第9話:人と神の差・下
「それでは、私はホテルに帰りますわ。何かあったら、此処に連絡を下さい」
アリスは、ホテル名と電話番号、部屋番号の書かれた小さな紙を蒼に渡した。
「俺はいつも、この部屋に居るから、暇ならいつでも来い」
アリスは、軽く頷いてみせ、部屋の入口に歩いて行った。
「あの、アリスさん。そもそも何処から、この部屋に入って来たのですか」
時雨の問いに、アリスは、さも当たり前の様に答えた。
「この入口からですわ。貴女方を追い越して、ね」
ニッコリと微笑むアリスに、時雨は戸惑った。
「追い越してって…私達の他は、誰も入っていませんよ。扉も、私が閉めましたし…」
「貴方が柱の扉を閉めた時、私はすでに部屋に着いておりましたわ」
「えっ!!」
時雨だけでなく、柊もまた、驚愕した。
「別に、驚く程の事ではありませんわ。神とは、人間の常識の遥か上を行くから、神なのですよ」
その時、携帯の着信音が鳴り、時雨が慌てて携帯を取り出した。
「はい、もしもし。…はい、私です。はい…えっ!今ですか?……はい。分かりました。伝えておきます」
通話を切って、時雨が蒼を振り返る。
「あの、ですね。御父様が、蒼と一緒に夕食をとりたいとの事でして…用意は出来てるそうなので、いつでも戻って来なさいと仰っていました」
「はぁ、そうか。まぁ、今日は、これと言って仕事もねぇしな。んじゃ俺等も帰っか」
「では、迎えを呼びますので。すぐに来る筈ですから、外に出ていましょう」
時雨は、携帯を取り出し、誰かにコールし始めた。
「アリス。お前も一緒にどうだ?」
アリスは頭を降って、蒼に向き直った。
「申し訳ありませんが、今夜は遠慮致します。女王と話がありますので」
蒼は軽く頷いて見せ、その内に時雨の電話が済んだようだ。
「それにしても、よく電波あったな。ここって位置的には、地下二階だろ?」
国会議事堂は地上三階、地下一階、および中央塔が4階、また塔屋最上部まで合わせると9階建ての造りになっている。そう考えると、蒼の部屋は必然的に、地下二階相当の位置と予想出来る。
「お前なぁ、当たり前だろぅがよ…此処に電波無かったら、地上で何かあった時、俺だけ逃げれねぇだろが」
蒼は呆れ顔になりながらも、続きを話した。
「つっても、最初からじゃねぇけどな。九州の方に、この部屋を専属でリフォームしてくれる奴等が居てな。十年に一度やってくれんだよ。じゃなきゃ、この部屋のトイレなんか、水洗にもなってねぇよ」
「だったら、床の本も片付けてもらえよ」
「俺は、こんくらい散らかってる方が良いんだよ」
言い終えると、蒼は入口に向かい、皆も続いて外へ出た。
外は、既に夜の帳が下りていた。
議事堂の前に、黒塗りのベンツが停まっているのが見えた。
「では、皆様。またお会いしましょう」
アリスは御辞儀をして、ベンツに歩み寄ると、車からスーツを来た屈強な男が2人出て来て、静かにドアを開けた。
「アリス。止まれ…」
蒼が突然、険のある声を上げた。
車まで残り三メートルの所で、アリスが振り向いた。
「何かありましたか?」
蒼は煙草に火を付け、前方を見据える。
「意外と早く来たなぁと思ってよ…そのSP共、血の匂いがしやがるぜ」
アリスが視線を戻すと、男達は銃を取り出し構えた。その時、物影から、同じく銃を構えた男が3人現れた。
柊と時雨が思わず、身構える。
「たった5人か…ちと、なめすぎじゃねぇか?」
「ふふ…確かにそうですわ。どうせなら千人位連れて来ても、一向に構いませんのに」
男達が、静かに移動し、蒼達を取り囲む。
「こんなん相手にすんの、めんどくさいっつぅの。アリス、とっとと片付けっぞ」
「あらあら、構いませんけど、腕は鈍ってないでしょうね?蒼」
「はっ!誰にもの言ってんだよ」
蒼とアリスが身構えると同時に、男達も照準を合わせる。
「柊、時雨。良く見てろよ。人と神の差をよ…」
蒼が煙草を空高く投げた瞬間、男達が一斉に引き金を引き、けたたましい銃声が鳴り響く。
その時の柊は、目の前の状況ではなく、過去の事を思い返していた。
子供の頃に始まり、学生時代の事、そして、蒼に会ってからの事…
(あぁ、これが走馬灯ってやつか…)
柊の意識が、目の前の現状に至る。
(弾が来るのが見える…確かこれって、オーバーレブとかって現象じゃないっけかなぁ。命の危険が迫った時に、脳が視覚から来る情報を全て処理するけど、体はそれについて行けないとかって…)
しかし、柊の思考はそこで終わった。先程まで、自分を狙っていた銃弾が、弧を描く様にして、虚空に抜けて行ったからだ。
突然の事に柊は困惑した。
「な、なんで!?」
