55
ジローさんは何度も口を開きかけてやめて、そして結局いつものようなおどけた口調で私の言葉を否定した。
「ディアさん、そのさァ、俺を好きっていう気持ちは……錯覚だよ。傷ついて弱っているときにたまたま俺と一緒にいたから、刷り込みみたいにそう思っちまっただけなんだよ。だってそうだろ?ディアさんみたいな美人で若い娘がなんでこんなおっさんを好きになるんだよ?
ディアさんの周りにいた男はあの父親とかエロ君とかだったからなァ、俺みたいなのでもまともに見えたのかもしれないけど、きっとこれからちゃんとしたいい男と出会えば、俺のことを好きだなんて錯覚だったって気付くだろうからさァ。迂闊にそんなことおっさんに言ったらダメだぜぇ?後から後悔してディアさんの黒歴史になっちゃうぜ?
町に……帰ったらさ、きっと引く手あまただろうなァ。以前は婚約者がいたから、他の男が近づけなかったけど、ディアさんを狙っていた奴、きっとたくさんいたはずだからさ、ディアさんも今度こそまともな相手みっけて、将来を見据えた恋愛をしなよ」
錯覚?まともな相手?将来を見据えた恋愛?
受け入れてもらえない可能性ももちろん考えていたけれど、好きという気持ちすら錯覚だと言って相手にしてもらえないだなんて思ってもみなかった。私は慌てて反論をする。
「そ、そんなこと……!なんで私の気持ちをジローさんが否定するんですか?!私は本当にあなたのことが好きで……あなたと一緒にいたいんです。他の誰かじゃダメなんです。あなたがいいんです……」
震える声で必死に気持ちを伝えるが、目の前にいるジローさんは困ったような顔をしているだけだった。私の言葉が少しも彼の心に響いていない様子に、絶望が胸に広がっていく。
「違うんだ、否定しているとかじゃなくて、ディアさんがそう錯覚する状況に俺が追い込んだんだから、分かるんだ。
俺は、ディアさんが大切な人に裏切られて死ぬほど弱っているところに付け込んだ。他に頼る人もいなくて身一つで故郷を飛び出した君が、そばにいる人間を頼って好意を抱くのは当然のことだ。他に助けてくれる人もいなかったし、もともとディアさんは身近な人に虐げられていたからな、最初っから正常な判断ができる状態じゃなかった。
俺は、君のそういう状態であるのを分かった上で町から連れ出した。
本当にディアさんのことを思ってくれる『いい人』だったなら、あんな風に町から連れ出さず、君が受けた仕打ちを商工会や町役場に訴えて、味方を作って君を助けて、名誉を回復させようとしてくれるだろうな。俺はそういうの分かっていながら町から連れ出したんだ。
自分の都合のためにディアさんを騙して連れ出したズルい人間なんだ。好きとか言ってもらえる資格ないんだ」
「そんなことないです!あの時は……私が町を出たいって言って、それを助けてくれただけじゃないですか!つらい時、助けてくれたことには感謝していましたけど、だからってそれで好きになったわけじゃありません!ジローさんと過ごす時間が楽しくて……ずっと一緒にいたいって思って……それで……」
泣きそうで喉が苦しくて言葉がうまくでてこない。ちゃんと伝えたいのに、錯覚なんかじゃなく、どうして私があなたを好きと思うのか、分かってほしいのに上手く言葉にできなくてもどかしい。
ジローさんはそんな私を見て、小さな子どもに諭すような優しい声で話す。
「……俺はさ、ディアさんには誰よりも幸せになってほしいんだよ。さんざんつらい思いをしてきたんだから、これから先は、誰もが羨むくらいの幸せな人生を送ってほしいんだ。
俺とこの先一緒にいても、なにも与えてやれないんだよ。その重大さに若いディアさんは気付いていない。
十年、二十年後を想像してみろ。金もねえ、地位も名誉もなんもねえくたびれたおっさんが爺さんになって、その面倒をみるだけの人生だぜ?もっと違った未来があったはずなのに、なんで女として一番輝いている時期を無駄にしてしまったのかって、気付いてしまう瞬間がきっとくるんだ。
