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ラウが帰り、村での穏やかな暮らしが戻ってきた。
村のご老人の一部は、ラウのことを諦められないらしく、『帰ってきてくれないかねえ』と何度も私に訴えてくる。
ラウは町に戻って関係各所に謝罪に行くと言っていたし、逃げることは止めて町でやり直す覚悟を決めたみたいだから、戻ってくることはあり得ないですよと何度も言ったが、あまり聞き入れてもらえない。
仕方なく、『手紙でも書いたらどうですか?』と適当な助言してみると、思いのほか名案だったらしく、それからは私に何か言ってくることは無くなった。
ただ、ご老人は字を書くのが苦手な人が多く、かわるがわるみんな手紙を代筆してくれと言いに来るのには閉口した。
さすがにラウ宛の手紙を全部私の字で書いてしまうと誤解を招きそうなので、仕方なく文を添削し文字を教え自分で書けるように手伝うことにした。
そんなの面倒だ、と言われるかと思ったが、ちゃんと自分で手紙の文字を書けるのは嬉しかったようで、予想より多くの人がもっと文字を教えてくれと言うようになってきた。なので村長の許可を取って、週に一度、四半刻くらいの時間を使い、手習い教室のようなものを開くことにした。
すると思った以上に参加者が多く、特に女性のご老人の参加率が非常に高かった。
どうやらこの世代の女性は、女に勉学など必要ないと言われていた時代に生まれたので、字は読めても書くのは難しいと言う人がほとんどだった。
北の農村部はだいたいどこもそういう考えが当たり前だったので、学校に行けた女性の方が珍しかったらしい。
手紙を書く練習をしていると、一人のご老人が、『やっぱり学校行ってみたかったわ』と自分の書いた字を見てポツリとこぼした。
すると、その場にいたご婦人はみな『実は私もそう思っていた』とか、『行けた子が羨ましかった』と口々に言いだして、ちょっと驚いた。
でも『女は嫁に行くもの』だから、家の仕事や冬の手仕事を覚える方が将来のためになるという考えが普通だったので、学校に行きたいなどと言いだせる時代ではなかったらしい。
「皆さんのご両親は、その考えが正しいと信じていたから、女の子を学校に行かせるよりも、家のことを覚えたほうがいいって思っていたんでしょうね」
「そうねえ。女の幸せは結婚だからって言われてたからねえ。女が勉強なんかしても何の役にも立たないって考えが当たり前だったわ。まあ実際そうだったのよ。字なんか書けなくても手仕事が上手い娘のほうが、もてはやされたしね。
手習いをするよりも、刺繍の腕を上げなさいって母はよく言っててねえ。反論しても『あなたのためを思って言っているのよ!』って、少しも聞く耳を持ってくれなかったのよ。おかげでアタシは簡単な子供向けの本を読むので精一杯よ。それがどんなにみじめで辛いか、親は少しも分かってくれなかったわ」
「固定観念に囚われた人ほど、『あなたのためだから』とおためごかしを言って自分の価値観を押し付けようとする気がしますね。そういうのは、子どものためを思ってというより、自分の正しさを証明したくて躍起になっているように感じます。自分が正しいと思っている人は、相手の話に耳を傾けてくれないことが多いです」
私がふと相槌代わりにそんなことを言ったら、『そうよねえ』と返事をする人と、気まずそうにする人と二手に分かれて少し微妙な空気になってしまった。
なにかまずいことを言ったかと心配になって、この話をしていた人に後からこっそり聞いてみたら、その人は『みんな自分の行いを思い出したんじゃない?』と笑って言っていた。
それを聞いて、ここに居たご婦人方も、親に言われたことをそのまま『そういうもの』だとして子に押し付けてしまったりしたのかもしれないと思った。
村に若い人がほとんどいないのも、徴兵だけが理由じゃなく、こういった古い考え方について行けない人たちが村を出て行ったというのもあるかもしれない。
そんな話をした後、手習いの日とは別に、マーゴさんが私のもとへ訪れて、『この間話していたことだけど……』と内緒話をするように小さな声で話しかけてきた。
「ディアちゃん、あの時はごめんなさいね。でもあの時私も悪気があって言ったわけじゃないのよ?ただ、後から悔やんでも遅いから、良かれと思ってね。だからあまり悪く取らないでちょうだい。古い考えだって言われるかもしれないけど、そのほうが幸せになれることもあるのよ?
