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規則的な馬車の音と揺れを感じて、私はゆっくりと瞼を開いた。
後頭部がずきずきと痛んで、体を起こすことができない。痛みで身じろぎしていると、すぐそばに誰かがいる気配に気が付いた。
「あら……目が覚めた?ああ、ごめんなさいね、私が強く腕を引いちゃったから、ディアちゃん後ろに転んで頭を打っちゃったのよ。それで気を失っちゃうから、もう私どうしようかと思って……本当にごめんなさい。
それでね、なかなか意識が戻らないから、お医者様に診てもらおうと一番近い町へ向かっているところなの。気分はどう?まだ顔色が悪いわ。貧血もあるのかしら?」
「は……?……転んだ?……私が?え?今どこですか?なんで勝手に……」
どうやら私はラウ達の乗ってきた箱馬車の中にいるようだった。ラウの姿は馬車内にはなく、御者をしているのだろうと思った。
気を失う直前、腕を引かれたことは覚えているが、馬車に乗せられ移動するまで気付かなかったなんて。
でも、そんな気を失うほど強く頭をぶつけるほど腕を引いたのかと思うと、この人が悪意的にやったのではないかと疑ってしまう。
「……お医者様へはいかなくていいです。意識がなかったとはいえ、勝手に村から連れ出すなんて……早く引き返してください」
「あら、ダメよ。頭を打ったのよ?ちゃんと診てもらわないと。それにまだディアちゃんとお話しなきゃいけないことがあるでしょう?
さっきは話が途中になっちゃったけど……あのねえ、店は信用が第一なのよ?たとえあなたの勘違いだとしても、脱税しているだなんて言い触らされたら困るの。ちゃんと誤解だと納得してもらうまでは話は終わりにできないわ。
はあ……あれだけ面倒を見て、時間をかけてあらゆる仕事を教えてあげたっていうのに、こんな仕打ちを受けるとはさすがに思わなかったわ。あなたが今仕事を得られたのも、私の教育があったからとは思わないの?
時間と労力をかけてあなたを教育したことに、少しくらいは恩義を感じてくれても罰は当たらないわよ」
引き返してくれという私の言葉を涼しい顔で聞き流し、私がどれだけ恩知らずかをお義母さんは滔々と述べる。強く責めるような言い方に、一瞬ひるんでしまいそうになる。
「町に……いた頃は、あなたを尊敬して、感謝して……いました。でも……!そもそも私をラウの婚約者にと言ってくれたのは、私のことを気に入ってくれたんじゃなくて、親から疎まれ、頼る親類も居ない孤独な子どもだったからなんじゃないですか?
親から虐待されていた私は、嫁にと望んでくれたあなたにとても感謝して、役に立とうと必死に仕事を覚えて働きました。
それがあなたの目論見だったんではないですか?親と不仲の子どもならば、どのように働かせても苦情を言われることはないですし、ご自分の好きなように教育できる。実際私はあなたのいう事を全て受け入れて、無給でどれだけ働かされようとそれを不満に思うことはありませんでした。
あなたの望みどおりに育った私に、さぞかし満足されたでしょうね。
あのまま私とラウが結婚していれば、一生あなたを尊敬して従順でいられたんでしょうけど、もう無理です。あなたのしてきたことに感謝などできません」
「……そう。あの親からあなたを救ってあげようとしてあげたつもりだったのに、そんなことを言われるとはね。ディアちゃん、私があなたの親にいくら払ったか知らないでしょう?あなたを貸し出しているのだから金を払えと言われ、長年お金を渡し続けていたのよ?
