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嫌だと主張しなければと思うが、身が竦んで言葉が出てこない。
私を殴りたそうに小刻みに揺れる父の右腕が目に入ると、もう駄目だった。小さいころから何度となく殴られ黙って従うしかなかった記憶が蘇って、逆らうことができない絶望感に支配されてしまう。
私が黙ると、追い打ちをかけるように、レーラにすがっていた母が私を責める言葉をぶつけてくる。
「そうよディア。あなたのせいで私たちがどれだけ迷惑を被ったと思っているの?それなのに、あなたはずっと言い訳ばかりして……ねえ、あなたまだ一度もお父さんに謝っていないのよ?言い訳の前にまず謝るべきだったでしょう?ディアが最初に謝罪なりなんなりしていれば、お父さんだってこんなに怒らなかったわよ。ね、これ以上怒られる前に、とにかくお父さんの指示に従いなさい」
母はごく当然のように私に謝れと言ってきた。
父の言葉に従いたくないと思っても、頭のどこかで、『親のいうことに逆らっちゃいけない』という考えが浮かんできてしまう。
緊張からか、呼吸が浅くなって苦しくなる。
私の様子がおかしいと気付いたジローさんが急いで私の肩を抱いて椅子に座らせてくれた。
今までみたこともないような、悲痛な顔で私を心配そうに見ている。
ジローさんの腕にしがみつき、大きく深呼吸すると、緊張が緩んで落ち着くことができた。
私の様子と、今にも殴りかかってきそうな父を交互にみて、ジローさんがギリッと歯を食いしばり、怒りに顔をゆがめた。
そしてジローさんが父に向かって口を開こうとした時、意外な方向から援護が入った。
「あの……ディアのお父さん。ディアの給金って、子どもの頃からあなたが受け取ってますよね?大人になるまでずっとだから、結構な額になりますよ?それはあなたが貰っていたってことですよね?
それなのに、かかった金を返せとか、さすがにそれは親としてどうなんですか?」
ラウが父に向ってそんなことを言い出した。
店から父に毎月お金が渡されているのは、帳簿に記載されているのを見たことがあるので知っていたが、あれは私の給金として受け取っていたのかと知って驚く。てっきり請け負った仕事の払いだと思っていた。
むしろ、私の給金が子どもの頃から支払われていた事実に驚愕している。
ラウはともかく、お義母さんもそんなこと教えてくれなかった。給金について訊ねなかったとはいえ、こんな長い期間私が知らないでいるというのもおかしな話だ。
父は、さすがにラウに対しては強く出られないようで、急に語気が大人しくなってなにやら言い訳をしていた。
その姿を見ているうちに、すこし落ち着いてきた私はジローさんの腕をつかみながら父に言葉を言い返す。
「父さん……私の給金をラウの店から受け取っているなんてこれまで一言も言わなかったですよね?それどころか、店にばかり行って家のことをなにもしないからって、最低限にしかお金をくれなかったですよね。私、日用品をそろえるのにも苦労して、服すらほとんど買えなくて困っていたのに……。
父さんたちにとって、可愛くない娘だったのかもしれないですけど、まさか私が働いて得た給金を十年以上着服して……そのうえ結婚まで実の親に潰されるとは思わなかったです。
レーラの幸せのためだとしても、まるで私を苦しませたくてしているようにしか思えないんです……」
こんなことを言ったら父は激高して私を絶対に許さないだろう。
かつての孤立無援の家のなかじゃ絶対に言えない言葉だった。
でも今の私はひとりじゃない。
ジローさんは必ず私を守ってくれる。
ジローさんなら父を力ずくでたたき出すこともできただろうけど、それをしないのは、さきほど知った真実を確かめる必要があると考えていてくれているのかもしれない。
あの時、結婚式の後、私は逃げることしかできなかった。それで彼らとは縁を切って忘れていけばそれでいいと思っていた。
でも彼らが追いかけてくるようなら、もう逃げるだけじゃダメなんだ。私は戦わなければならない。
「親にむかってなんだその言い方は!給金は確かに私が受け取っていたが、親として当然の事をしたまでだ。子どもにそんな大金を持たせるほうがどうかしているだろう。お前みたいな不良娘に全額渡したりしたら、なにに使うか分かったものじゃない。だから私が管理してやっていただけだ。それを、言うに事欠いて着服だと?!お前は実の親を犯罪者呼ばわりする気か!
