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さよならまたねとこれからと

作者: 長野原 春

 こんな光景を見るのは何度目だろう。

 ひたすら変化のない、真っ白な天井と壁。

 そして昨日綺麗に整えられたばかりのベッド。

 私がここにきてから、どれくらい経ったんだろう。

 カレンダーは……11月28日か。

 じゃあもう3ヶ月くらい経つのかな。

 テレビは……あ、そうだ、切れてたんだった。

 後でお母さんに買ってもらおう。

 今の私は、ここから動いちゃいけないんだ。

 動こうとしても、動けないけど。

「千里ちゃんおはよう」

 部屋の扉が開き、ナース服を見に纏った看護師さんが入ってくる。

 いいなあ、ああいうお仕事ができそうな服。

「おはようございます」

 薄く笑顔を作り、挨拶を返す。

「どう?昨日はよく眠れた?」

「ぼちぼちですね」

「ぼちぼちかー、ゆっくり眠れるといいんだけどねー。あ、今日担当の石森(いしもり)です」

「はーい」

「じゃあさっそく、血圧とか計っていくね」

 看護師さんから体温計を渡される。

 今日は多分大丈夫だろう、体調も安定してるし。

 ピピッ

「げっ」

「37.8分だね、大丈夫?」

「何ともないです」

 おかしいな、体調は問題ないはずなのに。

「今日の予定は何でしたっけ」

「今日は採血ですよー」

「うぐ……」

 採血とか注射とかは、どうも苦手だ。

 そもそも人間の肌は針が刺さるようにはできていないはずなんだ。

 まあ私の左腕には、ずっと針が刺さっているわけだけど……。

 やだなー。

「今日は彼氏くん来るの?」

 いきなりそんなことを言われてドキッとしてしまう。

「た、ただの幼なじみですよ」

「へー、そうなんだー」

 ニヤニヤしている看護師さんだけど、一瞬辛そうな顔をしたのを私は見逃さなかった。

 早く……来てくれるといいな。

 ……と、その前に採血か。

 やだなー。


「なあ晴紀(はるき)、放課後遊びに行かねえ?」

 帰りの準備をしていると、前の席の雄大(ゆうだい)が話しかけてきた。

「あー、すまん、今日はパス」

 俺がそういうと、雄大は口を尖らせた。

「なんだよー、最近ノリ悪いなー晴紀はー」

「ごめんな、予定があるんだよ」

「最近そればっかだよなー」

 そろそろ「予定」だけで押し通すのも苦しくなってきたかもしれない。

白野(しらの)くん、今日委員会あるんだけど……」

 バッグを担いだところで、クラスメイトがぬっと頭を出してきた。

 同じ図書委員の多磨園(たまぞの)だ。

「ま、まじか!さすがにそれはサボれない……」

「白野くん、行こう?」

「そ、そうだな。そういうわけだ、じゃあな雄大!」

「ちゃんと予定空いたら言えよなー!」


 思ったより委員会が長引いてしまった。

「くっそー、時間かかったなー」

「何か予定があったの?」

 隣を歩く多磨園がこちらを見上げてくる。

 こう見ると小さいな、多磨園。

「実は友達が東京の病院に入院しててさ、見舞いに行くところだったんだよ」

「そ、そうだったの?引き止めてごめんね」

「いやいや、多磨園が悪いわけじゃないよ。まあ、そういうわけだから、それじゃ」

「うん、また明日、白野くん」

「おう!」


 新井宿(あらいじゅく)駅から築地市場(つきじしじょう)まで1時間くらい。

 急いで来たけど、まだ面会は大丈夫そうだ。

 13B病棟に入り、部屋を探す。

 いつも来てるから、もう探さなくても見つかるまでになってしまったけど。

 一人部屋の入り口に「蒼木場(あおきば) 千里(せんり)」とネームプレートがかかっている。

 ノックをすると、中から「はーい」と聞こえてきた。

「よっ、千里」

「あっ、晴紀!」

 ベットに横になっていた千里が笑顔を浮かべた。

 彼女は小さい頃からの幼なじみだ。

 中学までは一緒で高校では別になってしまったが……今はこうして、病院のベッドの上にいる。

「今は大丈夫か?」

「うん、ちょっとだるいぐらいかな」

 そういう千里の近くに寄り、手を額に当てる。

「ひゃっ!?は、晴紀?」

「熱あるじゃんか。本当に大丈夫なのか?」

「う、うん。体調は問題ないはずなんだよね」

 不思議そうな顔をする千里。

「今日は学校、どうだったの?」

「どうって言われても、いつも通りだよ。委員会の集まりがあったくらい」

「それでいつもより遅かったんだね」

「ほんとはもうちょっと早く来たかったんだけどな」

「私はまあ、晴紀が来てくれたからいいんだけどね?」

そんなことを言ってくれるが、俺は彼女が心配だ。

 もちろん、入院するなりの理由があって千里はここにいる。

 千里は骨肉腫(こつにくしゅ)というがんに侵され、すでに3ヶ月くらい入院している。

 最初は膝の痛みがあり、陸上部に所属していた千里はただ足を痛めたものだと思っていた。

 それが骨肉腫だと発覚した時にはすでに両足と肺に転移しており、治療は絶望的だった。

 こうして入院しているが……もう彼女は助からない。

