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そんな不調が続いていたある日、いつものように朝起きて仕事に行く準備をしていると、珍しく朝早く起きていたジローさんが私を引き留めた。
「ディアさん、今日は仕事お休みだから。昨日、俺が村長に言っといたんだわ。せっかくお休みなんだから、出かけようや。天気もいいしさぁ、食べ物もって遊びに行こう」
「えっ?休み?言っといたってどういうことですか?なんでそんなこと勝手に……」
「いいじゃないの、ディアさん働き過ぎだし、たまには遊びに行こう。林檎酒も持って行こうぜ、ディアさんまだこれ飲んだことないだろー?村で去年仕込んだヤツだけどすげえ美味いのよ。
あ、でもディアさん割と絡み酒だから、昼間はやめとくか?べろべろになってまた腹出して寝落ちすると困るもんな。じゃあ茶でもポットに詰めてもっていくか」
「まって、私いつお腹出して寝ていたっていうんですか?いや、そうじゃなくて……」
勝手なことしないで、と抗議するが、ジローさんは私の文句など右から左で受け流して、ひょいひょいとバスケットに食べ物や飲み物を雑に詰めこみ、無理やり私を馬に乗せた。
「ホラホラしっかり掴まらないと危ないって。あー、いい天気だナァ~昼寝日和だわ~」
「ちょっと!ホントになんなんですか!ていうかどこに行く気ですか?」
ジローさんは鼻歌まじりで馬の手綱を引いてどんどん進んでいく。私の抗議は全く聞く気がないらしい。
空はよく晴れていて、朝から手入れをしてもらったらしい馬はごきげんで、私を乗せて足取りも軽い。
もう若くない牝馬だったが、この村に来て、土地だけはあるのだからと、放牧と称して適当に放し飼いをしているうちに、以前よりよっぽど元気になった。
馬はいつも手入れをしてくれるジローさんに懐いていて、私のいうことより彼の指示に従う。
ジローさんに手綱を引かれる馬はポクポクと楽しそうに蹄を弾ませていた。
丘を越えて森を抜けると、開けた場所に、そこだけ隠されるように木々に囲まれた湖が現れた。
村からさほど離れていない場所だが、ここだけ別世界のように、神秘的な雰囲気をまとう不思議な湖だった。
「わあ……」
湖は太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
山からの雪解け水が流れ込んでいるのか、水は底の方まで透明で、小さな魚の群れが泳ぎ回るのがよく見える。
湖底が複雑な色合いをしていて、光が反射するたびにところどころ虹色に輝く。
「…………綺麗」
「だろぉ?なんもない村だけど、この湖は世界一綺麗だと思うんだ。ディアさん、村に来てすぐ仕事ばっかりしていたから、まだ村のこと全然知らないだろう?だからさ、まずは俺一番のおすすめの場所にご案内しようと思ってさぁ」
そういってジローさんは二カッと笑った。私はジローさんの言葉にハッとなり、同時にとても恥ずかしくなった。
この村でずっとと決めたのに、私は毎日村役場で書類しか見てこなかった。村にきて三ヶ月ほど経つのに、村の地理も地図でしかみたことがない。一度も村を見て回ったことがない。
村の人たちにも、役場に来た方には自己紹介をしたが、誰がどこに住んでいるのか全然把握もしていなかった。
私はずっと自分のことばかりで、この村のことを全く知ろうとしていなかった。正直、知りたいとも思ってなかったのかもしれない。
ジローさんはそんな私を優しく叱る意味で、今日を休みにしてこの場に連れてきたのだろうか。
恥ずかしい。いつも私は自分のことばかりで、周りが見えていない。恥ずかしくてたまらなくなり、綺麗な景色を前に顔を上げられない。
そんな私の様子に気付いているのかいないのか、ジローさんはのんびりした様子で話を続ける。
「俺なあ、貧乏でなぁーんもないド田舎なこの村が、子どもの頃から大嫌いだったんだけどな、この湖だけは好きだったのよ。綺麗だろ?この湖。どこまでも透明で、心が洗われるっていうかさ。やなことあっても、ここにきて水を眺めていると、嫌な気持ちも流れていく気がするんだ。
ディアさん、ここ最近すごく疲れているんじゃないか?眠れてないだろ?