あなたの父親は、あなたが思っているよりも屑な人間よ。嫁入りした時点で、お金を払うのは終わりにする話だったのに、それを反故にして、払わないなら嫁に出さないなどと言いだしたのよ。私が手を回さなければ、あなたは一生あの親から逃れられなかったわよ。
あなたを店で働かせていたことを、ずいぶんと悪辣に言ってくれたけど、私なりにあなたを親から解放してあげようとしたからなんですけどね。まあ、私への信頼なんてしょせんその程度だったってことね。あなたもラウも……子どもってのは本当に身勝手で薄情だわ」
ため息をつきながら言うお義母さんの態度は、私の罪悪感を一気に煽った。
すべては私をあの親から救うためだったと言われ、確信を持っていた全ての疑惑がぐらついてしまう。
「て、手を回した、とは?なにかしたんですか?」
「ああ……あなたの父親ねえ……お金にすごく執着する人だったわよねえ。だから、金採掘の投資ですごく儲かっている人に会わせてあげたのよ。別に紹介したわけじゃないけど、儲かると知ったら絶対食いつくと思っていたけど、案の定だったわ。
うふふ、聞きかじりの浅知恵で投資なんか上手くいくわけないのにね。最初は少額で慎重にやっていたようだけど、ちょっと儲けが出たからって、欲をかいて大金を投じるようになって、最終的に取り返しのつかない額を溶かしちゃったのよ。
あの様子じゃあ夜逃げするのは時間の問題だったわよ、あなたの両親。予定では、結婚式の前には破綻するはずだったのに、どこかからお金を調達してきたみたいで、上手くいかなかったわ。
あなたがお嫁にきてもあの両親はきっと何かにつけて色々要求してくると思ったから、あなたのために排除してあげようと思ったのよ」
投資?夜逃げ?
全くの初耳だったが、確かに家の様子がずいぶん羽振りよさそうに見えたのに、ジェイさんの結納金を返せずにいたこととか、仕事仲間から預かった資金も踏み倒して町を出た不自然さにも納得がいく。
「ちょ、ちょっと待ってください。え?じゃあお義母さんは父が破産するように手を回したってことですか?そんなの犯罪じゃないですか」
「あら、人聞きの悪い。なにも法に触れていないわ。私はただ人を紹介してあげただけよ。簡単に私を責めてくれるけど、じゃあディアちゃんは一生あの頭のおかしい両親に付きまとわれてもよかったの?
私の娘になる人だから、私が守ってあげなきゃと思ってした苦渋の選択だったのに。きっと自分では実の親を切り捨てられないでしょうから、私が汚れ役にならなきゃって、心を鬼にしてしたことなのよ。
別に感謝してもらいたくてしたわけじゃないけど、それでもあなたのためにしてきたのに、まるで悪人のように言われるのは辛いわ」
「え、えっと……あの……ごめんなさい、ちょっと思考の整理がつかなくて……知らなかったこともあるので……」
「そうね、下手に話してはあなたが気に病むと思って私も色々言わないでいたこともあるから、誤解するのは仕方がないわ。だからお話がしたいと言ったのよ。ねえ……少し誤解が解けたのなら、私のお願いも聞いてくれないかしら?
ずっと店にいてくれなんて言わないから、一度町に戻ってきてほしいの。引継ぎもそうだけど、それよりも、商店の女将さんたちもすごく心配していたから、あなたの元気な姿を見せてあげてほしいの」
女衆の人たちが心配していたと言われ、ズキンと胸が痛む。
突然飛び出してきたので、確かにいろんな人に不義理をしてきてしまった。
お義母さんの言うことをどう受け止めたらいいのか分からないし、私のためというのも気持ちの整理がつかない。二度と帰らないと思っていた町に帰る気にはなれず、罪悪感を抱きつつ再度お義母さんの頼みを断る。
「ごめんなさい……あの、たとえ私のためにしてくれたことだったとしても、やっぱり……町には帰れません」
「まあそんな急いで決めなくていいわ。ひとまず治療院のある隣町にもう着くから、あとでゆっくり考えてみて。気が付いてから具合は悪くなさそうだけど、結構長い時間意識が戻らなかったなんて心配だからね。ちゃんと診てもらいましょう」
