第38話:G.C.W(金獅子)
その情報が脳に流れてきたのは、つい今し方のことだ。
そして、次の瞬間には、エルティガは駆け出していた。
新庄 柊がカラーの刀に心臓を貫かれた。
初めは最悪の結果だと思った。
神の孫でもない、只の人間の彼を死なせてしまうのだから。
しかし、この窮状を好機に返る術を、エルティガは既に手にしていた。
眼前に竜王、狼狽するカラー、そして柊を抱えて泣き叫ぶ時雨の姿が見えた。
エルティガは速度を上げ、一息に間合いを詰めると、まだこちらに気付いていない竜王とカラーの首に強烈な手刀を放った。
「がっ!!」
膝から崩れる2人を尻目に、エルティガは時雨の前で歩みを止めた。
「う…う、ふぁ、ファウストさん…」
片膝を着き、泣きじゃくる時雨の頭をそっと撫でた。
「落ち着きなさい」
「で、でも…でもぉ…柊さんがぁ…」
「大丈夫、彼を助ける方法が一つだけある」
「えっ!」
目を見開いた時雨に微笑みかけ、エルティガは立ち上がった。
「状況は見てたね」
「ええ」
エルティガの問いに答えたのは、音もなく、時雨の背後に立ったイヴだった。
「貴方が、何を言おうとしているかも分かるわ」
「ならば話は早い」
エルティガは右手をイヴに伸ばす。
「アダムの心臓を渡してくれ」
「嫌だ、と言ったら?」
「…僕達、全員が死ぬ事になる。彼が到着したからね」
エルティガの台詞を裏付けるように、その異変は目に見えるものとしてやってきた。
「米軍機が…」
時雨の声につられ、イヴは視線を空へと移した。
そこには、先程までの秩序ある隊列の姿はなく、全ての機体が蜘蛛の子を散らすように、逃げ惑うように、飛び交っていた。
『何が、どうなっている!!』
シェリー・クロードの声が木霊する。
『何が起こった!ティアマット!!』
それは、彼女の叫びに呼応するかのように、墜ちてきた。
深紅の機体は黒煙を上げ、風を切る羽はガラクタのように、只の鉄屑として、米軍最強の音速ジェット機・F23-ティアマットは、その真価を発揮することなく、日輪の下に沈んだ。
「全ての元凶にして、忌避すべき金獅子」
地に叩きつけられたティアマットから爆炎が上がり、殴りつけるような衝撃波と熱風が辺り一面に広がる。
「今日この日の戦争は、全て彼1人の野望の為に、彼が世界を手にせんが為に起こったと言っても過言ではない」
近くでアスファルトを砕く音が上がった。
「慈悲など、いらなかったのだよ…イヴ」
砕けたアスファルトの欠片と土煙の中に、屈強な人影が浮かんだ。
「一思いに、息の根を止めておけば、こんな不毛な争いなど起こらなかっただろう…」
「それも、今となっては、何もかも遅い」
二度目の爆発が起こり、粉塵がかき消えた中に、迷彩服を着たその男は立っていた。
「久しいな。お袋、それにエルティガ」
肩までかかる金髪に、鋼のような筋肉に覆われた逞しい肢体。鋭い金眼は見るものを威圧し、誰しもが、彼の力の強大さを否応なく理解するのは、もはや自然の摂理である。
「懐かしいな」
男はそう言い、口元を歪め笑った。
「懐かしさのあまり、込み上げる殺意を抑えられんわ。…よもや、忘れた、などとは言うまい」
「忘れる訳などない。君がその胸に、有り余る怒りと、憎しみと、殺意を抱いたのと同じように、僕等も、二千年以上経った今でも、後悔と自責の念に苛まれているのだからね」
エルティガは振り返り、遂に男と対峙した。
「カイン…」
「かははははっ!良く言うわ。貴様等の後悔の念など、俺が味わった屈辱に比べれば、無きに等しいわ。だが、許そう。許してやろう。今日の俺は寛大だ。今日、この日をもって、俺の復讐は果たされ、そして世界が俺にかしずくのだ」
「僕等がそれを、只黙って指をくわえて見ているとでも思っているのか?」
「否、だろうな。だが、無駄だ。お前達の戦いは終始見ていた。フロイヤとルインは死に、セルヴォとゼロスも直に死ぬ。残った貴様とガーネットも、俺の敵ではない」