ディアさんいつも無理するイメージだから、ちょっと無理やりにでも休ませないといけないかなーと思ってさ。村長に言ったら、やっぱり村長も心配していたみたいで、体調良くなるまでお休みしていいよって言ってたぜ?だから少しゆっくりしたほうがいい」
「あ……ジローさん、気づいて……」
ホラホラ、と言って、ジローさんはブランケットを地面に敷いて、私を座らせる。
頭をよしよしと撫でてくれるその手は温かくて優しかった。固くて節くれだったその手は古い傷がたくさんあって、彼の短からぬ人生の苦労を思わせた。
ジローさんは、ただ本当に、私のことを心配してここに連れてきてくれたんだ……。
私の両親は、私の体調を慮ってなどくれなかった。私の人生に、こんな風に私の辛さに寄り添ってくれる人は一人もいなかった。
混じりけの無い、純粋な優しさを感じて、ぎゅっと胸が苦しくなる。
私とジローさんの関係なんて、友人になってまだ数か月といった浅いものだ。親子でも親友でもない赤の他人だ。しいて言えばただの旅の友で同居人だ。
なんで彼は私にこんなに優しくしてくれるのだろう。私は、こんな風に彼に優しくされる資格なんてないのに。
ジローさんを見上げると、彼は優しい目で私を見ていた。なにかに私が苦しんでいることに気付いていても、彼はきっと無理に聞き出そうとはしない。ただずっとそこにいて、私が話したくなれば、その時はただ優しく受け止めてくれるんだろう。
私はその優しさにすがるように、今の気持ちを吐露した。
「ジローさん、私ね…………夜眠れないんです。夜、ベッドでひとりになると、あの時の悔しい気持ちとか、みんなを恨む気持ちとかで頭がいっぱいになって、自分が真っ黒になっていくんです。ジローさんが以前言ったように、すごくブスで醜い顔をしていると思います。
でも憎む気持ちが捨てられないんです。忘れようとしても忘れられないんです。そういうの全部、あの町に置いて捨ててきたと思ったのに、どうしても忘れられない。
あ、あんなに頑張ったのにっ……私が要らなくなったとたんに、ゴミのように踏みつけて捨てた彼らが、少しも苦しむことなく幸せに暮らしているのかと思うと、に、憎くて憎くて……憎くて仕方がないんです」
喉がぎゅっとなって何度もつっかえてしまったが、ようやく言葉にできた。
それでも自分の口から出た酷い言葉に、とたんに後悔の念が押し寄せてくる。
ああ、言ってしまった。全部忘れて捨てていくんだ、なんて潔いことを言っておきながら、私は今でもこんなに汚らしく彼らを恨んでいる。
潔い自分を演じて、忘れたような顔をしておきながら、彼らの幸せを妬んでいる。
なんて醜い。
なんて汚い。
なんて卑しい。
恨みと嫉妬にまみれた私の顔は、きっとまた憎しみに歪んで鬼のように見えるだろう。
こんなことを言ったら嫌われる。こんなに嘘つきで醜い人間だったなんて知られてしまったら、いくら優しいジローさんだって、私に幻滅するに違いない。
苦しくて顔を上げられない。ジローさんがどんな顔で私を見ているのか、知るのが怖い。
膝に顔を埋めたままでいると、そっとジローさんが立ち上がる気配がした。サクサクと草を踏む音が聞こえ、彼が遠ざかっていくのがわかった。
ああ、私に呆れて、ジローさんは帰ってしまうのか。
そのほうがいい、独りになりたい。どんどん醜くなる私を見ていられたくない。
俯いたままでいたら、再びサクサク、という足音が近づいてくるのが聞こえた。足音は私の隣で止まって、とんとん、と肩をたたいた。
顔を上げると、そこにはジローさんがいて、左手になにか丸っこい石を持っていた。石には泥で何かが書いてある。顔……のように見えるが、これは……。
「……?」
「これは、えーっと、アイツだ。エロ君だ」
「………………ラウのこと、かしら……?」
「そうそう!それだ!わりかし上手く書けたと思うんだけど、この石がそのエロ君だとする!」
「???だから、ラウだって……この石が、なに?え?似顔絵?かろうじて顔と分かるけど……石の裏にあるこの絵は?」
「ああ、裏側?すげェうまく書けたわー。それ、エロ君の尻な。エロ君については、尻丸出しネタしか知らないからさ!」
思わずブフッと噴き出してしまう。お尻だと言われるともうそれにしか見えない。というより、ジローさんはもちろんラウのことなんてほとんど知らないだろうけれど、私が話した内容からお尻を出していたってとこしか印象に残らなかったらしい。
「んんっ……もう、笑わせないでください。その石をどうするんですか?」
ジローさんはニコニコ笑いながら、私にその石を手渡してくる。
「おいちゃんもう若くないからさ……人生色々あったし、いろんな場所でいろんな奴を見てきたんだよ。恨んだり憎んだりって感情に振り回されて身を滅ぼした人もたくさん見てきたよ。
復讐して、本懐を遂げたヤツってのもいたけれど、その後に残るのはやっぱ空しさだけなんだよねえ。
あんな目にあったディアさんが、復讐とかしないで家を出るって言いだした時、ホントすげえって思ったんだ。俺だったらとりあえず馬糞を投げつけるくらいはしないと気が済まないわ。あそこで悪い感情を切り捨てようって決心できるのは、すごいことなんだよ。
ディアさんは、そんな酷い目にあっても、ねじくれることなく真っ直ぐ立とうと頑張っている。辛くても真っ直ぐ立っているディアさんは綺麗だよ。
だから、ディアさんにはあんなろくでもない男のことで何度も悲しんで欲しくない。
尻出し男のことなんて投げ捨てちまえばいいんだって。忘れられないのなら、何度でも、ここにきて湖にアイツの思い出を捨てようや。イヤな記憶は全部、この湖が綺麗に洗いながしてくれるからさ」
ちょっとだけ真面目な顔をして、ジローさんは私に言う。
手の中には、まぬけな絵が書かれた石がある。
ジローさんは『うんうんうん』と頷きながら、身振り手振りで投げろと言ってくる。
ふ、と少しだけ笑うと、思いっきり振りかぶって、私は石を湖に向かって投げ飛ばした。
石は、綺麗な放物線を描いて飛び、ボッチャーンと大きな水しぶきを上げて湖に落ちた。跳ねた水がキラキラと光って、なんだか夢のようにきれいだった。
「……すごい、飛んだ」
「ディアさん超肩強えぇ!けっこー重みあったけど?!あの石!すんげえ飛んだし!ちょ、水切りもやってみようぜ!ディアさんめちゃくちゃ飛ぶんじゃねえ?」
「水切り?どうやるんですか?」
「知らん?こーやって横投げで、水面を切るように石を投げるとさ……ホラ!見た?俺すげえ今五回跳ねただろ!」
「わ!すごい!面白い!なんで跳ねるんですか?私にもできますか?」
「んーじゃあジローさんが手取り足取り教えてしんぜよう」
ジローさんはそう言って本当に手取足取り教えてくれた。




