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翌日、約束した時間にリンドウさんが家に来てくれた。
今日は非番だといっていたから、彼はシャツに黒のズボンという私服姿だった。隊服でないからか、いつもより柔らかい印象を受ける。
「おはようございます。当たり前ですけど今日は私服なんですね。なんだか印象が変わって知らない人みたいです」
「えっ?!へ、変ですか?あまり非番の日に出歩くことがないので……」
「いえ、すっきりして素敵だと思います」
「すっ?!あっ……ありがとうございます……」
リンドウさんは顔を赤くして照れたように笑った。この人は憲兵という職業にしては表情が豊かだなと思う。
商工会長の元へ訪ねて行くと、昨日のうちにクラトさんが事のあらましを伝えていてくれたので、話が早かった。
「あの家はどうせ空き家にしていたんだから、クラト君が戻るまであのままでいいよ。ディアちゃんはその、軍警察の施設に移るんだって?そのほうが安心だろうね……でもディアちゃんは私を全然頼ってくれないからちょっと寂しいよ……後見人の話も断られたしねえ」
「す、すみません。色々突然だったのでご相談にあがる暇がなくて……」
「それより、以前からディアちゃんが軍警察の関係者の嫁さんらしいって噂になっていたけど……まさか本当だったとは……」
なんだか覚えのあるようなやり取りだったが、冷静に『違います』と否定した。
そしてまた、『分かってる分かってる』と会長は一人で何かを納得していた。
「ともかく、憲兵殿が付いていてくれるなら、ディアちゃんのことは心配要らないね。結婚する時の保証人にはぜひ私を指名しておくれ」
「だから違いますって」
家はそのまま使っていていいと言われたが、そういうわけにもいかないので鍵は一旦返却することにした。
「あ……あの、会長。ラウのことなんですが……」
家の話がひとまず済んだので、会長にラウの店のことを切り出した。
廃業予定だったとはいえ、ラウの店はまだ商工会に所属しているはずだ。会長もラウのことは聞いているだろうと思って話をしたかったのだが、言いかけた言葉の途中で遮られてしまった。
「あ、悪いんだけど、これから次の約束があるんだよ。そうだ、ディアちゃんへの連絡は、今後は軍警察を通せばいいかねえ?」
「えっ?あ、住所とかですか?ええと……」
私では分からなかったのでリンドウさんを見ると、『そのようにお願いします』と代わりに答えてくれた。
それをきっかけに、会長はそこで話を切り上げて私たちに退出を促した。
話好きの会長はいつも逆に私を引き留める印象だったので、ちょっと意外な感じがした。まるでさっきの質問をさせないために終わらせたみたい……と思ってしまった。
そういえば、会長はラウの店の後処理も全く関わっていなかったし、お義母さんの面会にも一度も訪れた様子はなかった。ラウはともかくお母さんは特に親交が深かった相手なのに、会長は葬儀にもこなかった。
仮にも自身が会長を務める商工会に所属していた人なのに、冷淡すぎやしないだろうか?
犯罪を犯したとは言え、少し前まで色々なことで協力し合っていたというのに……。
問題を起こしたお義母さんやラウのことは、文字通り『切り捨てた』感じがして、なんともいえない気持ちになった。
もともと町一番の大店だった店は、相当な額を寄付金として納めていたし、あらゆる場面で出資したり人を融通して商工会にも女衆の集いにもかなり貢献してきたはずだ。立場上、仕方がないのかもしれないが、この対応は私には受け入れがたかった。
ニコニコと微笑みかけてくれる会長に笑い返すことができなくて、私は感情を顔に出さないよう努めながら、その場を辞した。
引っ越しというほど荷物は無かったのだが、リンドウさんが手伝ってくれて施設に運んでくれた。昨日の今日で入居できることに驚いたけれど、よくよく聞いてみると、もう事前にリンドウさんが申請の書類を作ってくれていて、私が了承した時点で施設に話を通してくれていたらしい。
「この施設には居住者しかいません。子どもが住んでいる大部屋も常に大人がいるわけではないので……夜中になにか問題が起きた場合は、官舎にある詰所まで知らせてください」
保護児が住んでいる部屋も、夜間は子どもだけになると聞いて驚いたが、今は人数も少ないし憲兵さんが交代で子どもたちの世話をしているらしい。
赤子でもいれば世話役を雇うが、保護児の年齢的に予算がつかなかったとリンドウさんはぼやいていた。
「子どもはたいていすぐに引き取り先が決まるもので、長期に滞在することを想定していないんです。親戚がいなくても職人の家などでは住み込みの弟子として受け入れるところが多いですからね」
子どもを含めた他の入居者に挨拶をしなくていいのかと質問したが、皆それぞれ事情を抱えてここにいるわけだから、あまり関わらないほうがいいと言われた。確かに軍警察が関わる件の被害者たちなのだから、ここで交流を深めたい人などいないのだ。
荷物はもともと少なかったので、荷ほどきというほどのこともなく片付けも終わってしまった。
すると、リンドウさんが『食事に行きませんか?』と声をかけてきた。
「今から自炊の準備も大変でしょうから……この周辺のお店を案内しますので、そのついでに」
「あっ、食事をごちそうするお約束だったのにまだ果たしてなかったですね!ごめんなさい」
「い、いやそうでなくて……あの、支払いは僕にさせてください。そこは男の僕に見栄を張らせてほしいんですよ」
