第22話 開かれた絶望の扉
前回に引き続きウルコット視点です。
夕食を終える時間になり、俺と姉さんは今の現状をヴァシト兄さんに説明すべく村長宅へと訪れた。
どうやら商人たちには離れを使わせるようで、本宅には村長家のみがテーブルに着いていた。
改めて巡回を担う警邏隊の俺達からの意見と、村長が知る情報を詳らかにし、今の森の異常性をヴァシト兄さんへ伝える。
「成程。それは確かに妙だね。まだ誰も森の奥へは入っていないのかい?」
「父さんと母さんがいない状況で入るのは危険と判断したの。私達が調査に向かったところで命を落とす可能性が高いだけだもの」
「賢明な判断だね、リル。フールーご夫妻がいらっしゃらないとなると、騎士団か冒険者に要請を出すべきだと思うよ」
ヴァシト兄さんは顎に手を当てて少し考えた後に答えを口にする。
「ただ騎士団は私から話を通したとしても動くまでには時間がかかると思う。早期解決なら冒険者が一番手っ取り早いよ」
「……やはりそれしかないか」
困ったように呻く村長に頷くヴァシト兄さん。姉さんも同じ考えのようだ。俺としては、あまり余所者に頼りたくはない。親父たちの知り合い冒険者ならば問題ないが、基本的に冒険者はこちらで名指しをしない限り誰が来るかわからない。
冒険者は粗野な人間が多い、と親父と御袋は良く言っていた。ザード・ロゥにいる冒険者を直接見たわけではないが、昔雇った冒険者といざこざがあった過去がこの村にはある。エルフだから当然その時代を生きた人たちが多いため、どうしても冒険者に良い顔をしないのだ。
それは村長も変わらない。
「はぁ……やっぱり無理にでもカイルに残ってもらうべきだったわね」
「昨日家に泊まったって言う旅人のことかい?」
「えぇ。村には1日もいなかったけれど、信用できる人間よ」
「へぇ……リルがそこまで言うのも珍しいね」
「そうかしら? って、そうよバファトおじさん! カイルを指名して依頼を出したらいいんじゃないかしら!? 確かザード・ロゥの冒険者の宿に所属するって言ってたもの!」
「確かに。それは良い考えと言えよう」
「でしょ!?」
うんうんと頷く姉さんは、突如ばつが悪そうに「と言うか別れる前に依頼をしてしまえばよかったわ」と苦い表情を浮かべる。確かにあいつを指名するのなら村を出る前に話してしまうのが一番だっただろう。しかしその言葉に首を振ったのは村長であるバファトおじさんだ。
「彼は別大陸から事故で飛ばされてきたと言っていたであろう? それでは冒険者として活動したくとも、この国の冒険者ギルドに登録していないのだから勝手に動いてしまっては彼に迷惑が掛かってしまうよ」
「そう言えば……そうだったわね」
俺も姉さんに聞いた話なのだが、カイルは別の大陸からやってきた人間らしい。別の大陸があるって言うだけでも寝耳に水なんだが、暴走した魔法に巻き込まれて気づいたら森にいた、なんて話も正直信じがたい。
「へぇ。別の大陸から来ただって? それは実に興味深いね。なんて大陸なんだい?」
「アルステイル大陸って言ってたわ。確か出身は交易都市ルプト・ハーツェンってだったかしら?」
姉さんは食事の席であいつの冒険譚をいくらか耳にしたらしい。アルステイル大陸なるところの冒険譚。ルプト・ハーツェンなる街の景色や人々など、様々な話を。姉さんから又聞した話を聞いて、正直言ってそれだけは何故俺を呼んでくれなかったのかと思ったものだ。
「ルプト・ハーツェン……」