「失礼しまーす……あっ、来てたんだね」

「どうも……」

 石森さんが病室に入ってきた。

 カートには液体の入った袋が置いてある。

「千里ちゃん、お薬の時間だよ」

「うえぇ……」

 薬を見て、嫌そうな顔をする千里。

 その薬は鮮やかな赤い色をしている。

 輸血ではなく、薬の色自体が赤いのだ。

「何度見てもやばそうな色だよな……」

「彼氏くん、この薬の名前は覚えた?」

「彼氏じゃないですよ。アドリアマイシン……でしたっけ」

「そう、じゃあ換えるね、千里ちゃん」

 慣れた手つきで点滴の薬を換えていく。

「入れていくよ」

 赤い薬が管を通り、千里の体内へ入っていく。

「じゃあ、また後でくるね。何かあったらナースコールで呼んでね」

 石森さんが病室から出て行く。

 その瞬間、

「う、ぐぁ……あぁっ!」

 千里が(もだ)え始める。

 この光景を見るのも何度目だろう。

 アドリアマイシンには血管刺激性があり、薬が入っている間は全身に苦痛が伴う。

 できれば千里にこんな事をさせたくないが、これをしないと千里は……。

「千里、一旦外そうか?」

「い、行かないで……手、握って欲しいな」

 千里の要望通り、左手を握る。

 すると、千里の表情が少しだけ穏やかになった。

「晴紀の手、あったかいね」

「そうか?」

「えっへへ……」

 笑顔を作る千里だが、その顔は明らかに無理をしている。

「千里、自然にしてろって」

「ご、ごめん……うっ、ぐぅ……」

 目を閉じて痛みにじっと耐える。

 本当は千里のこんな表情も見たくないが……。

 小さい頃から運動が得意で、元気だったはずなのに。

「晴紀、苦しそうな顔……」

「えっ」

 顔を上げると、千里がこっちを見つめていた。

「ご、ごめんな、なんにもないよ」

「それならいいけど……」

 心配そうな顔をする千里。

 違う、千里にそんな顔をさせたいわけじゃないんだ。

「そろそろテストだからさ、その事を考えてたんだ」

「そうなんだね、こんな所に来てても大丈夫?」

「何言ってんだ、千里に会いに来る方が大事だよ」

「えっへへ……ありがとう。うぐぅ……」


「じゃあ、今日は帰るぞ」

「うん……」

 笑顔を作っているが、実際にはその表情は寂しそうだ。

「また、明日も来るよ」

「本当?」

「ああ、明日は委員会も何もないはずだしな」

「分かった、待ってるね」

「おう、じゃあまた明日」

「うん、また明日」


 Side 千里

 行ってしまった。

 この時間はいつも嫌いだ。

 晴紀が帰ってしまって……私だけがこの病室に取り残される。

 朝は何ともないのに、夕方のこの時間だけ急に寂しくなる。

 外を見ると、すでに暗くなり始めていた。

 そういえばこういう状況を黄昏時(たそがれどき)って言うんだっけ。

 晴紀は明日も来るって言ってくれた。

 早く明日にならないかなあ。


 Side 晴紀

「あ、白野くん!おはよう」

「おう、おはよう多磨園」

 校門をくぐろうとしたところで、多磨園が後ろからやってきた。

「お友達はどうだった?」

「えっ?」

「入院してるんだよね?」

 いきなりそんな事言われたら驚くって。

「あ?ああ……元気そうだったよ」

「そうなんだ!それならよかった!」

 本当は元気とは言えないけど、嘘をつく。

 仕方ない、多磨園は千里のことを知らないんだから。

「今日の体育、先生がお休みになったから急遽(きゅうきょ)保健体育になったんだって」

「そうなのか」

「うん、男女別で授業だって」

 男女別ってことはそういう授業か。

「卓球の勝負はおあずけだね」

「そういえばそうだったな」

 体育の授業で多磨園と卓球で勝負をすることになってたんだった。

 実際多磨園もなかなかの腕前で張り合いがある。

「白野くんに勝てるように練習しとかないと」

「俺も負けないようにしないとな」


「お前せっかくの保健体育の授業ずっとウトウトしてるとかやべーな」

 授業後に眠気覚ましにお菓子を食べていると、前の席の雄大がパンチを入れてきた。

「眠いんだから仕方ないじゃん。どんな内容だっけ?」

「こういうやつだよ」

 そういって雄大は親指と人差し指で丸を作る。

「いや分からんが」

「避妊だよ避妊。大切だろ?」

「確かに……」

 それを聞き流していたのは少しまずかったかもしれない。

 まあ、今の時代ネットで調べればいくらでも出て来るだろうけど。

「そんで、今日の放課後はどうなん?」

「申し訳ねえな」

「またかよー。いい加減その予定ってもんを教えてくれよー」

「言ったら機関に消されるから」

「どんなことしてんだよ」


「白野くん、今日もお見舞い?」

「ああ、そうだよ」

 帰ろうとしたところで、多磨園がついてきた。

「何か用でもあった?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけどね。もし白野くんが時間あったら、放課後出かけたいなって」

 それはつまりデートのお誘いというやつですかね?