そして、カインは悠然と一歩を踏み出した。
「さぁ、殺ろうじゃないか?エルティガよ。俺の攻撃を千手先まで読むが良い。俺は只無慈悲に、物言わぬ石のように貴様を砕くだけだ」
一歩、また一歩。
地を踏みしめる毎に、カインの腕の筋肉が力を溜め、盛り上がっていくのが分かる。
エルティガは構えた。
だが、その構えは、兎が獅子に行う最後の悪足掻きに過ぎない。
命を懸けたところで、兎が獅子を殺すことなど不可能なのは明白だった。
「イヴ、早く心臓を柊君に入れてくれ」
「でも…」
「でもも、しかしもない!!やらなきゃ死ねだけだ!僕ではカイン相手に5分と保たない…」
息を呑む音が鳴る。
それは果たしてエルティガか、イヴか、時雨か、瀕死の柊か…。
「イヴ、頼む。まだ僕が死ぬまで時間があるが、長くはない」
エルティガとカインの間合いは多く見積もっても、僅か十歩の所まで来ていた。
「……」
暫し黙考し、イヴは右手を掲げた。
「来て、アダム」
ドク、ドクと、音を立てて脈打つ真っ赤な心臓が、イヴの手中に現れた。
カインの歩みが止まる。
「何をする気だ?」
その疑問に返答することなく、エルティガが切りかかった。
「余所見をするな。無駄口を叩くな。お前は僕を殺すことだけを考えていろ!」
「エルティガ!」
凄まじいまでの攻防の火蓋が切って落とされた。
*
『戦いに臨むに際して必要なのは、殺しきる覚悟だ』
そう言ったのは誰だったか。
自分を造った科学者だったのか、はたまたシェリー・クロードだったのか、今となっては記憶の彼方だ。
シルフは瓦礫を払い除けていた。
軽い物は手で、重い物は能力を使って、淡々と、無言でその作業に勤しんでいた。
殺した筈だ。手応えはあった。
だが、死体を確認するまで分からない。
何せ相手は神の孫だ。
おまけに、蒼はアダムの心を持っている。
それを回収して初めて、シルフの勝利は不動のものとなる。
一つ、また一つ。シルフは瓦礫をどかす。
面倒な単純作業、だが決して気は抜かない。
そして何度目かの工程で、遂に変化は訪れた。
目の前で瓦礫の山が音を立てて崩れてきた。
シルフは手に持ったコンクリート片を投げ捨て、バックステップで足場の安定した所まで下がる。
「ちっ!生きてやがったか!」
そう吐き捨て、瓦礫の山の上を見上げる。
そこには土埃の汚れを払うこともなく、ただただ眼前の敵を憤怒の形相で睨み付ける蒼の姿があった。
焼け付く様な怒り、触れれば斬れてしまいそうな鋭い殺気。
しかし、それとは裏腹に、彼は些細な衝撃でも壊れてしまいそうな程に、満身創痍だった。
左手はだらりと垂れ下がり、肘から先が潰れかけていた。その上へいくと、肩にはピンポン玉程の穴が空き、夥しい血が止め処なく流れている。
「ごほっ!ごほっごほっ!う…」
咳き込んだ蒼の口から鮮血が吐かれた。
血に汚れた神の孫。
彼は、ふっ…と、息を吐き、表情から険を払い、目を細め、うすく、笑った。
「殺し損ねたなぁ…小僧」
シルフの背に、今まで感じたこともない悪寒が走る。
「一生に一度の、千載一遇の、絶好の好機を、テメェは生かせなかった」
蒼は、ゆっくりと右手をシルフへ向けた。
「哭いている…か。あの小僧、白澤が言った意味が、ようやっと分かった。死ぬ前に掴めたのは幸運だったぜ。なぁ、小僧…いや、シルフ。お前にも聞こえるか?」
「な、何がだ…?」
「風の嘶きさ…。聞こえないなら、お前に勝機はねぇ。たった今、俺は完全に自分の能力を掌握した」
徐に、蒼は人差し指を一本立てる。
「一分だ。一分でお前を殺す。嘆きも、後悔も、死の実感も与えず、一息の間に葬ってやる」
「その身体でか?」
「身体なんてただの器に過ぎねぇ。俺は、風だ!」
パチンッと、蒼の指がなった。
「!!」
次の瞬間、シルフの両手足は千切れ飛んでいた。