姉さんとバファトおじさんはあいつに依頼を出すための打ち合わせをする中、俺も耳にしないような都市の名を口にしたヴァシト兄さんが気になった。
「どうしたんだよ、ヴァシト兄さん? もしかして知ってる都市なのか?」
「いや、初めて聞く都市だよ。第一、私が先生としてウルコットにも勉強を教えただろう。そこにそんな都市名はなかっただろう?」
「あぁ、なかったよ。でももしかしたらヴァシト兄さんなら別大陸のことも多少知ってるのかなって」
だって先程の口ぶりは、まるでその都市の名に心当たりがあるような雰囲気を感じがしたから。
しかしヴァシト兄さんは首を振り「残念ながら心当たりはないよ」と続ける。
「でもそれならますます会ってみたくなるね。父上もリルもその気のようだし。しかし、彼はそんなに腕が立つのかい?」
姉さんではなく俺に視線を投げるヴァシト兄さん。俺は思わず眉根を寄せてしまう。あいつの戦った光景が脳裏に過ったからだ。
「……強いよ。グリズリーを無傷で手玉に取ってた。聞いた話だとジャイアントヴァイパーを一撃で両断したんだってさ」
「それはそれは頼もしいね。そんなことができるのは上位の冒険者で間違いないだろうね」
俺とは逆に笑みを浮かべるヴァシト兄さんは「なら彼に名指しの依頼を出すという事でいいのではないかな」と姉さんたちに同意する。
「勿論そのつもりよ」
「ただ上位冒険者を派遣となると、とても高そうだね。報酬」
「うっ……友人割引き、利かないかしら」
姉さん、それはいくら何でも難しいだろ。冒険者ギルドの仲介料もあるんだぞ……
姉さんの言葉に俺は呆れ、代わりと言わんばかりにバファトおじさんが盛大に笑った。
「はっはっは! お金の心配などリルたちがする必要はないよ」
「でも結構するんじゃないかしら。少なくとも私が見てきた人生で一番の腕利きよ、彼」
「で、あろうな。まぁ心配はいらんよ。へそくりはちゃんとあるからね」
ウインクしてみせるバファトおじさんに「年を考えてやってくれよ父上」と息子として苦情を入れるヴァシト兄さん。姉さんは姉さんで「私は良いと思うわよ」と笑みを浮かべる。俺が良く知る、いつもの雰囲気だ。
「そう言えばヴァシトはこっちに来るときにすれ違わなかったの? 1人とぼとぼ歩いてたはずだけど」
「うーん、見なかったよ。もしかしたら徒歩なら馬車が通れないような道を歩いてたのかもしれないね」
「……あり得るわね。木から木へ飛び移りながら移動してた可能性もあるわ」
「森人もびっくりの行動だねそれは。しかし馬ではなく徒歩だとするとまだ街には着いていないだろうし、冒険者登録も終わってない可能性があるね」
「どうかしらね。多分自分で走った方が速いんじゃないかしら。彼の場合」
「もしかしたらもう着いてるんじゃないかしら」と冗談交じりに言う姉さん。姉さん、それもう人間じゃないよ……
「……本当、ぜひ会ってみたいね」
「えぇ。会うといいと思うわ。だって面白いもの。馬に乗ろうとすると逃げられる人間なんて聞いたことないでしょ?」
「くくく……! なんだいそれは!? ぜひ見たいよ!」
思い出して笑う姉さんに釣られるようにヴァシト兄さんも口元を抑えて笑う。その姿――その笑みに何故か一瞬背筋に悪寒が奔る。
しかし姉さんたちとやり取りをするヴァシト兄さんは俺の知るヴァシト兄さんで間違いはない。
「頼めば実演してくれるわよ」
「では依頼内容に記載しておくとしようかね」
「いいわね、お願いバファトおじさん!」
「報酬は別途支払わないといけなくなるんじゃないかな?」
「構わないわ。私が払うもの」
