69
「…………ディアさん?大丈夫ですか?」
声を掛けられ、ハッと我に返り顔をあげると、心配そうにこちらを見つめるリンドウさんと目が合った。
「あっ……ごめんなさいっ。なんだか……妹の妊娠を聞いて思ったより動揺していたみたいです。妹がお母さんになるのかと思うと、不思議な感じで……私は自分が人の親になるなんて想像もつかなくて……」
「ディアさんはきっと良い親になると思いますよ。孤児の子どもたちと接している姿を見れば分かります。あの……じゃあディアさんは結婚とか、子どもが欲しいとか考えたりしないんですか?」
「親があれでしたから。きっと子どもができても、愛し方が分からない気がします」
「その気持ちは分かります。僕も家族の愛には恵まれなかったほうですから。でも、だからこそ僕は自分の家庭を持ちたいと思いますよ。恵まれなかったからこそ、本当の家族を作りたいんです。
子どもの愛し方なんて僕も分かりませんけど、自分がしてほしかったことや、かけてほしかった言葉を、子どもにしてあげればいいんじゃないですか?
それでも迷って分からなくなって、なにか間違えそうになったら、その時は夫婦で一緒に考えていけばいいんですよ……って、すみません。偉そうに語ってしまいましたが、単に僕がそういう家族に憧れているっていうだけの話です」
リンドウさんの言葉はとても真っ直ぐに私の中に入ってきた。
私は、愛されず育った自分がまともな親になどなれるはずがないと決めつけていた。でもそうやって自分を否定することは、同じように家族愛に恵まれなかった人たちのことも否定していることにほかならない。
なんて自分本位で浅はかな考えだったのだろうと恥ずかしくなった。
「ありがとうございます……そうですよね。私、なんだか目が覚めたような気がします。リンドウさんは本当に思慮深くて、優しい方ですね。私はいつも考えが足りなくて……尊敬します」
「い、いえ……僕なぞまだまだ未熟者で……」
リンドウさんは顔を赤くして俯いてしまった。彼はいつも褒められると困ったように言葉に詰まる。こんなにできた人なのに、彼はいつも謙虚だ。
本当のことだと言おうと思ったが、あまりしつこく言うと逆に嘘くさくなるので、これ以上は口を噤んだ。
しばらく二人とも黙ったまま田舎道を歩いていた。
こんなところまで付き合ってもらったお礼に、お昼ご飯くらいごちそうしたいが、きっとまた遠慮されるだろうな、などと思いながら道を進んでいたとき、リンドウさんが突然『あのっ!』と叫ぶので飛び上がって驚いた。
「えっ……びっくりした。な、なにかありました?」
「す、すみません……ええと、お話したいことがあって……あの……ディアさんは俺のこと、どう思いますか?」
「どう思う?ですか?先ほども言いましたけど、優しい方だなと思いますけど」
「いや、訊くのは卑怯でした。ディアさん、僕は……あなたのことが好きです。さっき、家族の話をして思ったんです。僕はあなたと家族になりたい。一緒に理想の家庭を作っていきたい。あなたが恋愛や結婚に前向きでないことは分かっていますが、どうか僕と家族になることを真剣に検討してみてはくれませんか?」
「えっ?!ええ?!わ、私ですか?!私なんかと結婚って……そんなわけ……あっ、じょ、冗談……ですよね?」
突然の告白に目が飛び出るかと思うほど驚いた。なにがどうしてこんな話が始まってしまったのか分からない。からかわれているのかと一瞬思うが、リンドウさんはそんな人を傷つける冗談を言う人じゃない。
なにか隠された意図があるのかと、探るようにリンドウさんを見返していると、彼は悲しそうに目を細めた。
「あなたが自分を低く見ているのは、きっと生い立ちのせいなんでしょうね。あなたはとても魅力的な人です。白状すると、最初に会った瞬間から美しい人だなと思っていました。外見的なことだけじゃなく、傷つきながらも真っ直ぐ前を向いて父親と戦う姿を見て、なんて強い人なんだろうと胸を打たれました。あなたと話せば話すほど……純粋で優しい心根に触れてどんどん好きになっていきました。
ディアさんが全く僕を恋愛対象に見ていないのは分かっています。けれどこのまま諦めたくないんです。今すぐ返事が欲しいとは思っていません。どうか、僕のことをこれから考えてみてはくれませんか?」
これから?これからとは……?