そういうものなのだろうか。そういえばクラトさんも時々、私がお金を出そうとすると微妙な顔をしていた。
でもジローさんは道中たまに私が食べ物を買って渡したりすると『女の子におごってもらうメシは美味い』なんて言って喜んでいたから、ダメなこととは思わなかった。
結局、どうするのが正解か私にはわからなかったので、素直に彼の言うことに従うことにした。
官舎の近くには、軍関係者や役場に勤めている人向けに食事処やちょっとした雑貨店、食料品店などが立ち並んでいる通りがあった。
リンドウさんと並んで歩いていると、二人連れの憲兵さんに声をかけられた。どうやら同僚の人らしい。
「おっ?可愛い女の子連れてる」
「いいなあ。デートかよ~羨ましいな~」
話しかけられたリンドウさんがあからさまに嫌な顔をすると、『お邪魔だったみたいだな~』と笑って肩を叩き去って行った。
同僚というよりお友達なんだな、と思いながら見送っていると、リンドウさんは慌てた様子で私に頭を下げた。
「すみません、失礼しました。ご気分悪くされていませんか?」
「いいえ、同僚の方ですか?仲が良いんですね。仕事中の憲兵さんてみんな厳しい顔して近づきがたいですから、あんなふうに気軽な姿を見ると意外な感じがします。そういえばリンドウさんも、初めてお会いした時は怖い雰囲気でしたから、こんな気安く話せるようになるなんて思いませんでした」
「仕事中は感情を表に出すなと言われているんですよ。僕、そんな怖い顔してました?まいったな、それじゃ印象最悪でしたね……」
「そんなことないですよ。両親のことで私に助け舟を出してくださったじゃないですか。その後も、手紙で両親のことを教えて下さったりして、なんて優しい方なんだろうって思いました」
私の言葉を聞いたリンドウさんは顔を赤くして『いえ、仕事なんで……』ともごもごと言っていた。褒められて照れる姿は少年のようで、仕事中の硬い表情の時とはまるで別人だった。
食事処は夫婦で営んでいる店で、女性も入りやすいような良い雰囲気のところだった。
広い店内はほぼ満席なので、きっと人気の店なのだろう。
リンドウさんのおすすめだという品をいくつか注文して、二人で分けて色々な料理を食べたが、どれもとても美味しく、あれもこれもといつもより食べ過ぎてしまった。
食事中、リンドウさんは私に好きな食べ物を聞いたり、他のおすすめの店を教えてくれたりしてくれて、会話が途切れることがない。
ラウやお義母さんのことには触れず、私の昔のことも聞いたりしなかったので、私を気遣って明るく話せる話題を振ってくれているのかなと感じた。
リンドウさんは相手から話を引き出すのが上手く話題が豊富なので、この人はきっと友達が多くて、たくさんの人と関わって生きてきたんだろうなと思った。
「リンドウさんは会話が上手ですよね。私、友人とかほとんどいなかったんで、相手を楽しませるとかどうしたらいいか分からないです。冗談とか言えないし、今更ですけど自分って本当につまらない人間なんだなって、つくづく思います」
「えっ?今の会話でなぜそんな結論に至ったんですか……?僕はディアさんと話していてとても楽しいですよ。あ、いえ、そのですね、変な意味じゃなくて、こういう仕事をしていると、悪意に塗れた人間を嫌というほど相手にするので、あなたのような……誠実で優しい人と話していると癒されます」
「ありがとうございます、さすが人を励ますのも上手ですね。尊敬します」
後ろ向きな発言にも上手に返すリンドウさんに心から賛辞を送ったが、言われた本人は微妙な顔をしている。
「唯一あなたの欠点を述べるとしたら、考えが後ろ向きすぎることですかね……もっといろんな人と話してみれば、ディアさんが他の人にどう思われているか分かると思いますけど……」
リンドウさんには私の対人関係の希薄さがばれているようで、ジローさんが言うようなことを言われてしまった。
よく考えると、町にいたころは言わずもがな、出奔してからもちゃんと会話をした付き合った相手はジローさんしかいない。
村長や村のご老人とは、話していても仕事をしている時の感覚だった。
くだらないことを言い合ったり、笑い話をしたり、そういう会話を楽しむようなことは、私は人生においてジローさんとしかしたことがない。
それは人としてまずいんじゃ……?
みんな普通に経験して当たり前のことを、私は全然していない。
私はそのことに気付いてちょっと自分にゾッとした。
そんなことに気づきもしないで、疑問にも思わず今まで過ごしていたことが、私の人としてのおかしさを表しているようだった。
ジローさんは最後、私の言うことなんて少しも聞いてくれなくて、ずっとそれに納得がいかなかったけれど、ジローさんにしてみれば人間関係が壊滅的な私の言葉になんて、みじんも説得力がなかっただろう。
今更ながら、ジローさんに私はどんな風に見えていたのかと考えると急に怖くなった。
私には人生経験が足りない。人との関りが少なすぎると改めて思い知らされる。
ジローさんに何度も言われたように、私は自分が人からどう思われているのかもわからない。私もまた人の気持ちを理解することができていない。
お義母さんがなぜあんなことをしたのか、ラウに事情を聞くまでそんな理由があったなんて思いもしなかった。
もし私にもっと人生経験があれば、お義母さんの本当の理由が見抜けたのだろうか?そうすればあんな結末にならなかったのだろうか?
今そんなことを考えても詮無いことだけれど、ジローさんが私を突き放した理由が少し理解できたような気がした。