「……ごめん、先約がいてね」

「それは仕方ないね。気が向いたら声かけてくれると嬉しいなね

「ああ、分かった」

「また明日ね」

「おう、また明日」

 ごめんな、多磨園。

 先に出かける約束をしてるやつがいるんだ。

 3ヶ月前に。

『晴紀、10月にこのお祭り行ってみない?』

 楽しそうな千里の顔を思い出す。

 まだ、千里と出かけられてないから。


「あ、晴紀!」

「よっ、調子はどうだ?」

「もう薬も終わらせたから平気だよ!」

 右手でピースを作る千里。

 その表情は若干苦しそうだ。

 きっと、さっきまで薬の副作用に悶え苦しんでいたのだろう。

「……無理すんなって。寝てゆっくりしとけ」

「えー、私は大丈夫だって」

「俺から見て心配なんです、大人しくしてて」

「はーい」

 起こした身体を寝かせ、安静にさせる。

「晴紀、お祭りの約束のこと覚えてる?」

 急にそんなことを言ってきた千里。

 俺にとってはタイムリーな話題だ。

「もちろん覚えてるよ」

「もう1ヶ月も過ぎちゃったね、ごめんね」

「いいんだよ、来年元気になったら一緒に行こうぜ」

「そうだね」

 ……嘘だ。

 そんな日が来ないことは俺も千里も知っているはずなんだ。

「すごく楽しみにしてたんだ。仲は良いけど二人で出かけるってあんまりなかったからさ」

(うわさ)されるのが面倒って言ったのはそっちだろ?」

「そうだったね」

 その代わり、お互いの家でよく遊んだっけ。

 結局噂はされたけど。

「そういえば昔、晴紀と結婚するって話もしてたよね」

「む、昔の話だろ」

 それこそ幼稚園とかそこらへんの。

 小さい頃にあるベタなやつだ。

「そうだねえ。もし私と晴紀が結婚したらどうなるんだろうね」

「今までとそんな変わらないと思うぞ、ずっとこんな付き合いだし」

「そうかもねえ」

 そんな、変わらない付き合いを望んでいたはずなんだけどなあ……。

「そういえば、足の調子はどうなんだ?」

「えっ、足!?」

 見ようとすると、千里は掛け布団をバッと押さえた。

「み、見ないで?」

「……ダメか?」

「そう、だね……晴紀には見られたくないかも」

「分かった」

 嫌だと言うのなら、無理にすることはない。

 今どういう状況か、ちょっと気になっただけだ。

「今日は……そろそろ帰ろうかな」

「そっか。じゃあまた明日かな」

「ああ、明日も来る。またな」

「うん、ばいばい」

 病室を後にすると、何故だか涙が出てきた。

 千里は、まだ……。

「はい、彼氏くん」

 そっと、ハンカチを渡される。

「石森さん……って、彼氏じゃないですって」

「偉かったね、泣くの我慢してた?」

「いや……何でだか分からないんですけど……」

「それだけ千里ちゃんが大切なんだね」

 ハンカチで涙を拭き、石森さんに返す。

「これ、ありがとうございました」

「いいんだよ。もう帰るの?」

「ええ、今日は」

「そっか、じゃあまたね」

「はい」


 Side 千里

 こんなの……見られたくない。

 手術もしたのに、こんな大きくなった……。

 もう私の膝から下は切除されている。

 それでも、腿の下の方は(ふく)れ上がっている。

 きっと、再発もしているんだろう。

 晴紀には、まだ綺麗なまま見られていたい。

「お祭り……行きたかったなぁ……」


 Side 晴紀

 それからしばらく。

 異変は急に起こった。

「千里、大丈夫か?」

 今まで体調自体は安定していた千里だったが、今日は元気がなかった。

「なんか……ぼーっとするんだよね」

「無理するなよ。あんまりキツそうだったら帰った方がいいか?」

「いや……そばにいてほしいかな」

「分かった」

 何かあってもすぐに対応できるように、ベッドの近くに座る。

「ふーっ、ふーっ」

 何も言わず、息を荒げる。

 相当辛いのだろう。

 もともと抗がん剤を使ってるんだもんな……。

 そういえば、抗がん剤は髪が抜けるって聞くけど、千里はあまり抜けていないようだ。

 おかげで、今でも千里の髪は綺麗なままだ。

 ……抗がん剤の治療ってのは、どのくらい辛いのだろう。

 それは実際に闘病している千里にしか分からないだろう。

「うっ、はる、き……」

「どうした!?」

 肩が震え、口を押さえる。

 慌てて袋を用意し、千里の前に開いておく。

 それと同時に、ナースコールを押した。

「うっ、えっ、えぇっ……」

 千里がもがき、袋の中に腹から上がってきていたものを吐き出した。

「うぶっ、えぇっ!」

「千里、千里!」

 背中をさすり、落ち着かせようとする。

 くそっ、早く来てくれ看護師!