年を重ねてようやく気付いたとしても、過ぎてしまった時間は取り戻せない。俺は、あるはずのディアさんの幸せをつぶしたくないんだよ。
俺も、ディアさんとの暮らしが楽しすぎてズルズル引き延ばしちまったが、いくらなんでももう潮時だよな。ごめんな……町へは、俺は一緒にいかない」
訣別の言葉を口にしたジローさんは、困った顔でほほ笑んでいた。聞き分けのない子どもにどうやって言い聞かせようか悩んでいるような、そんな顔で。
ジローさんにとって私は、あくまで庇護する対象で、並び立って同じ目線で人生を共にする相手でないのだとこの時嫌というほど思い知らされた。
「い、いや、です。やだ、やだ……お願い、離れるなんて言わないで……私にはあなたしかいないんです……ほかの誰かじゃなくて、あなたと一緒にいたい。自分の決めたことに後悔なんて絶対しない。だから、お願い……私を捨てないで……」
みっともなくジローさんにすがろうとするが、彼は私が伸ばした腕を優しく押し戻して、優しく言う。
「違う、違うよ。俺が捨てるんじゃない、ディアさんが俺を捨てるんだ。君はそうすべきなんだ。俺みたいなのが付きまとっていたら、ディアさんの今後の縁談にも差し障る。俺と一時期でも一緒に暮らしたってことも故郷の人には知られないほうがいい。
ディアさんは自分の価値をすごく低く考えているが、本当はもっとたくさんの人に愛されて大切にされてしかるべき人間なんだ。誰もが羨むような理想の幸せを手に入れて、誰よりも幸せな家庭をディアさんには築いてほしいんだ」
悲しげな顔で、『ごめんな』とジローさんはなぜか私に謝りながら言葉を続けた。
「俺はさァ、これまでクソみたいな人生を送ってきて、この先いいことなんてなんもないまま野垂れ死ぬんだろうなと思っていたんだ。それでいいと思ってきたけど、長年一人だと孤独が身に染みるようになってきてなァ……。
そんな時にディアさんと出会って……君が、俺と同じように寄る辺なく孤独な子だって知って、みんなに捨てられたっていうから、だったら俺がもらってもいいかなァって、あの時思っちまったんだよ。
欲しくなったんだよ。俺の孤独を埋めてくれる都合のいい人が。そんな俺の勝手な感情で、ディアさんに大切な故郷を捨てさせたんだ。
決してディアさんを助けてやろうとか思ったわけじゃない。ただ君を利用しただけなのに、ディアさんは純粋に俺を頼って慕ってくれてさ……。
俺な、ディアさんと出会ってから、人生で一番楽しかったよ。俺の一生分の幸せをここで全部もらったんだなァって実感した。生きていてよかったと生まれて初めて思った。
だからな、もう十分なんだ。ありがとう……もうこれ以上は、このろくでもない俺には身に余るよ。だから、もういいんだ」
きっぱりと言い切るジローさんの顔をみて、ああ、この人はもう私から離れることを決めてしまっている、と分かってしまった。
利用とか、捨てさせたとか、私はそんな風に思っていない。たとえ始まりがそうだったとしても、一緒に過ごしたジローさんの優しさは本物だった。それに私はどれだけ癒され救われたか、この人は少しも理解していない。錯覚なんかじゃない。私だってジローさんといたことで、人生で一番幸せな時間を過ごした。どうしてそれを分かってもらえないんだろう。
一生懸命私は幸せだと言ってみても、もう気持ちを決めてしまったジローさんには全く届いていない。私は取り乱して泣くしかできなかった。
いやだいやだと繰り返すだけの私を、ジローさんはずっと困ったように見ていた。いくら私が頼んでも、もう考えが変わることはないのが見て取れた。
みっともなく床に座り込んで泣き喚いてしまう。こんなことをしても意味はないと分かっているのに、感情がぐちゃぐちゃでどうしようもできない。
ジローさんは泣きじゃくって床に突っ伏した私に一瞬手を伸ばしかけた。
いつものように優しく抱きしめてくれないかと期待を込めて見上げるが、その視線から逃れるように、その手を引っ込めて立ち上がって背を向けた。
「ごめんな」
そう言ってジローさんは座り込む私を残し、扉を開けて家を出ていった。




