松本の心の内で
私の坊っちゃんは常にトップでいてほしかった。
ただ、それだけだった。
レヴィアタンに飲み込まれ、胃酸の海に沈む。防御壁を張る間すらなく、胃酸が私の服と肌を溶かす強烈な痛みで気を失ってしまった。
蘇るのは坊っちゃんと出会った時の思い出。
まだ5つにもなっていない坊っちゃんは、それでも精悍で、きりりとした顔で私を見上げていた。
見慣れぬ初老の男の登場に警戒なされていたのだろう。
それでも、坊っちゃんはこう言われた。
「お前がボクのキョーイクガカリいうヤツか。するんやったら、ボクを世界一のまじゅつしにせんととゆるさんからな!」
小学生になり、魔術学で満点の成績を取っては鼻高々に私に見せる。中学に上がってから、それは減ったが、それは最早『満点なのは当たり前だ』という理由からだ。
坊っちゃんは美しい所作で魔術を放つ。それが私の教えた事だということが誇らしく、自慢だった。
やがてじりじりとした痛みとは別の何かが頬をペチペチと叩いているのに気が付いた。ぼんやりと目を開けると、そこには東條の長男殿がいた。やはり私と同じ様に服は溶かしておられたが、肌に傷はついていない。肉体強化を限界までしていらっしゃるのだろう。私に触れるその手は、鋼のように硬かった。
「松本さん、無事だな? よかった。じゃあ、さっさとここをおさらばしようか」
そう言って東條の長男……湘殿は私を背負う。ぼろぼろになった私のスーツの上着を剥ぎ取り、それで私と自分が離れないようにぎっちりと縛る。
「湘殿、何故貴方が」
「外からじゃ攻撃が効かないと聞いたんでね。内臓ならどうかと思ったんだけど」
そう言って湘殿は指を立てて胃の壁に手刀を放つ。しかし、僅かにひっかき傷がつくだけで弾き飛ばされてしまった。
「チッ、まるでゴムだな。けど、外側よりかはまだ可能性がある」
そう言って湘殿は何度も何度も攻撃を続ける。
「無駄です。レヴィアタンは神の使い。人間如きの攻撃が通じる相手では……」
私が諦めたように呟くと、胃液がぽたりと落ち、湘殿の肩と私の頬を焼く。
「だからって諦めるのはまだ早いだろ。外には東の頭領とその式神に、次期西の頭領が揃っている。俺の妹も、そのコーチも、妹の使い魔もいる。なんとか突破口を開いてくれるさ」
楽観的にそういう湘殿は再び拳を壁に放つ。
「それとも、松本さん。あんたは自分が育てた坊っちゃんを信じられないのか?」
そう言われて、はっとした。
そうだ。坊っちゃんは優秀な魔術師だ。私が育てた魔術師だ。このレヴィアタンを帰還させる陣も学んだはず。帰還させられるということは、手綱を握っていると同意義。弱体化させることもできるはずだ。
私は手を伸ばし、空中に小さく陣を描く。そこに自分のエーテルを投射させれば、稲妻が放たれ、湘殿のつけた些細な傷を焼いた。
それを見て、湘殿はふ、と笑みを零し、私が焼いたその一部分を集中的に攻撃する。
やがて、レヴィアタンの身体が大きく揺らぎ、私を担ぐ湘殿の身体も傾いた。
湘殿は胃酸の海から駆け上がるように空を蹴り、足踏みをして空中に留まる。
「な、何が起きているのでしょうか!?」
「さぁな。でも、局面は大きく動いたらしい。すぐに決着は着くだろうから、松本さん、あんたも協力してくれ」
「わ、解りました」
私はエーテルをそのまま雷に変え、周囲の胃壁を攻撃する。肉の焼ける匂いと、潮の匂いが入り混じった生臭さが周囲を充満する。湘殿は焼かれた中でも一番ダメージが大きい箇所を的確に狙って蹴りを放つ。
揺れは未だ大きく、けれど湘殿は胃液の雨が振る中で空中を蹴り続け、それを躱す。
その時、白い牙の様なものが外側から胃を貫いた。
「松本さん、チャンスだ! あそこに術を放ってくれ! 少しでも肉が柔らかくなれば、そこを裂いて脱出できる!」
「はい!」
傷口に私が雷を放ち、湘殿はそこを両手で掴んで、力任せに引き裂いた。太陽の光が見える。私の記憶はそこで途切れた。
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目覚めるとそこは白いカーテンの揺れる部屋で、私は包帯を巻かれてベッドに横たえていた。
仮にも神の使いと呼ばれたモノにつけられた傷は深く、並の治癒魔術では癒やしきれなかったのだろう。
扉が軽い音を立てて、開く。そこにいたのは、髪のセットもしていない、うすく無精髭の生やした、ジーンズにシャツといったラフな格好をした健吾坊っちゃんだった。
「坊っちゃ……」
私は慌てて身を起こそうとするが、激痛が全身を走る。
「ええから、寝とけ。松本」
坊ちゃんはそう言うと、ベッドの脇に置かれた椅子にどっかと座り、深くため息を吐く。そして、想定外の言葉を呟いた。
「……すまんかったな、松本。俺がレヴィアタンを制御できんかったばっかりに」
「……いいえ、私の方こそ……。坊ちゃんの身を危険に晒すような術を教えてしまい……」
「松本は謝らんでもええ。俺が不出来やったんがあかんねん。……東條には、完敗してしもうたしな」
「……そうで、ございますね。私も、湘殿がいなければ、おそらく……」
「……ほんまに、完敗やな」
そう言って自嘲的に坊っちゃんは笑う。けれど、何故かそれは嬉しそうに私には見えた。
「坊っちゃん、松本は今回の責を担い、故郷に帰ろうかと思います」
私がそう言うと、坊っちゃんは怪訝そうな顔で私を見つめる。
「私は坊っちゃんとの約束を破ってしまいました。坊っちゃんを世界一の魔術師にするとお約束したのに」
「松本……」
「私のエゴで坊っちゃんを振り回し、東條様にもご迷惑をおかけしました。……今まで、大変お世話になりました」
しかし、私がそう言い切る前に、坊っちゃんは「許さん」とお言いになられた。
「俺はまだ、世界一の魔術師になっとらんやないか。業務放棄は許さん。松本、俺にはまだ、お前が必要やねん。俺を世界一の魔術師にせぇ。そういう約束やったやろ? まだまだこれからや。……東條に一泡吹かせたるまで、お前は俺を鍛えなあかんのやから」
そう言ってつまらなさそうに、坊っちゃんは窓の外を見る。真夏の空を、一筋の飛行機雲が走っている。
「坊っちゃん、坊っちゃんが東條様を敵視されるのは、本当に憎しみからですか?」
私がそう訊ねると、坊っちゃんは顔を真っ赤にして「やかましい!」と言ってそっぽを向いた。
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「なぁ、松本。ボクが東條さんとことケッコンできたら、おとうちゃんのカイシャはもっと大きゅうなるかなぁ。せやったら、ボク、かやねえちゃんやのうて、ゆいちゃんとケッコンしたいなぁ。かやねえちゃんはこわいけど、ゆいちゃんはあそんどってたのしいもん」
由比殿の3つの誕生日会に呼ばれた時、幼い健吾坊っちゃんが言われたささやかな告白を思い出し、思わず笑みが溢れる。
「何を笑ろとんねん、松本!」
「はは、いえ、何でも……いたた」
笑う度に火傷後がひりひりと痛む。
成人したての坊っちゃんは腹立たしそうにしていらしたが、その姿はまだまだ子供に見えて、微笑ましくて仕方がなかった。