「蒼木場さん?どう……蒼木場さん!」

 入ってきた看護師が慌てて千里に近寄る。

 今日は石森さんじゃないみたいだ。

 たしか……。

「も、本島(もとしま)さん」

「大丈夫?どういう状況でこうなったか教えてくれる?」

「もともと体調が良くなさそうで……いきなり千里が震えて……そ、その」

「落ち着いて白野くん」

 本島さんが俺の肩に手を置く。

「ふぅ……はぁ……げほっ、げほっ」

「急に蒼木場さんが嘔吐(おうと)した、ということでいい?」

「そういう感じです……」

「げほっ、げほっ……かはっ!?」

 吐き終えて咳き込んでいた千里が、今度は血を吐き出した。

 袋の中に赤い液体が散らばる。

「千里!?」

「はぁっ、はぁっ……はっ、はっ……」

 幸い、血を吐いたのは一度だけだった。

「はるき……」

「無理して喋らなくていい。全部出たか?」

 そう聞くと、千里は頷いた。

 疲労が多量に混じった笑顔を浮かべ、若干安心した。

 しかしその直後、千里の鼻が血が流れた。

「千里!!」

 血で病衣(びょうい)が汚れ、驚いた千里が大きく動いてしまう。

 千里の肩を押さえ、鼻を手で押さえる。

「千里、そのまま下向いてて。本島さん、医者に連絡お願いします」

「あっ、は、はい……」

 これって本当は看護師がやることなんじゃ……。

 確か本島さんは2年目、とか言ってたような気がする。

 もうちょっと頼りにできればいいんだけど。

 千里の鼻を押さえている右手の親指と人差し指に、温かい感触がする。

 きっと血だろう。

「はーっ、はーっ……」

「千里、もうちょっとだ。が……」

 そこで、言葉が途切れた。

 言えない、千里に頑張れなんて言えない。

 千里は今すでに頑張って闘病している。

 それなのに、これ以上頑張れだなんて。

 どうしたら……。

「失礼、蒼木場さん、大丈夫かい?」

 急いだ様子で、医者が入ってきた。

「……」

 千里は何も言わず、ただ少しだけ頷く。

「お兄さんかな?鼻血が出た時は、穴を押さえるのではなく、小鼻をつまむんだよ」

「いえ兄では……そ、そうだったんですか、すみません」

 と、鼻血が出てから5分以上経っていることに気づいた。

 手を離すと、溜まっていた血液が出てきたものの、鼻血は止まっていた。

「白野くん、手洗っておいで」

「分かりました」

 さすがに血で濡れた手をそのままにしておくのはまずいらしい。

 部屋を出る直前、医者が千里に何かを話しているのが見えた。

 一体何を言っていたんだろう。


「千里、調子はどうだ?」

 手を洗い終えると、すでに医者も本島さんもいなくなっていた。

 大丈夫だったのかよ、あれで。

「なんか今日はダメみたい……」

「そっか、じゃあ今日はゆっくり休んでくれ。俺は帰るから」

「晴紀、明日は来てくれる……?」

「……ああ、明日も来るよ」


 家に帰って、自分の部屋で俺は泣いた。

 どうして、どうして千里なんだよ。

 千里はやりたいことだってまだいっぱいあったはずなんだよ。

 それなのに、どうして千里だけがあんなに苦しまないといけないんだ。

 千里はまだ17なのに。

 それなのに、俺はこうして生きていて。

 なんで千里にはこんな運命しか待っていないんだ。

 俺は千里に何もしてやれない。

 本当は千里のしたいこと、させてあげたいのに。

 祭りだって一緒に行きたかったし、大学だって示し合わせて一緒の所に行きたかった。

 俺は……千里のことが……。

「うぅ……ぐすっ、くそぉ……」


「なあ、晴紀大丈夫か?」

「……」

「おーい」

「……」

「無視かコラ」

 パンッ!

