元婚約者の独白3
ディアが帰ってきたときは、とっくに日が暮れて外は暗くなっていた。
帰ってきづらい気持ちはわかるが、とはいえあんなことがあったあとで、こんな時間までなにをしていたのかと、ほんの少し咎める気持ちが沸き上がる。
それはディアの父親もそうだったようで、ディアの顔を見るなり『どこをほっつき歩いてたんだ!』と大声で怒鳴りつけた。
ディアは青い顔で黙ったまま、なにひとつ言い返さなかった。
レーラのお腹に赤ん坊がいるから、俺と結婚させるしかないという話をディアの父親が言って聞かせるが、ディアはほとんど返事をせず、最後に『じゃあ私は用済みですか』などと皮肉を呟くものだから、皆が気まずい雰囲気になる。
とりなすように、俺の母親がさきほど話していた内容の、慰謝料替わりのつもりで『ウチの店で経営者として働いてほしい』という話を提案してみた。俺はディアがどう返答するか気になって、アイツの様子を窺う。
ディアの反応は、俺が予想していたどれとも違っていた。
母の話を聞いたディアは、先ほどまでの無表情とは打って変わり、目を見開いて驚いた顔をしていた。
顔色は血の気が完全に失せて真っ白になっている。
そして、震える小さな声で『お断りします、無理です』とだけ言い残して突然その場から走って逃げてしまった。
あちらの両親はディアの態度に憤っていたが、俺も両親も、さすがにあんな出来事のあとで今後のことをすぐ決めろだなんて、ディアに無理をさせ過ぎたと後悔していた。
とにかく一旦この話は無しにして、改めてディアの希望を聞こうと言ってその場は解散となった。
ディアの感情が抜け落ちたような青い顔が忘れられない。
ディアのメンツも自尊心も踏みにじったのだから、さすがにあのディアでも怒り狂っているに違いないと思っていたが、ディアは怒るでも声を荒らげるでもなく、憔悴しきった顔で、終始俯いていた。
耐え切れなくなったように部屋を飛び出したその後ろ姿は、泣きわめくレーラよりもよっぽど傷ついて見えて、ディアがどれだけ打ちのめされているのか思い知らされて、一気に罪悪感が襲ってきた。
……あんな顔をするとは思っていなかった。
結局俺たちは親同士が決めた政略結婚だし、母親が提案したように、店の権利を一部譲渡して、結婚して得られるはずだった経営者としての権利や利益を補償するなどの提案をすれば、条件次第で了承するんじゃないかと思っていた。
その程度の関係だと思っていたから、あんな傷ついた顔をすると思っていなかったのだ。
ディアを傷つけたんだ。条件や補償の話の前に、俺はまずディアに謝らなきゃいけなかった。
許してはもらえないだろうが、謝るしかない。
明日、ちゃんとディアに謝ろう。
今更ながら、帰りの馬車の中でそう決意した俺だったが、翌日ディアに謝罪することは叶わなかった。
ディアはその日のうちに家出してしまったのだ。
***
知らせを受け、駆け付けた俺がみたのは、物がほとんどない部屋の机にポツンと置かれた一枚の手紙。
置手紙には、『出て行きます。さようなら』との一言だけ。
何処へとも、何故出ていくのかも書いていない。
ディアが居なくなった事実に愕然として、俺はしばらく手紙を握ったまま動くことができなかった。
ぐるりとディアの部屋を見渡すと、仕事の本と筆記用具、いつも着ている地味なシャツとスカートが数枚あるだけで、寂しいという印象しかなかった。
十年以上婚約していたというのに、ディアの部屋に入ったのは初めてだと気が付いて、いろんな後悔と罪悪感が一気に押し寄せ、俺はその場に膝をついた。
花も、壁飾りも、人形も、綺麗な色味の服も、装飾品も、飾り気もなにもない、寂しさを詰め込んだような部屋だった。
こんなに何もない部屋で、アイツはなにを思って過ごしていたんだろう。
家族と上手くいっていないのは薄々気が付いていたはずなのに、俺はあいつに寄り添ってやることもしなかった。
子どもの時分から店で働いていたから、ディアは友達も多くないし、家族があんな有様なら、なにかを相談する相手などいなかっただろう。
俺たちは政略結婚だから、ディア自身も打算があっての婚約に違いないと考えている部分があった。
だから店の仕事もあんなに熱心にしているのだと思っていた。
俺よりよっぽど仕事ができるディアは、自立して強い女だと勝手に思い込んでいた。
ディアの青ざめた顔が脳裏に浮かぶ。
アイツは俺が思っていたよりもよっぽど孤独で、味方もいなくて心細い思いをして生きてきたのかもしれない。
本当なら、婚約者だった俺が味方になってやらなきゃいけなかったのに……。
たったひとりで町を彷徨うディアを想像してたまらない気持ちになる。
俺が探しに行かなきゃダメだろう……。
レーラのことはどうにかしなければいけないが、無鉄砲に家出をしたディアは、手持ちの金もほとんどないだろうし、友人だって多くない。
ディアは、頭はいいが世間知らずで周りが見えていないから、相手の言葉の裏が読めず騙されやすいところがある。
ここはそれほど大きい町ではないが、治安の悪く犯罪が頻発する貧困地区だって存在する。
割と人目を惹く美人が、独りでフラフラしていたら、あっという間に悪漢の餌食になるんじゃないか?
