
荒野のど真ん中にある水たまりの中で、少年は呆然と座り込んでいた。
「父さん……母さん……?」
彼の傍には、倒れ伏す人々の姿がある。
あり得ない方向に折れた腕や頭部に、傷口から血を流している人もいる。
少年を庇うように倒れ伏した両親を見下ろし、少年は浅い呼吸を繰り返した。
「父さん! 母さん!」
冷たくなった両親の身体を揺すり、少年は目に涙をためて叫ぶ。
恐怖と悲しみが幼い少年を絶望へと叩き落とした。
「おや、生存者がいましたか」
静かだった世界に突如、声が上がった。
少年が弾かれたように顔を上げる。
真っ赤な月を背に佇む影があった。
白く、顔の長い男だった。
少年の身長ほどもある縦長の顔に、引き伸ばされた人間の笑みのようなものが張り付いている。その身体もまた四角い箱のようで、透けた腹部ではいくつもの歯車がガシャガシャと不協和音を奏でていた。胴体の両脇から伸びた腕は男の身体よりもさらに長い。小枝のような腕を折り畳んで、男は胸の前で宝珠を抱いていた。足はなく、水面の上で僅かに浮いている。
カチリ、と歯車と歯車が嚙み合った音が鳴る。
「ほうほう、精霊との契約前ですか。なるほど、なるほど……それで命拾いしたということですねぇ。運がいいですねぇ、人間の子よ」
男は呆然と己を見上げる少年に呟いた。こちらに語って聞かせるというより、独り言を呟いているといった様子だ。
「そうだ、いいことを思いつきましたよ」
不意に、男が明るい声で言った。
カチリ、と男の身体の中で、また一つ歯車が音を立てた。
「少年、私と一つ遊戯をいたしましょう」
「げー……む?」
オウム返しに呟く少年に、男は腕を伸ばす。少年の額に、男はその紫色に染まった長い爪を当てた。
「少年、あなたの名前は?」
「ジェ、ジェイド……」
少年の震える声に、男の歯車がカチリ、と鳴った。男は続ける。
「ジェイド、中間世界の代表として、あなたに私から一つ贈り物を差し上げましょう。きっと面白いことになりそうです。ええ、きっと面白いことになるでしょう」
男はそう言って、少年の額に魔法陣を刻んだ。指先に溢れる禍々しい光が、少年の皮膚に黒い魔法陣を描く。やがて、男の指先から光が消えると、少年の額には三重の円に門が描かれた魔法陣がくっきりと浮かんでいた。
カチリ、と男の歯車が鳴った。
「ルールは簡単です」
男は弾んだ声で続けた。
「これより、中間世界に私の生み出したダンジョンが出現することになります。その前に、特別にあなたに中を見せて差し上げます。ただし、制限時間は五分。あなたの額に刻んだ魔法陣が時間超過を教えてくれますよ」
時間切れになった場合は強制的にダンジョンより退去となる。
男はその長い両腕を広げ、周囲に広がった荒野を示した。
「最近は少々、ダンジョン造りにいいアイデアが思い浮かばなかったのですよ。インスピレーションを得るには、やはり競争相手がいなくてはいけません。あなたは実に運がいい……私の最高傑作へ誰よりも早く挑むことができ、一生、その宿命を背負い続ける栄誉を得たのですから!」
恍惚とした様子で熱く語る男に、少年は震える体を引きずりながら逃げ出す。
バシャバシャと飛び散る水に、ぬるりとした油が混じる。
鉄錆に似た臭いが、鼻をついた。
「逃げられませんよ、逃げられませんよ」
男の身体の中で、カチリ、と歯車が噛み合わさる。
やがて、ゴーンッと腹底に響くような鐘の音が紅の世界に広がった。
少年の身体から、力が抜けていく。
「だれか、たすけて……」
血で濡れた幼い手が、真っ赤な月に伸ばされた。
「無駄ですよ、無駄ですよ。このダンジョンで、悪魔から逃げられる者はいません」
男は長い腕を折りたたむと、宝珠を胸に抱いて嗤った。
「では、またお会いできるのを楽しみにしておりますよ。幼き挑戦者、ジェイド。私の最高傑作をぜひ楽しんで行ってください」
悪魔の囁きを最後に、少年の意識が闇に落ちた。
カルバイン暦2740年、春。
突如、東大陸中央部に位置するルトス国に、ダンジョンが出現した。ダンジョンよりあふれ出た悪魔たちは瞬く間にルトス国を死の国へと塗り替えた。
東大陸ルトス国消滅の報せは瞬く間に全世界を駆け巡る。
後にこの事件は「ルトスの悲劇」と名付けられ、魔界による中間世界侵攻の宣戦布告として戦争の火蓋を切った。
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