「うおっ!?」

「やっと反応した」

 目の前で破裂音がして、意識が引き戻される。

 どうやら雄大に猫だましをされたみたいだ。

「晴紀、本当に大丈夫か?」

「な、何が?」

「いや、最近明らかに辛そうな顔してるじゃん。明後日テストだろ?」

「……」

 あれから、千里の容態は次第に悪くなっていった。

 今までとは違う、見たことのない薬も点滴にぶら下がっていた。

 食事もあまり摂れていないらしく、前より痩せてしまった。

 もう、長くないのだろう。

「何かあったのかよ?」

「いや、何でもないぞ。最近ちょっとピンチでな」

「いつも行ってる予定ってやつか?何してるか知らないけど体壊すなよ?」

「ああ、ありがとな」

 病院までは定期を使っているから問題ない。

 むしろ、俺の心の方が問題だ。

 千里のそばにいてやろうって思ってたのに、最近はそれがとてつもなく辛い。

「し、白野くん……」

 学校を出ようとしたところで、多磨園に声を掛けられた。

「はぁっ、やっと追いついた……」

「何か用か?」

「白野くん、最近無理してるよね」

「……」

 無理はしていない……と思う。

「最近ずっと辛そうな顔してるよ。もしかして……」

「……入院してる子がさ、もう助からないんだよ」

「……!」

 多磨園が息を飲んだ。

「俺、もうどうしていいか分からなくてさ……」

「……ご、ごめんね、こんな事」

「いいんだよ、多磨園は悪くない。心配かけてごめん。それじゃ」

「あっ……」

 何か言いかけた多磨園を無視して、俺は病院へ向かった。


「あ、晴紀!」

「よっ」

 千里の表情が明るくなる。

 ただ、その笑顔は以前よりも無理をしていた。

「今日ね、お医者さんに言われたよ」

「何をだ?」

「気づいてはいたんだけどね、もう助からないんだってさ」

「……」

 本人にも、言ったのか。

「よくて年を越せるかどうかだって」

「そう……なのか」

 自然と、涙が溢れてくる。

「わ、晴紀泣かないで」

「泣くなって方が無理だろ……」

 思わず千里に近寄る。

 すると、千里は俺のことを抱きしめた。

「えっへへ、こうして密着するのも久しぶりだね」

「……」

 驚いた。

 もう、こんなに力が弱くなってたのか。

「私ね、毎日晴紀が来てくれてすごく嬉しかったよ」

「そう……か」

「うん、だって私、晴紀のこと大好きだもん」

「……」

 初めて告げられた、千里の想い。

 なんだ、俺の一方通行じゃなかったのか。

 思わず、千里を抱き返した。

「わっ、晴紀?」

「……俺も、千里のことが好きだ」

「わー、両想いだったんだね」

 今更、知りたくもなかった。

 それでも、知れてよかった。

「小さい頃から、ずっと好きだったんだよ?晴紀は私がこんなになっても毎日来てくれるくらい優しいから」

「こんなに、じゃないよ。千里だから来てたんだよ」

「なんか、もっと早く聞きたかったなあ」

 俺だってもっと早く言いたかった。

「私ね、入院中ずっと、退院したら晴紀とやりたいことを考えてたんだ」

「何を、したかったんだ?」

「まずお祭りだよね。晴紀と行くって約束してたんだもん」

「そうだな。俺も行きたかった」

「あとはね、晴紀と一緒に大学を決めて、一緒に登校したかった」

「……俺も、一緒の学校に行きたいって思ってた」

「あとねあとね、晴紀と一緒に旅行とか行ってみたかったんだ」

「家族ぐるみでしか旅行したことないもんな」

「それで、晴紀に告白して、お付き合いしたかった」

「……」

「告白は……さっきしちゃったね」

 それは、あまりにも悲しい告白だった。

 想いを告げるしかできない、未来の無い告白。

 何もかも、手遅れだった。

「それで晴紀といっぱいデートして、一緒に遊びたかったなぁ」

 俺だって……。

「あ、あとね、晴紀とエッチなこともしてみたかったよ?」

「えっ……」

 千里の顔が、わずかに赤くなっている。