そうだった、私が倒れたということで馬車に乗せられ村を出てしまったのだ。
後頭部がズキズキして、うまく考えがまとまらない。
公平で誰にでも優しい人だと思っていたお義母さんだったが、離れてみて知ったことでお母さんに対する見方が変わった。
条例違反をしていたのを知って、この人の人間性に疑問を持った。
そして店では知り得なかった知識を得るたびに、お義母さんは決して善意の人なんかではなかったと思うようになったのだ。
だからこの人がなんと言おうともう信用することはできないし、以前のような関係に戻ることはできないのだからと、突っぱねるつもりでいたのに、この人と話せば話すほど、確信を持っていたことが揺らいできて、どうすればいいのか分からなくなる。
混乱して頭を抱えていると、馬車は隣町に着いたらしく、門で受付を済ませたあと、町の治療院と思われる建屋の前で馬車は停まった。
お義母さんが受付をしてくると言って私を残したまま馬車を降りた。
しばらくするとお義母さんが、すぐ診てくれるらしいから来なさいと私を呼びに来て、私は院内へと連れていかれた。
やがて壮年のお医者さんが来て、『転んで頭を打ったんだって?』と若干投げやりな様子で訊ねた。
私が答える前にそのお医者さんは私の瞼をめくったり頭のぶつけたところの様子を診て、『大丈夫でしょ』と気楽な感じに言って、診察は終わりになった。
果たしてわざわざ隣町に来てまで医者に診てもらう必要があったのかと疑問に思うような診察だった。
ともかく、大丈夫だと言われたのだから村に帰りたい、とお義母さんに告げるが、それは無理だと言われて私は『なんでですか!』と声を荒らげた。
「もう日が暮れるからよ。夜間の移動は危ないわ。今日はこの町の宿屋に泊まりましょう。明日、朝送って行ってあげるから。そこでまた、ディアちゃんの気持ちを聞かせて?」
「えっ……で、でもそこまで遠いわけじゃないし、私帰りたいんです。」
「それは無理よ。ラウもウチの馬も夜の移動に慣れていないし、森を抜けるんだから狼が出たらどうするの?それに、私たちはあなたを送っていったら逆に私たちが泊まるところがなくて困ってしまうわ。それともディアちゃんの家に泊めてくれるのかしら」
「あ…………ええと……」
言いよどんでいるうちに、ラウが馬車を係留所に停めているから、と言われ、そちらへ連れていかれる。
でもさすがに一緒に泊まるなんて無理だ。どうにか自力で馬車を調達できないものかと考えを巡らせるが、そもそも私はお金すら持っていなかった。馬車どころか、宿を別にとることすらできない。
宿がいくつか立ち並ぶ通りの前にラウが立っていて、落ち着かない様子で辺りを窺っていた。
お義母さんがラウの名を呼ぶと、ラウはビクリとして恐々と私とお義母さんを交互に見た。
「もちろんラウとは別の部屋をとるから、だからそんな顔しないの。たった一晩のことでしょう?ディアちゃんは頭を打ったんだから、今日は無理に戻るより休んだほうがいいわ」
「あ、あのな、母さん。俺、ちょっと馬車に荷物忘れて持ち合わせなくて……まだ手続きしていないんだ」
「あらそうなの?すぐディアちゃん休ませたいから宿とっておいてって頼んだのに、ドジねえ」
ごめん、とラウが言って、お義母さんが渋々と言った様子で宿の中に入っていった。
するとラウが、声を潜めて私に話しかけてきた。
「ディア、お前、今から逃げろ。とりあえず母さんは俺がなんとかするから、自警団の守衛所か詰所にでも駆け込んで保護してもらえ。こんなことになってごめんな……俺……母さんから聞いていた話と全然違うんだよ。そもそも脱税とか初耳だし、それが本当なら、母さんが嘘ついてまでお前を連れて帰ろうとしていたことの不可解さとかの辻褄があっちまうんだよ。なんかもう滅茶苦茶だよ。だってさ……お前さっき母さんに……」
ラウが突然驚くようなことを言ってくるので、どういうことかとラウを仰ぎ見たが、その表情は真剣そのもので青ざめていた。