そのうえ、結婚がダメになったことまでも親のせいにするのか?お前は本当に……親を親とも思わない、最低な娘だな。
元はと言えばお前がラウ君に愛想をつかされたからだろう!そんなことも分からないのか!自分にも非があることを認められず、自棄を起こして勝手に家を飛び出すなど、癇癪を起した子どもと変わらないじゃないか。
お前がそういう未熟な人間だから、親である私たちが矯正してやろうと厳しく躾けていただけなのに、お前は虐待だなんだと騒ぎ立ておって……!そのせいで私たちがひどい目に遭っているんだぞ?謝ることすらできないのかお前は?」
あきれ果てたような口調で、父は私を罵倒する言葉を実にスラスラと述べた。
「管理……と仰るなら、いずれ私に渡してくれるつもりだったんですか?」
「他所の家に嫁いでいく娘に渡す馬鹿がどこにいる。そんなことをしたら他人に金を渡すのと一緒じゃないか。家長である私が、ちゃんと家族のために使っているのだから、何の問題もないだろう。
ラウ君も、的外れなことで不用意にこちらを責めるような発言は控えてくれないか?もとはといえば君のお母さんがそのように手配したことなんだよ」
ラウもまだ何か言いたげだったが、母親が決めたことだと言われるとそれ以上返す言葉がないようで、私の方をちらりと見て申し訳なさそうにうつむいた。
予想できたことではあったが、父は給金の事も結婚のことも私に謝罪してはくれなかった。
それどころか、全て私が悪いことにされ、逆に謝罪の気持ちがないのかと責められてしまった。
私を睨む父の目をじっとみつめる。
そこにあるのは、純粋な怒りだけで、迷いも虚偽も感じられない。
おそらく父は、本当に『ディアが悪い』と思っていて、給金のことも結婚のことも、まったく悪いと思っていないのだ。今の言葉は、誤魔化すために怒って見せたとかではなく、父はそれが真実だと思って言っているのだ。
父の言葉を聞いて私は確信した。
この人は、私に全ての責任を押し付けることになんの罪悪感も抱いていない。
自分の言っていることは全て正しいと信じて、私に理不尽を押し付けているなんて少しも思っていないのだ。
家にいた頃は、殴られることも感情のゴミ箱になることも日常茶飯事だったので、自分の置かれている環境や両親の在り方に不満は覚えても、疑問に思ったりすることはできなかった。
でもこうして家族から離れてみて、ジローさんに一人の人間として大事に扱ってもらえたことで、私はようやく自分と家族を客観的にみることができるようになった。
この人たちは、おかしい。
ここへきて、ようやくそれに気づくことができた。
そして、それを受け入れてしまっていた私もまた、おかしかった。
もうずっと長い間、父も母も都合の悪いことは全部私のせいにして心の安寧を保ってきた。
最初はきっと、単なる八つ当たりで、本人たちもその自覚があったに違いない。
嫌なことを誰かのせいにしてしまえるのは、とても楽なことだ。
八つ当たりは悪いことだと思っていても、辛い時、現実逃避して誰かのせいにしてしまえば一時的に気持ちは楽になる。その気持ちは私だってわからなくもない。
私への虐待が始まった頃、父も母も精神的に疲れていた。八つ当たりして嫌なことを私のせいにしてしまうと、気が晴れたのだろう。
もともと移住者である両親は、町に親戚もおらず、私たち家族は閉塞的な環境にあった。子どもに対する八つ当たりをするというおかしな行為を諫める人もそばにいなかった。そして私も抗わなかった。いや、抗えなかった。
狭く閉ざされた『家庭』という空間で、私たち家族は大きく歪んでいった。
長年、不都合は私に押し付けて、全て私のせいにしてきたから、それに慣れきってしまった父はもう自分の非を認めることができなくなっている。
きっとこの人は、これから先も起こる全ての不満を私にぶつけ、解決しろとずっと言い続けるのだろう。
父も母も、きっともう変わらない。彼らにとって、子である私は常に自分たちに従うべき存在で、対等に話をしてこちらの意見を聞く相手などではないのだ。
子にとって親は絶対的な存在だとして、全て自分が正しいと思っている人たちに、どれだけ言葉を尽くしても伝わることはない。
ようやくそのことに気が付いた私は、あるひとつの決心をした。