「私だって普通に女の子だもん、好きな人なら……してみたいかもって思っちゃうよ」

「あっ、あの……」

「あっはは、晴紀慌てすぎだよ」

 千里に笑われたのが恥ずかしくて、そっぽを向いて水を飲む。

「ねえ、晴紀」

「なんだ?」

「ちょっとそのままでいて?」

「えっ?」

「いいから」

 千里に言われた通り、背を向けたまま待つ。

 後ろからは、衣擦れの音が聞こえた。

「多分、これからもっと状態が悪くなって、身体ももっと細くなって……多分死んじゃうんだよね」

「千里……?」

「だからね、そうなる前に晴紀に私を見て欲しいんだ」

 ……今、千里がどういう格好をしているのか、見なくても分かる。

 千里は、それを見て欲しいと言っている。

 それが千里の願いなら。

「じゃあ、いいか?」

「うん。あ、足は見ちゃダメだからね……どうぞ」

 千里の許可を得て、振り向いた。

 そこには、上半身の服を全て脱いだ千里がいた。

 病的なまでに白い肌、前にも増して毛量が減少した頭、そして、入院前の姿が見る影もないくらいに痩せてしまった身体。

 今の千里を形作っているのは、そんな身体だった。

 その中で、千里の言う「普通の女の子」としての尊厳を未だ必死に保とうとしているわずかにふくらんだ胸が印象的だった。

「綺麗だよ、千里……」

「えっへへ、ちょっと恥ずかしくなっちゃった」

 千里が掛け布団で胸を隠す。

「もう一つだけお願いがあるの、いい?」

「なんだ?」

「このまま抱きしめて欲しいな」

「……分かった」

 裸の千里を包み込むように抱きしめる。

 細くて、折れてしまいそうな身体。

 なるべく優しく、抱きしめる。

「今なら、キスしてもいいかな?」

「千里……」

「最後の……女の子としてのお願い、なんだ」

「……」

 千里の唇に、そっと唇を重ねる。

 千里と触れ合うのも、これで最後になるのかもしれない。

 たまらなく愛おしくなって、千里を強く抱きしめてしまう。

「千里……千里」

「は、晴紀、痛いよ……」

「ご、ごめん」

「えっへへ、晴紀と久しぶりにキスしちゃったね」

「久しぶりって……」

 前にキスしたのは……確か小学校の時。

「ふざけて晴紀のファーストキスを奪っちゃったもんね」

「そうだったな……」

「あっ、そうだ!私晴紀にしてあげたいことがあったんだった!」

 いつもより大きな声を出す千里。

「晴紀、用意するからちょっと待ってて!」

 脱いでいた服を着て、近くの引き出しから何かを取り出す千里。

「それは?」

「耳かき!」

「えっ?」

 突然そんなことを言い出した千里に、思わず固まる。

「ほら、中学の時何回かやってあげたことあったよね?」

「ああ……そういえば」

 あの時は「耳かきの練習するから耳貸して!」とか言われたんだっけ。

「無理してないか?大丈夫か?」

「うん!今はなんか安定してるから、今のうちに!」

 千里がしたいことは、させてあげた方がいいんだろう。

 大人しく千里に従い、耳を向ける。

「体勢きつくない?」

「まあ、大丈夫」

 椅子に座って身体を曲げてるからきつくないといったら嘘になるけど、千里の為だ。

「じゃあ、やるね」

 千里が嬉しそうに言う。

 しかし……待っても耳かきは始まらなかった。

 そして、俺の頰に温かいものが当たる。

「千里?」

「……あはは、ぐすっ」

 千里は泣いていた。

「ど、どうしたんだ?」

「そっか……私もう耳かきもできないんだ……」

 耳かきを持つ千里の手が震えている。

「持つのでやっと、力の加減もできないや」

「千里……」

「本当はちゃんとやりたかったけど……こっちにするね」

 そういって、千里は綿棒を取り出した。

「晴紀の耳、綺麗になるかは分からないけど、ちょっとだけ掃除させてね」

 耳に綿棒が入ってくる。

 くすぐったいほどに力が入っておらず、耳の壁を弱々しくこすっていく。

 それが、余計悲しかった。

 それでも、千里がしたいことなのだ。

 今は精一杯、千里に耳掃除をさせてあげよう。

