アジサイ
7月1日(金)④
僕は言葉を失った。
彼女が話し終わってから数分はただ黙るしかなった。
篠田紫乃という名前に聞き覚えはなかったが、彼女は確かに僕の名前を呼んでいたらしい。
シノさんの期待ははっきり言って重圧だった。事実、彼女と出会ったのはつい先程。あまりにも唐突な話といえばそれまで。
しかし、その重圧は不思議と僕の心に噛み合っていた。僕は彼女の一番最初のことばに漠然とした何かを感じていたし、そもそもそれを知るために彼女に話しかけたのが始まりだったから。
「少なくとも僕は幼少期にあなたと…いや、彼女と会った覚えはありませんし、名前も全くピンときませんでした。」
シノさんは一瞬悲しそうな顔をしていたが、すぐに先程までの顔に戻っていた。きっとそうやってずっと耐えてきたんだろう。強い人だ。
「でも僕が、もしも彼女にとって何か特別なものなのだとしたら…。」
それはきっと、僕にとっても何かを変えてくれるものなのかもしれない。
「…紫乃さんを呼んでくれませんか。」
シノさんは少し考えて、
「わかりました。」
と、不安そうな顔で言った。
彼女は一旦深呼吸をすると、斜め下を向きながら何かを小声でしゃべっているようだった。
途中、一瞬シノさんは目線だけ僕の方を向けて、
「紫乃をよろしくお願いします。」
と小さな声で言っていた。
数秒後、彼女は驚いたように顔を上げると、周囲を大げさに見回した。
「あれっ…あっ…我が家…。というか、え!?なんであなたまでここにいるんですか!?」
紛れもなく「紫乃」と「シノ」が入れ替わる瞬間をこの目で見たとき、理屈ではわかっているはずなのに凄く不思議な感覚がした。
目の前にいるのはさっきと変わらない人間なのに明らかに仕草も声色も違う別の人間に入れ替わっている。普通に生きていてはまず出会うことのない不思議な光景だった。
「あなたがここまで連れてきたんですよ。」
僕は必死で平静を装った。「紫乃」と言う人間としっかり会話するのははじめてのようなものだ。
僕は意外に、彼女がシノさんと全く別の人間であることに頭では困惑しながらも心の奥ではすんなりと受け入れられているような気がした。
「はぁ…まぁそうなのかな…。というか!ごめんなさい、私、河原で会った時からずっと名乗ってなかったですね!」
「そうですね、名前、なんて言うんですか?」
彼女はすっと立ち上がり、両手を大きく広げながら、
「篠田紫乃!17歳!好きだった食べ物は焼肉食べ放題!無害な幽霊やってます!なんて、あははは。」
と、胸を張って言った。
シノさんとはやっぱりすこし…いや、かなり雰囲気が違う。
「篠原紫乃さん、ですね。」
「なっ…私頑張ってボケたんですよ!?冷たいなぁ…なんて、あはは。」
意外にも明るくて面白い子だった。
今の今まで全く意識していなかったが、実際「篠田紫乃」は決して美人とは言えないものの、どことなく幼く、そこはかとなく優しそうな等身大の可愛さのある顔をしていた。
体型もスレンダーで身長も高い。
「てか、私もあなたの名前聞いてないですよ!」
そう言って彼女はフグのように顔をふくらませて見せる。
そういえばそうだった。なんならシノさんにすら名乗っていない。
「結城春です。僕の名前。」
「結城春さん!へぇー、男の子なのに可愛い名前だなあ、羨ましいです!」
「よく言われます。」
「なんて呼ぼっかなぁ…うーん…じゃあ無難に…。」
自分のことを幽霊と自称する突飛な人だ。無難とは言えどんな変なあだ名をつけられるのか分かったものではない。
そんな僕の胸中とは裏腹に、彼女の口から飛び出したのは、
「ハルくん、かなぁ。」
デジャヴ。
全身の鳥肌がぞわぞわと立つ感覚がした。
「ハルくん、うん、ハルくんだなぁ…。」
彼女は噛みしめるように何度も繰り返す。
そうやってしばらく僕の方に視線を向けたり、どこか何もないところを見つめたりしながら少しの間唱えつづけていたが、しばらくすると突然俯いて何も言わなくなってしまった。
心なしか、僕には小刻みに震えているように見えた。
「…あれ…あれぇ…なんでかな…なんで…。」
小声でそう呟く彼女の目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
「うっ…あぁ…おかしいなぁ…。わたし…私は…。」
激しく嗚咽しながら泣き続ける姿に、僕は再び不思議な感覚を覚えていた。
言葉には言い表せない感覚。
ただそんな漠然とした感情よりまず明らかに、彼女への心配が優っていた。
「ちょっ、どうしたんですか、大丈夫ですか?」
彼女は首を横に振り、座ったままずるずるとこちらに近づくと震える手で僕の手を握った。
「わたしは…ここに…いるって、よくわかんないけど…うぇっ…ぁ…なんか…そんな風な…。」
理屈も感情も全く稼働する余地のないうちに、僕は彼女を抱きしめていた。
彼女の体の目に見えるほどの震えは、触れ合うとさらに強く感じられるようだった。
「僕もわからないですけど…たぶん、大丈夫ですよ…。」
「うっ…うあぁ……っ…。」
肩のあたりが生暖かい。
彼女の涙が、先ほどの雨の濡れのすっかり乾いた僕の制服ににじんでいる。
数分そうしていたが、しばらくして彼女はすこし僕から離れた。
「あの…ごめん…わたし…。」
明らかにさっきとは様子が違う。
「何ですか?」
「…吐きそう…。うえぇ…。」
「えぇ!?」
「ごめ…んなさい…もうむり…。おぇえ…。」
僕には全く対策を講じる時間がなかった。
とにかく僕ができたことは、彼女の吐瀉物を両手で受け止めることくらいだった。
暖かい感覚が両手に広がる。
「やば…うおぇぇ…。」
「えぇ、ちょ、どうしよ…。」
一通り吐き終わると、彼女は朦朧としながら青い顔で脱衣所の方へフラフラと歩いて行った。
とりあえず僕はシンクに彼女の吐瀉物を流し、手を洗って彼女が戻ってくるのを待った。
部屋にはまだ受け止めきれなかったものが放置されている。
部屋中に酸のにおいが広がっていた。
なろうって官能小説書いたらBANされるんかな…。
でも昔ツイッターでズッコンバッコンしてる描写がガッツリ入ったなろうのスクショ見たことあるけど、まぁ画像とかじゃないし、言うは自由っつってな。
ラストのゲロ描写はほとんど僕の趣味です。