「婚約者に払わせるわけにはいかないね。私が払うよ」
「あらそう? じゃあお願いね♪」
ウインクを飛ばす姉さんに優しく微笑むヴァシト兄さん。バファトおじさんもいつもの調子に戻っている。
俺が知ってる、いつもの空気だ。
森の異変を感じてから暗くなりつつあった日常。でもヴァシト兄さんが帰ってきてくれたおかげで、いつもの空気が戻ってくれたみたいだ。
やっぱり……いつものヴァシト兄さん、だよな。
知らない商人を連れてきたことは何とも言えないけど、みんなのやり取りを見ているうちに先程感じた引っかかりは綺麗に消え失せ、俺はヴァシト兄さんが突然帰ってきてくれたことを今になって感謝した。
★★ ★
夜も更けるにつれ逆に明るくなったバファト家での話し合いも終え、姉さんを家に送り届けた俺はいつもの日課でもある警邏隊へと足を運ぶ。
哨戒を行っているメンバーからの報告を聞き、問題がないことを確認して俺は腰に佩いたブロードソードを手に持ち森へと入る。
いつも使っている場所へと足を踏み入れ、俺はブロードソードを構えては親父に教えてもらった型を反復していく。
本当は親父の様にハルバードの練習をしたい。だがまだ筋力が足りてない。本当は持てる槍でもいいと思うのだが、親父が様々な武器を使えるようになるのも大事だと言っていたので今は剣を振る。親父も初めは剣だったらしいと言うのも理由にあるけど。
剣を振るたび、俺の脳裏には昨日の剣筋が何度も蘇る。グリズリーを一振りで切り裂いたあの一閃。
美しいと思ってしまった。親父が振るう剣よりも。悔しいことに、本能的に参考にすべきはあの剣筋だと思ってしまった。俺よりも50年以上若い人間の小僧の剣を、だ。
良いもの、良い技、技術はなんでも見て盗みなさい。それが自分より若くても、小さいものであっても、先を行くものであれば敬意を払い学び盗みなさい――だったか。
剣を振りながら御袋の言葉も思い出す。そうやって御袋も強くなったのだ、と。
俺は荒れだした息を少しの休憩で整え、ブロードソードを構えて目を閉じる。イメージするのは昨日の一閃。俺が知る中で最も美しい一閃。
「はっ!」
振るうもまるでなってない一閃。雲泥の差とも言えるそれを、俺は少しでも近づけるために反復する。何度も、何度も、何度でも。
それからどれぐらいが経っただろうか。いつも以上に熱が入ったのか、身体中から熱気と汗が噴き出している。
そろそろ戻って寝よう。俺はブロードソードを鞘に戻し、弓の練習を忘れたことに気が付くも今日はいいやと帰路につく。
「ん?」
森の静けさと星の輝きからして時間はすでに深夜。零時を過ぎている頃だろうか。本来ならこんな時間に出歩くものなどいない。いても哨戒に立っている者ぐらいのはずだ。
またあいつらとて村から出ることは基本的にない。だが今感じた気配は、俺みたく森から村に戻るのではなく、その逆。森の奥へと進む気配だ。
まさかヴァシト兄さんが連れてきた商人の連中じゃないだろうな? くそ、それなら注意しないわけにはいかないよな。
俺としては勝手に森へと向かうなら死んでも文句は言えないだろうと思っているが、残念なことにヴァシト兄さんの客人だ。知っていて無碍にはできない。だけどこんな夜更けに何をしようとしているのかは気になる。もし村に害為すものならばそれこそ見過ごすわけにはいかない。
俺は狩りの時と同様に気配を消し、身を低くして感じた気配へと近づいていく。気づかれない距離を保ちつつ、遠見で気配の正体を見やる。
……ヴァシト兄さん?