特にこういう小さな村じゃ、昔からの考えを否定して我を通したりすると、周りから疎まれたりしてたからね……」
「え?なんの話ですか?」
「いえ、ほら、前に……」
マーゴさんが言いかけた時、役場の扉が開いてジローさんが顔を覗かせた。
「ディアさん迎えに来たぜ~。あ、まだ話し中かぁ?」
「あー、いいのよいいのよ。もう帰るから。ディアちゃんまたよろしくねえ」
ジローさんの顔を見るとマーゴさんはそそくさと役場を出て帰っていった。
話も途中だったし、なんだか逃げるように帰っていくので不思議に思っていたら、ジローさんもそうだったらしく、『なんかあったかァ?』と訊かれたのでさっきの会話のやりとりを帰り道で雑談がてら話してみた。
するとジローさんは、納得がいったように『ああそういうこと』と言って、少し怖い顔になった。
「以前エロ君が村に来たばっかの頃さァ、マーゴさんに絡まれてただろ。女の幸せは結婚なんだから、尻出し浮気男も許してやれみたいなこと言われてディアさんも辟易してただろ~?ディアさん忘れたのかよ~?」
「……ああ!そんなことありましたね。色々あってすっかり失念していました」
さっき私が古い考えに対して『価値観の押し付け』などと批判がましいことを言ったから、マーゴさんは過去の自分の発言をとがめられたのかと勘違いしたのだろう。
「ジジババの常識じゃ、女が外で仕事なんかするより尻出し浮気男とでも結婚するほうがいいって本気で思ってたんだろな。だからって別に本当にディアさんのためを思って言ったわけじゃねえぜ。
こういう閉鎖的な村の人間は、多様性を嫌うからな。ディアさんが自分の価値観と違うのが許せなかっただけだ。ああいう輩は、自分らの輪から外れたことをする人間が許せなくて、徹底的に潰そうとするんだ。田舎特有の陰湿さだよ」
そういう人間をよく知っている私としては、すごく納得できる言葉だったが、ジローさんの厳しい表情がとても気になった。
「そういう……ことが昔もあったんですか?輪から外れた人に……嫌がらせとか」
ジローさんの言葉には妙に実感がこもっていて、そう聞かずにはいられなかった。
「あー……まあ、ディアさんが言われたようなことはたくさんあったんじゃねえの?だからさぁディアさんももっと怒っていいんだぜ?今度なんか言われたら、うるせーババアって言ってやりゃいいんだってェ」
ジローさんはパッと表情を変え、わざとおどけた口調で言った。質問を上手く躱されてしまった。ちょっと踏み込み過ぎたんだなと分かって、相変わらず一線を引かれていることに少し悲しくなるが、子ども扱いしている相手には言えることじゃないのだろうなと思った。
「私がババアとか言ったらマーゴさん驚いてひっくり返っちゃいますよ。そんなことより、今日の夕ご飯はなにがいいですか?」
「おお、飯のこと言われるととたんに腹減った気がするなァ。あ、この間作ってくれた、揚げパンみたいなの、あれまた食いたいな。ホラ、肉と豆の具が中に入ったやつ」
「あれ気に入りましたか?簡単だからいいですよ。具を包むの手伝ってくださいね」
先ほどの重い雰囲気などなかったかのように、私たちはとりとめもない話をしながら家までの道をのんびりと歩いた。
ジローさんと村のご老人がたは特別関係が悪いというわけではない。マーゴさんもジローさんのことを『ちゃらんぽらん』だとこき下ろすが、嫌っているのではなく、からかっているだけでむしろ仲がいいようにみえた。だからジローさんが村のことを話すとき、憎悪に近い感情を垣間見せることにいつも違和感を覚えていた。
そのことに対して、以前は聞かれたくないことを詮索すまいと思っていたが、今はそれを知りたいと私は思うようになっていた。ジローさんとは、楽しい時間だけを共有するのではなく、辛い気持ちや悲しいことも一緒に感じて分け合いたい。
ジローさんの『言いたくない過去』というのは、きっと彼にとって自分自身を許せないような出来事で、おそらく償うこともできないのじゃないかと思う。
それを私が知りたいと言ったら、彼はどんな反応をするだろう。以前のように怒りだすだろうか。それとも何も言わずそっと姿を消すだろうか。
一緒に暮らして、前よりももっと近しい関係になれたけれど、私とジローさんのあいだには決して越えられない壁が存在していた。
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