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「きゃあ!」
「いてっ!あ、すんませ……ってぎゃあああ!お、おばけー!!!」
ぶつかった相手が一瞬誰だか分からず、目を凝らしてそちらを見ると、目があったとたんに相手が叫び出した。
「ヒエェェ~!」
気持ちの悪い叫び声をあげて後ろに転がったのは、先日会った馬丁だった。
こんな夜中に人に会うとは思わなかったから、私もびっくりしたが、男は私をおばけと見間違えたらしい。いい大人がみっともなく悲鳴を上げている姿は驚くほど滑稽だったので、思わずポカンとして男を見つめてしまう。
この男、本来は警備で雇われたのではなかっただろうか。おばけと人を見間違えて怯えるなんてどう考えても役立たずだ。
「ひいやああ……って、あれ?ん?お嬢さん???こんな真夜中になにしてんですか。うわ~もうびっくりしたぁ」
「なにって……あなた、警備の人間が、そんな怖がりで仕事になるの……?」
「いやいやいやいや、だって髪ボサボサでそんな鬼のような形相してるからぁ、おばけにしか見えなかったんですよ。お嬢さんこんな夜中に一体どうしたんですか……?毒飲まされて殺された死体より酷い顔してますよ?言っちゃアレですけどすげえブスです怖いです。いやあお嬢さんのそんなブス顔みたくなかったぁ……」
「ブ、ブス……?!普通、面と向かってそういう事いうかしら?!こんな顔で悪かったわね!生まれた時からこういう顔なのよ!だから親にも婚約者にも愛されなかったんじゃない!……どうしろっていうのよ……私だってレーラのように可愛らしく生まれたかったわよ……っ。なんなのよぅ!だれもかれも!私だって……っ!私だってぇ……」
あまりの言われように、ずっと我慢していた涙が溢れてくる。ラウの浮気現場を見てしまった時も、誰にも顧みられなかった時も泣けなかったのに、こんなタイミングで泣くなんて。
声をあげて泣く私を見て、男はまずいとおもったのか、慌てて言い訳を口にする。
「あわわわ……違いますよ、そうじゃないですって、逆ですよ。いつものお嬢さん、すげえ美人でシュッとしているから、あ~目の保養だなあって思って眺めていたんです。
それが今までみたこともないようなおっそろしい形相で髪振り乱してたから、俺ショックで……あんな綺麗な顔してても、人ってこんなブスになれるんだなあって驚いちゃっただけですよ~ほら、窓に映った自分の顔見てみてくださいよ!いつもと違ってすげえブスだから」
「ちょ、ちょっとブスブス言い過ぎ……」
そう言いながら、月明りに照らされている窓ガラスに映った自分の顔をふと見る。
目に入ったのは、見慣れていたはずの自分の顔ではなかった。ギラギラと血走った目を吊り上げて泣いている恐ろしい形相がそこにあった。髪は幽霊のようにぼさぼさになっていて、鬼のような顔と相まって恐ろしいことこの上ない。
ブスどころではない、化け物のようになっている私の姿がそこにはあった。馬丁が飛び上がって驚くのも無理はない、自分だってこんな人間に夜中に遭遇したら叫び出すに違いない。
「……うわ……なにこれ……酷い顔……」
「そうでしょ?恨みつらみで墓場から蘇った死体みたいな顔でしょ?心臓止まるかと思いましたよ~。なにかあったんですか?こんな真夜中にウロウロして。なんかあったんすか?つうか、俺ションベ……厠に行くとこだったんだ。あ、やべ、漏れそう。ちょ、ちょっと待っててください、すぐ戻るんで」
馬丁は突然焦り出して、私を馬小屋の隣にある汚い小部屋に押し込んだ。反論する間もなく押し込まれて扉を閉められてしまった。
部屋を見回すと、小さな炊事場と、汚いテーブル、そして木箱を連ねて作ったようなベッドがあった。どうやら馬丁はここで寝泊まりしているらしい。
どうしたらいいのかと逡巡したが、部屋に戻る気にもなれず、仕方なくベッドの端っこに腰かけた。
「あ~~~すっきりしたぁ~。ちょっと漏れてたけどギリダイジョブ!あ、お待たせお嬢さん!ちょっとは落ち着きました?あ、わりーね、部屋寒かったでしょ」
ほどなく馬丁が戻って来たが、その手にはどこから持ってきたのか酒瓶と燻製肉の塊を持っていた。……厠帰りだが、その手は洗ったのだろうか。洗ったと信じたい。
そして男は、まだ消していなかった火壺に鍋を乗せ、葡萄酒を温めはじめた。そこにテーブルに置いてあった瓶からシナモンと蜂蜜、その辺にあったオレンジの皮を剥いてぽいぽいと鍋に放り込んで、なんとホットワインを作ってくれた。
テーブルに置きっぱなしになっていた、洗ってあるか分からないカップにホットワインを入れて、私の前に差し出してくる。
「ほい。まだ死人みたいな顔色してるから、少し温まったほうがいいですよ」
「あ、ありがとう……」
カップの汚さが非常に気になったが、せっかく私のために作ってくれたものだし、なんだかとても美味しそうに見えたので、私はためらいながらも口をつけた。
「美味しい」
馬丁が作ってくれたホットワインは驚くほど美味しかった。ちょっと甘すぎるくらいなのかもしれないが、その甘さがからっぽの胃に優しく沁みて、心まで温まるようだった。
そういえば私は朝から今まで何も食べていなかったんだと気が付いた。するとそれを見越したかのように、馬丁は燻製肉をナイフで切って渡してくれる。
「ホレ、食べなぁ?」
「……あ、ありがとう、いただきます」
もそもそと燻製肉を食べながらホットワインを飲む。
肉のうまみとホットワインの甘さが五臓六腑に染みわたるようで、冷え切っていた手足にも温かさが戻ってきた。
ふと見ると、私の手のひらは爪が食い込んだあとが残っていて、血がにじんでいた。
人心地がついた頃に、酒を瓶ごと煽っていた馬丁が今日の天気でもきくかのような気軽さで話しかけてきた。
「そんで、お嬢さんはなんかあったわけ?おいちゃんに話してみ?」
馬丁はニヤニヤしながら面白そうに私を見る。全然親身に話を聞こうって気はなさそうだ。
この時私はホットワインに残った酒精でちょっと酔っていた。
よく考えると、こんなよく知りもしないうさんくさい男の部屋に上り込んでベッドに座っているなんて、普段の私だったら有りえない迂闊さだ。
だが、身近な人にことごとく裏切られた私は、赤の他人と一緒にいるほうが楽だった。
「……なんかあったなんてもんじゃないです。もう、なにもかも嫌になって……」
「そうかい。まあ俺で良けりゃ聞いてやるから、すっきりするまで話したらいいですよ」
馬丁は酒を飲みながら軽い調子で言う。
その気軽でどうでもよさそうな態度に気が楽になって、私は今日起きたことからポツポツと話し始めた。