第30話:ノア
「これは、どういう事なの?」
アメリカ、ホワイトハウス前で、God.childrenのノアはイヴと対峙していた。
イヴは、ノアの質問を無視すると、足下に横たわったアリスを抱き起こした。
「ごめんね…フロイヤ」
アリスの頬を優しく撫で、額と額を合わせてイヴは眼を閉じた。
穏やかな沈黙が、彼女達を包み込んだ。
顔を上げたイヴは、アリスの胸元に手を添える。
そこは薔薇の花が咲いた様な、鮮やかな真紅に染まっていた。
「治りなさい」
優しく、慈愛に満ちたイヴの声に応じて、アリスの胸に空いた傷は彼女の漆黒のドレスごと、元通りに修復された。
それを確認すると、イヴはアリスをそっと寝かせ、立ち上がり、ノアに向き直る。
「貴女を殺すわ。ノア」
「昨日は治して、今日は殺す。全く、意味が解らないわ」
ノアは冷やかに、イヴを見やる。
「可愛い娘を殺されたのよ?昨日とは状況が違うわ」
「死んだって不思議じゃないわ。これは遊びじゃないもの。だいたい、今の言い振りだと、私が死ぬべきだった、と聞こえるわよ?」
「当然よ。縁もゆかりもない貴女達より、何千年と同じ時を生きた彼女達の方が、大切に決まっているじゃない?」
「イヴ…貴女、それでも私達の味方?」
「そんな事、言った覚えもないわ」
お互いに睨み合い、大気がピリピリと緊迫感を孕んできたのが肌でも感じ取れる程だった。
「別に戦おうって言うなら、構わないわ。私、今とっても機嫌が良いから」
ノアは言ったが、眼は決して笑ってはいなかった。
「卑怯な手を使って勝ったのが、そんなに嬉しいの?」
「卑怯?戦術と言ってほしいわね。言ったでしょ?遊びじゃないのよ」
そう言って、ノアは左手に持っていた拳銃をちらつかせた。
「そんな事より…貴女、戦えるの?たかが、傷を治す程度の能力で」
ノアの皮肉めいた笑みに、イヴは静かに溜め息をついた。
「貴女、さっきから勘違いばかりね」
「どういう意味よ?」
イヴの蔑んだ物言いに、ノアは苛立ちを隠す事なく問い返した。
「私の能力が傷を治す力だなんて、誰が言ったの?」
「あはっ!何を言うのかと思えば、今もやって見せたじゃないの?」
「ええ、確かに。でも、それだけじゃないのよ」
「ふ~ん。ま、どっちにしろ。私の時を止める能力の前では無駄だけどね」
それを聞いたイヴは、嬉々として微笑んだ。
「なら、とくと味わいなさい。私の能力を!」
イヴが言い終わるや否や、ノアは右手を掲げた。
「勿体ぶるのは勝手だけど、お笑い草ね。もう勝負はついたわ」
ノアが能力のスイッチである指を鳴らす瞬間、イヴが口を開いた。
「時はもう止まらない」
ノアの指が、パチン、と小気味良い音を鳴らす。
しかし、時は止まらなかった。
「えっ!?どうして!?」
続けて二度三度と指を鳴らすが、その音は辺りに虚しく響くだけだった。
「お笑い草はこっちの台詞ね。貴方の能力なんて、私の前では児戯に等しいわ」
「何をしたの!?まさか、貴女も時を…」
「違うわよ。私の能力、それは…」
イヴの金色の瞳が、ノアを射す。
「それは、願いを叶える能力よ」
「願い…?」
「そう。私が心で願った事に応じて、全ての事象をねじ曲げる。それが私の能力・『願い』よ」
ノアは眼を見開き、驚愕した。
願いを叶える能力だなんて聞こえは良いが、その実態は恐ろしいものだ、と瞬時に理解した。
イヴは先程、確かに言った。
『時はもう止まらない』と…。
傷を治すのも、時を操るのも想いのまま。今、この時、この世界は、彼女の掌の上だった。
ノアの深緑の瞳に、焦りと恐怖が混同する。
普段なら、美しく風に舞う彼女の銀髪も、今はただ儚い印象しか持っていなかった。
「でも、私の能力は万能ではないわ。失った命だけは、元に戻せないの…。だけど、命を失わせる事は出来るわ。さて、どうやって貴女を殺そうかしら?最初に断言するけど、楽に死ねると思わないでちょうだいね。私は今、とっても機嫌が悪いの」
一気に辺りに殺気が立ち込めた。
恐怖が蛇の様に、足下から絡み付いてくる錯覚に、ノアの細い身体は震え上がった。
動かなきゃ、殺される…。動かなきゃ、動かなきゃ…。
心の中で、幾度も念仏の様に繰り返した。
動かなきゃ…………。殺さなきゃ!!!
「やぁぁあぁあぁぁ!!」
本能が恐怖を組み伏し、ノアは引き金を何度も引いた。
けたたましい銃声が響く。
しかし、銃弾はみるみる失速し、イヴの目の前で止まり、ぽとりと地に落ちた。
「ごめんなさいね」
哀れみを含んだイヴの眼に見据えられ、ノアの手から握っていた銃が零れ落ちた。
「もう既に願っていたのよ。敵意ある攻撃は私には届かない、ってね」
にっこりと笑うイヴの表情は、ノアの恐怖に拍車を掛けた。
「そうだわ。貴女の殺し方が思い付いたわ」
イヴは憮然とした態度のノアへと手をかざす。
「貴女は砂時計に閉じ込められる」
言葉の通り出現した巨大な砂時計。
その下の部分の硝子の球体の中に、ノアの姿はあった。
上の硝子の球体に満杯に入った砂が、さらさらと下の球体に流れ込んでいく。
絶望した表情のノアは、小さな握りこぶしで力一杯に球体を叩き、口を大きく開いて何ごとか叫んでいる様だが、その叫びも、硝子を叩く音も外へは届かない。
「無駄よ。貴女みたいな女の子如きの力じゃ、その硝子は割れないわ」
砂は淀みなく、流れ続ける。
「あら、いけない。忘れるところだったわ。貴女は動けない」
ノアの動きが時を止めた様に停止する。
「こうしないと、砂の出口を塞がれてしまうものね。うっかりしていたわ」
表情に変化はなかったが、ノアの眼から大粒の涙が止めどなく零れだした。
「呼吸以外は出来ない筈なんだけど…。そろそろ干渉制限が働く頃かしら?時間がないわね」
イヴは最後に、ノアに満面の笑みを送る。
「そこで死の恐怖に泣いてなさい。哀れなお嬢ちゃん」
言い終え、イヴはアリスを抱きかかえると、ノアに背を向けて歩き始めた。