最初、何を言われているのか理解できず、驚きすぎて腰が抜けてしまった。
言葉の意味を何度考え直しても、リンドウさんは今、冗談抜きで私に交際を申し込んでいるように聞こえる。
座り込んだまま返事ができないでいると、リンドウさんは『汚れますから』と言って手を差し伸べて立たせてくれた。そしてその手をそっと握りながら申し訳なさそうに謝った。
「突然こんなことを言ってすみませんでした。でもやっぱりディアさんは僕の気持ちに全然気づいていなかったんですね。同僚にはバレバレだったんですけどね」
「いえ……全く……ええと、私の何を見込んでくれたのか分かりませんが、私はリンドウさんに利益をもたらすものは何一つ持っていませんよ……?
私の利用価値といえば……算術が多少得意なくらいでしょうか?でもそんなもの、憲兵であるあなたのお役に立つ機会はまず無いと思うんです。むしろ、こんな瑕疵のある相手じゃあなたの立場を貶めることになりかねませんよ?
そんな自棄を起こさなくても、リンドウさんならもっといい縁談がすぐに見つかりますよ。あっ、商工会長なら顔が広いから、良ければ訊いてみましょうか?」
国家機関に所属するような人は、上流階級の人同士で交流して、身分にあった相手との縁談が用意されているものだと思っていたが、リンドウさんは家から除籍されたと言っていたから、縁談の話が来ないのかもしれない。
軍警察は男所帯だし、女性との出会いがなくて……とそういえば他の憲兵さんがぼやいていた。なにか結婚をしたい理由ができたのかもしれないが、だからと言ってわざわざこんないわくつきの私を選ばなくても、誰かに頼めば絶対ちゃんとした人が見つかるはずだ。
そもそも私は、結婚式当日に婚約破棄されて有名になったような女だ。しかも両親は詐欺で二人とも捕まっているような家の娘なのだから、たとえどれだけ利用価値があったとしても、普通の人なら選ばないだろう。
商家などで無給の働き手を得るための手段として結婚を持ちかけられることはあるかもしれないが、憲兵であるリンドウさんが私を欲しがる理由が皆目見当もつかない。
「僕は実家から除籍された身ですし、軍警察には実力だけで入隊しました。結婚相手によって立場が変わるほど、仕事において無能ではないつもりです。だから、役に立つとか利益があるとか、そういうものを結婚相手に求めるつもりは毛頭ありません。
僕の両親はね……政略結婚で、お互いに愛情なんてなかった。人を条件だけで判断する人たちでしたから、僕自身は絶対にああはなりたくないと思っていたんです。
あなたは自分を卑下しますけど、僕はあなたほど強くて優しい女性をみたことがない。あなたを知るほどに好きになる。何度も言いますが、あなたのことが好きなんです。もし僕に可能性があるのなら、真剣に僕との結婚を考えてみてください」
リンドウさんの顔は真剣そのものだった。
でも……彼の言葉をそのまま信じられるわけがない。私は彼の手を振り払って突き飛ばした。
「やめてください!……私が好きだなんて……結婚したいだなんて……そんなの、あり得ない。私を好きになる人なんているわけない!」
”アイツのつまらなそうな顔を眺めて一生暮らすのかと思うと、本当に嫌になる”
心底うんざりしたようなラウの声音。
聞こえてしまった瞬間、冷水を浴びせられたように体が凍り付いた。
あの時の感覚が、ラウの声と一緒に鮮明に蘇ってきた。
ラウは女好きで有名だったのに、長い婚約期間中、私とは親愛のキスどころか一度だって私の手すら握ったことはなかった。私の姿を見ると顔を曇らせ、近づくことすら嫌がっていた。
だから私は、恋愛の対象どころか自分は女性として嫌悪されるような存在なのだと、あの頃何度も何度もいろんな形で思い知らされた。
ジローさんだけだ。私を可愛いと言ってくれたのは。
そんなわけないと否定する私に、何度も可愛い可愛いと言ってくれた。
私のいいところをいくつも見つけてくれて、たくさん褒めてくれた。
私に笑いかけてくれた。
私のために泣いてくれた。
私を必要としてくれた。
だから錯覚してしまったんだ。
ひょっとして、私でも誰かに愛される要素があるのかもって。
だったらジローさんも私を必要として傍に置いてくれるんじゃないかって。
……けれど、私が好きだと言ったら、ジローさんはすごく困った顔をして、私を突き放した。