果たして月明かりに照らされたのは商人ではなくヴァシト兄さんだった。ただ1人で森の奥へと進むヴァシト兄さんに、俺は声を掛けず後を追うことを選択した。
ヴァシト兄さんは神官としては優秀だが戦闘能力は低かったはずだ。こんな夜更けに1人で森の奥へ入るなんてありえない。しかしその姿からは余裕すら感じる。まるで襲われることがないのがわかっているような、襲われたところでどうという事はないと言わんばかりに。
一体どれぐらい森の奥へと進んだだろうか。過去を振り返っても俺自身もここまで深く森へ入ったことはない。それに危険なはずの森の奥は異様なほどに静かだった。本来であれば夜行性の危険な動物や幻獣が住まうはずの森だと言うのに。それらがまるで存在していないかのようにしんと静まり返っていた。
あまりの異常事態に鼓動が早くなる。直感はこれ以上進んではいけないと、気づかれていない今のうちにここから逃げるべきだと警鐘を鳴らしている。
しかし事態は俺が迷っている間に進んでいく。
ヴァシト兄さんが進んだ先、広場のように開けた場所――いいや違う。そこは生い茂っていたはずの木々を圧倒的な力で薙ぎ払い、森を抉ってできた広場だ――に黒い靄を纏った人型の何かが傅いた姿勢で待っていた。
背筋に氷水を直接流し込まれたかのような悪寒が全身を駆け巡る。あれは危険だと。恐らく親父と御袋でもどうにもできないものだと直感する。そんなものがヴァシト兄さんに傅いている。
『―――――――』
『――――』
傅いた何かが聞いたこともない言語を口にする。同じようにヴァシト兄さんも。
黒い靄は表情などないからわからない。でもヴァシト兄さんの態度は黒い靄よりも上位者であると示している。召喚や契約によって幻獣などを使役することができる技能職があると聞いたことがある。だけどあれは人が使役できるようなものなのだろうか? そもそも、『秩序と平和を司る神・マイルラート』に仕える神官であるヴァシト兄さんが、あれほどの悪を従えられるものなのだろうか?
足が震える。荒くなりそうな呼吸を口に手を当てて抑える。今すぐ目をつぶって意識を手放したい。20m以上離れていても恐怖で頭がおかしくなりそうだ。しかし万が一にもヴァシト兄さんが村に害を為すと言うのなら、俺は街を護る立場として見過ごすわけにはいかないから。だから視覚と聴覚に全力を傾ける。
わけのわからない言葉で会話の途中、ヴァシト兄さんが俺も聞きなれた言葉――呪文を呟く。すると2人の間にドサッと音を立てて出現したあれは……バファトおじさん!?
俺は魔法に詳しくない。だから何の魔法かはわからない。そしてこの位置からではバファトおじさんが息をしているのかもわからない。
息も忘れ動揺と混乱に襲われる俺が少しでも落ち着こうと静かに息を吐こうとし――
「っ!?」
ぐるりと首だけ振り返ったヴァシト兄さんと――目が合った。俺の知らない凄惨な笑みを浮かべたヴァシト兄さんはゆっくりと口を動かす。
「隠れてないで出ておいで、ウルコット」
ぞわりと、耳元で囁かれるようにヴァシト兄さんの声が響き、思わず後ろを振り返る。
……いない。確かに今、背後から耳元で囁かれた。でもヴァシト兄さんは変わらず黒い靄の前に立っている。
魔法だと頭が理解し始める頃、とても愉快そうな笑い声が静謐な森を斬り裂いた。
「アハハハハハハハ! 期待通りの反応をありがとうウルコット! ずっとつけていたのは知っているよ。逃げられないのもわかっているだろう? 出てきなよ」
嘲りが含まれた笑い声。しかし逃げられないだろうことも事実だし、何よりバファトおじさんを投げ出して逃げるなんてありえない。背中に気持ちの悪い汗が流れるのを無視し、震える両足を叩いて俺はヴァシト兄さんの前に立つ。
黒い靄は顔と思しき面を俺に一度だけ向けると、一言告げて後ろに下がった。手出しはしない、ということなのだろうか。
「ヴァシト兄さん、これはどう言うことなんだよ?」
「それはまた随分雑な質問だねウルコット。どういう事と言われても、ご覧の通りだよ」