ただでさえ傷心で、きっと捨て鉢になっている。自棄を起こして悪い相手について行ってしまうかもしれない。
恐ろしい想像が容易にできて、俺は今すぐにでもディアを探しに行こうと決意した。
ディアの家出と置手紙の存在を俺に知らせてくれたのは、騒ぎを知ったこの家の通いの家政婦だった。
ディアの父親と母親は、あまり深刻に考えておらず、どこか知り合いの家にでもいるんだろうと探す気もないようだった。
この家の使用人たちは皆、昨日の結婚式で起きたことも噂で聞き及んでいたらしく、一番ディアと仲の良かった家政婦が心配のあまり、主人であるディアの両親に早く探しに行った方がいいと進言したのだが、ディアの両親は『そのうち自分で帰ってくるだろう』といって取り合ってくれなかったらしい。
ディアの性格からして、こんな置手紙をするならもう二度と帰ってこないつもりじゃないかと、その家政婦は心配してわざわざウチの店まで言いに来てくれたのだ。
母は、ディアが出て行ったと聞くと一気に顔を青くして苦し気に額を押さえてうつむいてしまった。
そんな母に対し俺は『ディアを探しに行ってくる』と伝えたが、それはダメだと止められてしまった。
「今あなたがディアちゃんを町で探し回ったら大騒ぎになるでしょう。昨日結婚式で仕出かした事を忘れたの?」
「い、いや忘れてないけど……ディアが出て行ったのなら俺のせいだろ?あっちの親は探す気ないみたいだし、せめて俺が迎えに行ってやらなくちゃ、って……」
「それは誰か人をやって探しに行かせるわ。さすがに町から出たりしないだろうから……友人のところか、商工会の会長のとことかかしらね。商工会長、ディアちゃんのこと気に入っていたから。居場所が分かったら教えてあげるから、それから迎えに行きなさい。ディアちゃんもきっとアンタが迎えに来たらなんだかんだで喜ぶと思うわ」
「……そうか?いや、とりあえず謝ろうとは思うけどさ……。なあ、やっぱさ俺とレーラが居たらディアが店で働くのは無理じゃねえの?俺のこと許せなくて家出なんかしたんだろうから、ウチには来てくれないだろ」
「アンタなにのんきなこと言ってんの。ディアちゃんいなかったら困るのよ。あの子がどんな仕事しているか、アンタだって把握していないでしょう。レーラさんは仕事できないし、あのご両親はねえ……結婚相手がディアさんからレーラさんに代わったから、これ幸いと店に押し掛けてくる気よ。アンタも絶対に店に入れないでよ。帳簿でも持っていかれたらたまらないわ」
「あ?どういうことだよ。あの両親が店を乗っ取るとか考えてるわけ?」
「ディアちゃんはあの両親と仲良くなかったからね、ウチに近づこうとしなかったけど、レーラさんなら親のいいなりだろうから、信用ならないのよ」
そう言った母の言葉に俺は少し疑問を持った。
ディアが両親と不仲と気づいていたようだったが、今までそんなことを母の口から聞いたことは無かった。
もし気付いていたならあの父親がディアの給料を彼女に渡していないのではと分かりそうなものだろう。だが、給料の一部をディアに渡すなどしている様子もなかったし、ディアが着古した服ばかり着ているのも変わらなかった。
いつも気が回る母にしては配慮がないなと思ったが、どうやらあの両親は結構曲者らしいから警戒して関わらないようにしていたのかもしれない。
「そっちの件はまた今度にして、とりあえずはディアだよ。母さん頼むぜ」
「分かってるわよ。従業員の誰かに探しに行かせるから」