宙を舞う手足が、遠心力に乗って血を噴き、雨となって降り注ぐ。
「はっ!?」
急に感覚が戻り、額から多量の汗が流れ落ちる。
初めに右手を、そして左手を確認する。
そこには無傷の両手があり、足もしかと地を踏んでいた。
しかし、震えが止まらなかった。
「どうした?四肢をもがれた様な顔をしてるぞ?」
蒼が笑っていた。だが、それは追い詰めた獲物に向ける、捕食者のそれに等しかった。
「な、何を、した?」
シルフの声は震えていた。
「何も、何もしてねぇぞ。シルフ。何かするのは、これからだ!」
そう言って、蒼は飛んだ。
密度を上げた空気を使い、自分の身体を空中に投げ出す。
そのまま、態勢をシルフへ向け、両手の親指と人差し指を伸ばし、手でフレームを作る。
「ぐあっ!」
傷付いた左手の激痛に、息が詰まりそうになるが、構ってなどいられない。
そして、フレームの中央に写るシルフは身動き一つ取れずにいた。
「はぁ、はぁ…王手だ」
シルフは恐怖で動けなかった訳ではない。
只単純に、動けなかったのだ。
ゆっくりとした流れで、蒼は着地した。
だが、その着地点は地面ではなく、シルフの頭上だった。
「テメェは俺と同じ能力のクセして最後まで気付かなかったな」
蒼は、ポケットから潰れかけた煙草の箱を取り、一本くわえると、深々と紫煙を吸い込んだ。
「全ての生き物は、何もねぇ空間を歩いてる訳じゃねぇ。皆、空気をかき分けて歩いてんだ。だが、その空気が動かなかったら…今のテメェの状態になる」
微動だにしないシルフ。蒼は煙草を投げ捨てる。
「呼吸は当然ながら、瞬きも出来ねぇよ。そしてパニックに陥っているテメェに、この技を解除する術もねぇ。このまま呼吸困難で窒息死も良いが、それじゃ俺の腹の虫が収まらん。それに、そろそろ一分だ。たたませてもらうぜ」
蒼は屈み、箱型に固められた空気に手を添える。
「今まで、完全な真空状態を作ることは出来なかった。だが、今の俺なら…」
添えた手を中心に水蒸気が立ち上る。
真空。
それはつまり零気圧の空間を指す。
例えば水と言うのは一気圧下において、水分子が固められている為に液体の形を保っている。
そして、それは熱することにより気体へと姿を変化させる。
液体が気体となる為の沸点と気圧には密接な関係がある。
例として上げるまでもないが、地表において100℃の沸点の水は、富士山の山頂ではその沸点が88℃へと下がる。
これは気圧の変化に伴うものである。
では、真空状態の宇宙空間はどうだろう?
もし、宇宙空間に居る最中に、宇宙服が破れたとする。
そうなった場合、人は呼吸困難で死に至る。
などと言うことは有り得ない。
気圧が下がれば沸点が下がる。
つまり零気圧の空間では、液体は一瞬で蒸発し、それは血液も同じである。
もし、宇宙空間に生身で放り出されたなら、体内の血が瞬時に沸騰し、ガスが溜まり、人の身体は何倍にも膨れ上がり…。
「弾けろ」
急速に勢いを増す水蒸気の煙幕。
その中にうっすらと浮かぶ、不格好な球体のシルエット。
「我こそは姿無き使者達の統率者。彼等の温情は万物にとっての御恵みであり、愚者達にとっての鋭き刃なり。汝の耳に、それは如何様に聞こえる。恩恵の福音か、はたまた破滅の嘶きか。我はただ、彼等の声なき声を紡ぐ調べなり」
パンッ、と、風船が割れた様な乾いた音がなり、辺りを満たしていた水蒸気が紅色に彩られた。
風に乗って流れる血霞の後には、深紅に染まったスーツが、ボロ雑巾の様に様変わりした姿を残すだけだった。
「……すまん」
一度頭を垂れ、蒼はそれだけ言うと、すぐに踵を返した。
遥か遠く、蒼の見るその先に居るのは、二千年以上前に、自分達が殺し損ねた災厄だ。
「今度こそ、何もかも終わらせてやる」
蒼は既に痛みを感じていない。
漲る決意が、モルヒネの様に痛みを麻痺させていたのだ。
そして彼は、死地へと一歩を踏み出した。