肩を竦めるヴァシト兄さんに苛立ちを覚えるも、深く息を吸いもう一度質問を返す。
「その後ろにいる黒い奴とどういう関係なんだ? バファトおじさんをどうするつもりなんだ? ヴァシト兄さん、あんた何を企んでいるんだ? いや、それ以前にあんた――ヴァシト兄さんなのか?」
俺の質問にヴァシト兄さんはうんうんと頷きながら「順番に答えてあげよう」と続ける。
「まず最初の質問だが、彼は私が招いた部下だ。次に『父上をどうするか』だが心配せずとも前菜として美味しくいただくつもりだよ。3つ目の『何を企んでいるか』と言う質問だが、私自身は契約者の願いを訊いているに過ぎない。単なる暇潰しと受け取ってもらって構わない。それと最後の質問だが――今は私がヴァシト・フレグトで間違いないよ、ウルコット・フールー」
「っ!?」
思わずブロードソードを抜いて構える。考えたわけではない、反射的に俺はこの心許ない剣を握る。
俺を見る弧を描く瞳は、まるで好物の獲物を見つけた時のような捕食者のような仄暗い光を灯し、背筋が凍る歪んだ笑みを浮かべるヴァシト兄さん――いや、ヴァシト兄さんの顔をする何者かに向けて。
「ヴァシト兄さんを……どこへやった?」
「ふむ。大半は今君の目の前にいる私なのだが……まぁ良い。では私も1つウルコットに質問をしよう」
思わず奥歯を噛みしめる。人差し指だけを伸ばして掌を上に向けて俺を指さすその仕草は、過去俺達の教師だったヴァシト兄さんと同じだ。だけど直感的に違うと確信する俺には懐かしさよりも怒りが先に訪れる。
「君は何故私に違和感を抱いたのかな? 私に対し、森に入るより以前から少しの違和感を感じていただろう? 君程度が私に対して何をもって疑惑を持ったのか? それを教えてほしい」
「…………」
今になってみれば違和感の正体は解る。だけど当初からどうして違和感を覚えたのかは答えられない。答えようがないのだ。言ってしまえばただの勘だ。今までの思い出から俺は勘を違うと否定した。故に勘の正体を突きとめようともしなかった。
だから答えようがない。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、ヴァシト兄さんの顔をした何かは顎に手を当てて少し思案する。違和感のかけらもない見慣れた仕草に事実を知ってなおヴァシト兄さんだと勘違いしたくなる。
でも違う。こいつは違う。そして知ってしまった以上、何が何でもここで俺が何とかしなくてはダメだ!
「答えない。いや、答えられないのか? だとすると勘の類――やはり君は持っているのかい?」
思案に耽っていた目が再び深い弧を描いてこちらへ向く。「だとしたら――」と口角が上がった口が声にならない言葉を紡ぐ。
――ちゃんと食べてあげないとね。
「う、うああああああああああ!!」
カタカタと音を鳴らしてしまう奥歯を噛み、俺はブロードソードを握る手に力を込める。恐怖に打ち勝つためのイメージはあいつの剣。見様見真似で練習した一閃。狙うは化け物の首。
後ろに控える黒い靄は動かない。化け物も笑みを刻んだまま動こうとしない。剣を振りかぶり、俺は全力で振りぬ――
「ヴァシト、腕は食べていいよ」
……え?
俺の視界の端、イメージ通りの剣を振りぬこうとした俺の両手に突然黒い山羊の頭が生え――肘から先が食い千切られた。
「―――――っ!!?」
黒い山羊頭は口に俺の両腕を加えたまま口角を上げ、鋭い爪を生やした左手を俺へ向ける。避ける暇もない。
顔に走る衝撃、山羊の手でふさがれた視界を最後に、俺の意識はそこで途切れた。
★ ★ ★
今日は実にいい日だ。私は両腕を失い、意識も飛ばした人間を前にしてくつくつと笑い声を漏らさずにはいられない。
最高だ。実にいい日だ。
たまたま私を呼び出すにギリギリ足る魔力の渦があり、ただ暇潰しで気まぐれで呼びかけに応えてやったこの地で、私の最大の趣味とも言える娯楽をこれほど多く満たせるのは、果たして何百年ぶりだろうか!