なんでどうしてと、最初は思っていたが、要は私は女性としての魅力がなかっただけのことだと気付くのにそう時間はかからなかった。
ジローさんの言う『可愛い』は、小さい子どもに言うような意味合いであって、女性に対して男の人がいうそれとは全然違ったのだ。ちゃんとした恋愛経験などない私にはそんな違いなんて少しも分からなかった。
そんなつもりなかったのに、私から告白なんかされて、ジローさんはさぞかし迷惑だったことだろう。
ひょっとして受け入れてくれるんじゃないかと夢を見てしまった私は本当に愚かだった。
”うんざりする”
ラウは私のことをそう言っていた。
一緒にいるとうんざりする相手なんて、伴侶どころか恋人にだってしたくないだろう。
リンドウさんが嘘をつくような人間とは思っていないが、どうしても信じられない。
そう伝えると、彼は心底悲しそうな顔をして、俯いてしまった。
「迷惑だとか言われるならば、諦めもつくんですが、好きだという僕の気持ちそのものを嘘だと否定されて信じてもらえないのはキツイですね……。
ディアさんは、利用価値があるとかそういう判断基準だけで人と付き合うわけじゃないですよね?まず、その人と一緒に居て心地いいとか、楽しいとか気が合うとか、そういうことを大切にしませんか?僕は、役に立つとかで恋人を選んだりしないし、したくない……。ただ、あなたを好きになって、もっと一緒にいたいと思ったからこそ、気持ちを伝えました。ディアさんのことが好きなんです。どうかそれだけは分かってください。僕の気持ちを嘘だと否定しないでください」
顔をあげてもう一度真っ直ぐに私を見つめながら『好き』だとリンドウさんは言った。
……もう、私は何も言葉が出てこなかった。
今の彼は、あの時の私だ。
好きだと言った私の言葉をジローさんに『錯覚だ』と一蹴されて、どうしたらいいか分からなくなったあの時と一緒だ。なぜ私の気持ちなのにあなたが否定するのと憤ったあの時と同じことを今、彼にしてしまっている。
私を見つめる彼の瞳が不安げに揺れて、私の言葉を待っていた。
……ああ、この人は本当に私のことが好きなのか。
素直にその事実を受け入れると、とたんにその意味を理解して顔が燃えるように熱くなった。
よく考えると、私は今、ものすごく情熱的な告白をされたのでは……?
人生で生まれて初めて、男性に女性として好きだと言われたのだ。その事実に気付いて私は急に恥ずかしくなって、さっきとは別の意味で何も言えなくなってしまった。顔どころかきっと耳まで真っ赤になっているだろうと自分でも分かる。
顔から火が出そうになっている私の様子を見て、リンドウさんは表情を緩めて嬉しそうに笑った。
「あなたのそんな顔、初めてみました。なんか、嬉しいですね。少しでも意識してくれたってことですかね?」
「も、もう……からかわないでください。そういうのもまだよく分からないんです。今は何も考えられないので、時間をください……あの、ちゃんと考えますから……」
私だけが動揺しているみたいで、リンドウさんは逆に最初の焦り具合はどこへやら、すっきりした顔で笑っている。
「いいですよ。いくらでも待ちます。でも、思ったよりも可能性がありそうで、やる気が出てきました。改めてこれからよろしくお願いします」
そう言ってリンドウさんは握手を求めて右手を差し出してきた。
握り返したその手は大きくゴツゴツとしていて、男の人の手となんだなと今更気付いた。
(ジローさんの手は、もっと厚くて傷だらけだった……)
私のなかでリンドウさんはあくまで『憲兵さん』という存在だったので、男性であることすらあまり意識していなかった。
でも彼は憲兵である前に男性なんだなと、当たり前すぎることを考えていた。
改めて彼を見上げてみる。
背が高く整った顔つきの彼は、多分女性から見たら魅力的で素敵な男性に違いない。付き合いは短いけれど、彼が憲兵として有能であることは分かるし、それに人を思いやる優しさをもった人だと思う。
きっと彼みたいな人が、ジローさんの言う『まともな相手』なのだろう。そんなことに気が付いてしまって、ぎゅっと胸が苦しくなった。
ジローさんが好きだ。
その気持ちは変わらないけれど、これから自分がどうしていったらいいか、今はもう分からなくなってしまった。
ここでちょっと一区切りということで、また不定期更新に戻ります。
次からは視点が変わって、ようやく終章になります。