それは男達も同じで、お互い顔を見合わせて動揺している。
「んな鈍い弾なんか当たんねぇよ。アリス、やれ」
アリスが右手を上げる。
パチン、と指が鳴らされたと思った時、男達は地面に倒れていて、持っていた銃は全て、蒼の手の中にあった。
まるで、フィルムのコマを飛ばした様に、一瞬で何もかも終わっていた。
柊と時雨は、現状を理解出来ずに、只呆然として固まっていた。
「お前等、ちゃんと見てたかぁ?」
空から、先程蒼が投げた煙草が落ちてきて、蒼の指先に戻った。
「いや、見てたかって、何にも分かんねぇよ!何したんだよ、一体!?」
柊が一気にまくし立て、時雨も勢い良く、首を縦に振る。
「蒼。この際ですし、きちんと説明した方が良いですわ」
「しゃーねぇなぁ。説明してやっから、有り難く拝聴しろよ」
煙草を足で踏み消した蒼は、次の煙草に火を付け、静かに燻らせた。
「俺達、神の孫には不老不死の他にもう一つ、生まれ持っての能力がある。俺の能力はこれ」
蒼が口から煙を吐く。すると、蒼の顔の前で、煙は霧散せずに、野球ボール程の塊になって、そこに留まった。
「俺は、この地球上の全ての大気を操れる。こうして煙を留めたり、任意の位置を真空にしたり出来る。後は、大気を伝って、遠く離れた人間の位置や、その人間の服装とかも、見て、触った様に分かる。んで、さっきは空気の塊で、弾丸の軌道を反らしたっつぅ訳よ」
柊はある事を思い出した。前に、蒼の住む町に高山が来た時、蒼に高山が来た事を知らせる前に、蒼の方からこちらに来た。その時、蒼に理由を聞いたら、『風に聞いた…』と言っていた。
「だから、直接見なくても、お前等の位置とかも分かるっつぅ訳よ。例えば、時雨の胸が、Dカップ位だってのも、手に取る様に分かる」
柊が思わず、時雨の胸に視線を送ると、時雨は真っ赤になって、反射的に柊を殴った。
「ちょっと、蒼!!やめて下さい!!!」
「まったく、初なこって…それに、やめようにも、お前達が大気中に居る限り不可能だ。宇宙空間にでも、行くしかねぇな」
それを聞いて、時雨は赤くなりながら項垂れ、柊は殴られた頬を押さえつつも、なんだか幸せそうな顔だった。
「それと、アリスの能力だが…こいつは、時間を止められる。どん位の間、出来っかは知らねぇけどな」
「まぁ、時間の止まった世界で何分って事もないですが、恐らく一時間はいけますわ。因みに先程は、私と蒼以外の時間を止めましたので、貴女方は何が起こったか理解出来なかったでしょうね」
アリスは得意気な笑みを浮かべて見せた。
「そう、例えば…」
彼女は又しても、指を鳴らす。そして、柊達の前から一瞬で姿を消した。
「後ろですわよ」
「!!」
柊と時雨が同時に振り返り、アリスと目が合う。
「貴女方には、私が一瞬で移動した様に感じたでしょうが、私は止まった世界で歩いただけですわ。それと、一時間は止められると言いましたが、それは一日のトータルでの話です。今日になってから、今までで約30分は使ったと思いますので、長くても後30分しか出来ませんわ」
アリスの話が終わると、蒼は柊に歩み寄った。
「どうよ、柊。これで分かったろ?力づくっつぅのは、こう言う事よ」
柊は今まさに、人間と神の差を痛感した。彼等は、見た目こそ人間と変わらないが、その本質は人を超えた、全く違う生命体なのだと…
「さて、理解出来た様だし、さっき一瞬ではあれ、この俺を小馬鹿にした柊に、ちょいと御灸を据えてやるか」
「ちょ!何言ってんだよ!」
「黙れ!俺は見下されんのが、一番腹立つんだよ。まぁ、安心しろ。ちょっとは幸せ感じる筈だからよ」
蒼がアリスに目配せして、アリスも頷き、それを見た柊は、咄嗟に固く目を閉じた。パチン、と指が鳴る音だけが響く。
「………アレ?」
何も起こらない。しかし、手に布みたいな感触があり、柊は恐る恐る動かすしてみる。すると、手の中に柔らかいモノを感じ、柊はゆっくり目を開けた。
目を開けると、目の前に下を向いた時雨が居て、柊の手は時雨の両胸をブラウス越しに揉んでいた。
「えぇ!!」
慌てて、手を離した柊の目線の先、時雨が眉を吊り上げた顔を上げる。
「待って、これは蒼が…」
「揉んだのは、お前だろぅが」
蒼は完璧に他人事の様に振る舞った。
「おい!ちょっ…ぐふっ!」
柊の言葉を遮って、時雨が顎にアッパーを叩き込んだ。
「最っ低!!」
時雨の罵声を聞きながら、柊は地に倒れた。
(時雨の柔らかかった……じゃなくて!時雨って意外と力強いのな。マズい…脳が揺らされて、意識が…)
柊は朦朧とする意識の中で、蒼と目が合った。
「な?ちょっとは幸せ感じたろ?」
しかし、柊に蒼の声は届かず、そのまま気を失った……