「随分ご機嫌がよろしいですね、キャラハン様」
後ろで控えていた“ダブル”が我がことのように声に気色を滲ませて立ち上がる。未だ『名』はないが、ここ数十年私に仕える魔神は私の意を汲み取り、意識を失ったエルフの両腕に止血を施す治癒の魔法をかけていく。
「それで、エルフはいかがなさいましょう?」
「〈真実の眼〉にて鑑定した後、目的の獲物を釣る餌にする」
「かしこまりました。では止血が終わりましたので、私は当初の予定通り、そこの食糧の情報複製を先に終わらせてしまいます」
「あぁ、終わり次第食事にするとしよう。〈プリザベーション〉を掛けているとはいえ、時間が経てば脳の鮮度が落ちる」
頷く“ダブル”は早速と作業に取り掛かる。私は両腕を満足そうに咀嚼する“バフォメット”へと目を向ける。
「初めての人間の肉はどうだい?」
私の質問に傅き、笑みを浮かべる黒山羊の頭は瞳でもって私に答える。「もっと食べてみたい」と。
これは私が最近生み出してやった、ヴァシトと呼ばれていたエルフを素体とした悪魔だ。最も、ヴァシトとしての記憶と知識は私が美味しく戴いたのでこいつにヴァシトとしての意識はない。
“バフォメット”としても一般的な能力しか持たない凡夫でしかないが、私はこれを「ヴァシト」と呼ぶようにしている。
本来呼び名など種族名である“バフォメット”で十分なのだ。我々『魔神』は強い自我と力を以てして初めて『個体名』を名乗ることが許される。
慣例通りで行けば目の前の“バフォメット”は条件を満たさない。しかし、私は私の趣味を少しでも満たした素体には、感謝の意として素体の『名』で呼ぶことにしている。
私はヴァシトの意思に頷き、「じきに食える。もう少し待て」と告げ、ウルコットと呼ばれるエルフを“見る”。
「くくくくく……成程、常時と異質のズレを感じる【加護】――〈妖精の直感〉か」
ランクとしては低いが、私が持っていない【加護】だ。実に都合が良い。喜びのあまり肩を揺らしてしまう。
この大陸に来てからと言うもの、手にした【加護】は既に4つ。短い期間でこれほどの収穫があったのだ。これほど大漁なのは、人魔大戦以来ではなかろうか。
私を喜びの渦へと静めているのはそれだけではない。なんせこんな辺境の地で予期せぬ最高の食材まで用意されているのだから。
〈光輝の指揮者〉を持つ女エルフがその実力を体感しており、出身はアルステイル大陸。それも交易都市ルプト・ハーツェンで腕の立つ剣士。極めつけは馬に乗れない冒険者とくれば心当たりは1人しかいない。“幸運の蒼き小鳥亭”に所属する冒険者で唯一“二つ名”を持たぬ剣士。
「カイル・ランツェーベル」
私がランク付けした食材の中でも最高ランクの高級食材。こんなところで出会えるとは。幸運のあまり顔がにやけるのを止めることができないのは、仕方のないことではなかろうか!
早くこの“目”で見たい。早くその脳を味わいたい。気が逸るなんていつ振りだろうか!?
「終わりました、キャラハン様」
楽しみに意識を持っていかれていた私を現実に戻す“ダブル”の声。私は頷き、意識をしっかりと切り替える。まずは目の前の食事に集中するとしよう。
「“ダブル”よ、私が食事をしている間にウルコットを街方面へ捨てておけ。さすれば自ずと目的の者が訪れるだろう」
「かしこまりました」
頷き、ウルコットを担いで離れる“ダブル”を見送り、私はバファトと呼ばれたエルフの頭を持ち上げる。ヴァシトと言うエルフの顔から本来の姿へと戻した私は、早速食事のためにバファトの脳へ口吻を突き立てる。
あぁ、本当に気分が良い。今ならば“ダブル”に『名』を与えても良いと思えるほどに気分が良い。
味わい終えた食事の残り滓をヴァシトへと投げ渡し、淡い光で私を照らす月を眺める。忌々しい『月光と安寧を司る神・ルイマクゲディア』の象徴だとしても、今高揚する気分はそれすらも美しく感じてしまう。
交わした契約を放り出したいところだが、『魔神』としての矜持がそれを許さない。なれば、契約を果たしつつ娯楽を満たすしかない。
「〈ディメンジョン・ゲート〉」
顔をヴァシトへと戻し、自らの背後に3mほどの昏き門を出現させる。人間たちにとっては地獄の門。私にとっては娯楽を齎す扉。
「さぁ、始めよう」
出現した門はゆっくりと扉を開く。その内に宿る悪意を開放するために。彼の者の狂喜を満たすために……
閲覧ありがとうございます。宜しければ評価・ブックマークの程、よろしくお願いします。
次回から主人公視点に戻ります。