「えへへ、なんか懐かしい」

「そうだな」

「反対、向いてね」

「おう」

 多分、本人も綺麗になっていないことは分かっているんだろう。

 こんなに早く終わるわけがない。

「もっと、こういうこともしたかったな」

 その言葉で、危うく泣きそうになってしまう。

 ダメだ、千里の前で二度も泣くわけにはいかない。

「はい、おしまい」

「ありがとな、千里。ちょっとすっきりした気がする」

「それなら、嬉しいな」

 千里が笑う。

 この笑顔は、あとどれくらい見られるのだろう。

 もしかしたら……もう。

「千里、そろそろ帰る」

「うん、分かった」

「それじゃ……」

「明日も、来てくれる?」

「……もちろん」


 それから程なく、千里の容態はさらに悪化した。

 一日中目を覚まさない事も増えた。

 今日も……。

「千里……」

 部屋には、心電図モニターの音だけが響いている。

「目を覚ましてくれ……」

 恐らく、その声も千里には届いていないのだろう。

 肩くらいまで伸びた千里の髪に触れる。

 ちゃんと、人間の感触があるはずなのに。

 手を離すと、触れていた髪の毛が手に付いてきた。

 なるべく、触れないようにしよう。

 これ以上傷つけたくはない。

 と、その時。

「ん……あれ、はる、き?」

「千里!」

 千里が目を覚ました。

 若干虚ろな目でこちらを見る。

「なんか……引っ張られるような……」

「それは……俺が千里の髪に触ったんだ、ごめんな」

「ううん、いいんだよ……げほっ、げほっ」

「だ、大丈夫か?」

「……ごめんね、私もう、大丈夫じゃないみたい」

「……!」

 その言葉を聞いて、胸が締め付けられるような感じがした。

「晴紀に、伝えたいことがあったの」

「な、なんだ?」

「私のこと、忘れないでとは言わない……」

「忘れるもんかよ、小さすぎて記憶ないぐらいの時からの幼なじみだぞ」

「だから……だからね、晴紀は、幸せになって……」

「……何いってんだよ、 それじゃお前は」

「私は……入院してから、晴紀がずっとそばにいてくれて、十分幸せだったよ」

「俺は……俺は!」

「うん……」

 震える声で、精一杯千里に伝えたかったことを絞り出す。

「俺は……千里ともっと一緒に生きていたかった……」

 俺が代わりに死ねばいいなんて言わない。

 それは残される側があまりにも寂しいから。

 だから俺は素直に伝える。

「これからも、ずっと……俺は千里と一緒に生きていたかった!!」

「……私のこと、大切にしてくれて本当にありがとう。本当は、私ももっと晴紀と一緒にいたかったよ」

「千里……千里……」

「ねぇ、最期に一つ、お願いしてもいい?」

「ああ、何でも言ってくれ」

「私に……もう一度だけキスしてくれる?」

「ああ……」

 目を閉じて待つ千里の唇に、そっと口付けをする。

「ふふ、やっぱり私、幸せ者だ」

「そう、か?」

「うん、だって大好きな人にこんなに愛されてるんだもん」

 そういって、笑顔を浮かべる千里。

「晴紀……私ちょっと疲れちゃった。眠ってもいいかな」

「…………ああ、ゆっくり休めよ。おやすみ」

「うん、お休み」

 それ以降、千里が目を覚ますことはなかった。


 Side 千里

 目が開かなくなって、どれくらい経ったんだろう。

 口が動かなくなって、どれくらい経ったんだろう。

 手が動かなくなって、どれくらい経ったんだろう。

 あと分かるのは、周りの音だけ。

 最期に晴紀にキスをしてもらってから、どのくらい経ったのかな。

 もう、年は越したかな。

 多分、そろそろ私は死んじゃうんだろう。

 もう身体も痛くない。

 ちょっと前までの痛みが嘘みたい。

 身体がすごく軽い、気がする。

 きっともうすぐ、お迎えが来るんだろう。

「千里!千里ぃ!!」

「千里……」

 お父さんとお母さんの声だ。

 看取(みと)りに来てくれたんだね。

 ねぇ、晴紀はそこにいるの?

「耳はまだ聴こえています。何か、話しかけてあげてください」

 うん、聴こえてるよ。

 死の直前まで耳だけは聴こえるっていうのは、本当だったんだね。

「千里、まだ死んじゃダメ!あなたは!!」

「お母さん、やめてくれ……」

 お父さんもお母さんも、声が震えてる。

 本当にごめんね、親不孝な娘だよね。

 本当だったら、晴紀との子どもを見せてあげたかったんだけどな。

「千里、聴こえるか?」

 ……!

 晴紀の声だ!

「俺さ、決めたんだ。俺、勉強して看護師を目指すよ。それで、一人でも悲しむ人を減らせるようにする。だから千里、俺のこと見守ってくれよな」

 ……そっか、晴紀は看護師さんになるんだ。

 優しい晴紀ならきっとできるよ、頑張って。

 私、応援するよ。

 ……最期に、晴紀の顔が見たい。

 私がこの世界で一番愛してる人の顔が見たい。

 一秒、いや一瞬だけでもいい。

 お願い、私の目、動いて!

「……千里!」

 驚いた表情の晴紀と目が合う。

 晴紀……いつもお見舞いに来てくれてありがとう。

 晴紀が来てくれたから私頑張れたよ。

 ずっとずっと、これからもずっと、大好きだよ。

 だから、幸せになってね。

 できれば、来世でも晴紀に会いたいな。

 そしたら今度は、やりたかったことを一緒にやろう。

 今はちょっとのお別れ。

 私はまた晴紀に会えるって、信じてるよ。

 精一杯笑顔を作り、私は目を閉じた。

「千里、お疲れ様。今までよく頑張ったよ。ゆっくり休んで、いつかまた会おうぜ」

 うん、約束だよ。

「千里、俺はずっと、千里のことが大好きだから」

 私も、大好きだよ。


「1月2日15時34分、ご臨終(りんじゅう)です」


 千里が目を閉じ、眠るように旅立った。

 初めて、千里の前で声を上げて泣いた。

 千里、さよなら。




 10年後

「千里、久しぶり」

 俺は千里が眠っている場所の前に立っていた。

 大きな墓石には、「蒼木場家之墓」と記されている。

 墓は綺麗に掃除されている。

 きっと千里の両親が掃除したんだろう。

 線香をあげ、眠っている千里に話しかける。

「看護師になってからもう5年も経ったよ。なんか実習指導担当とかになってさ、今学生を指導してるんだ。苦しいこともあったけど、千里のこと思い出してたら頑張れたよ。俺、これからも頑張るから、応援しててくれよな」

 千里がこの世を去ってから10年、忘れないでとは言わない、と言われたけれどやっぱり忘れられるわけもなく、毎月千里の墓参りに来ていた。

 近況報告をしたり、墓の掃除をしたり。

 なんとなく、千里がそばで笑ってくれている気がして。

「ん、んんっ!」

 後ろから聞こえた咳払いに気づき、もう一つ用があったことを思い出す。

「そうそう、実は今日な、千里に紹介したい人がいるんだ」

 そういって、千里の墓の前から退く。

 そして後ろで待機していた女性が、一歩前に出る。

「どうも、私多磨園千草(ちぐさ)っていいます。今白野……晴紀くんとお付き合いさせてもらってます」

 若干固い挨拶をする千草。

 その右手を取り、千里に告げる。

「俺さ、今度この子と結婚することにしたんだ。千里の言った通り、俺幸せになれたと思うんだ」

「その、は、晴紀くんが幸せになるのを精一杯手伝うので……どうか千里さんも見守っててください」

 眠っている千里にお辞儀をする千草。

 その時、まるで俺と千草を祝福するかのように優しい風が吹いた。

 おめでとう、と千里がそう言ってくれた気がした。

 俺はきっとこれからも、千里のことは絶対に忘れないだろう。

 千里はずっと俺の心の中で生き続ける。

 幸せになってと、彼女はそう言った。

 だから俺は、今一緒にいる千草と、幸せになってみせるよ。

「それじゃ、また来月来るよ」

「で、では!」

 墓を後にする晴紀と千草。

 そんな二人を応援するかのように、優しい追い風が吹き抜けていった。

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