霊廟と法典
「畏まりました、公爵閣下・・・」
ポーラを仰いだ双眸はドリアーヌのものだった、といいながら、本体に出会ったことはないのだが・・・いや、出会ったか。記憶に照らし合わせても彼女のものらしい瘴気は見つけられない。
マリーはアラスで育ったのだが、一方、ポーラはといえばそれほど妹の城に赴いたことがないことに今更ながら気づいたのだ。
「そなた、本体の名前は?」
「ドリアーヌでございます。ドリアーヌ・ド・タンヴィル」
「タンヴィルだと?」
何処かで聴いたことのあるような姓ではある。
ちょうど視界が昏くなった。聖堂に足を踏み入れたのだ。巨大な扉が勝手に開いてポーラたちを迎えたので何も考えずに進んだのである。
背後を見るとまだ太陽は高く、晩春の草木は緑色に燃えている。少女は奥深く入ればもはや元に戻れないような気がしてきた。しかし畏れはない。そうしているのはかつての少女だけだ。そう言い聞かせたところで自分が納得しないことは知っている。しかし完全に過去の自分ではない。少なくともコンビエーヌ魔法源泉を巡ってナント王と干戈を交えていたころとは、自分は別人になったとはいえると思う。
しかしそれは、アミアンに足を踏み入れる以前の、ごく最近のことにすぎない。
すぐに闇に眼が慣れてきた。
聖堂内は静寂だけが支配している。ステンドグラスを通り抜けた太陽光が彩を添えている。色は目立ちすぎないのがよい。きっと時間の流れがグラスを曇らせたにちがいない。それゆえにかえってこの空間を居心地のよいものにしている。
しかしながら、ここの主は本当にここに葬られるだけの功績を積み上げたのだろうか。
闇に邪魔された質問を続ける。
「ドリアーヌ、そなたはまだ私を欺いているか?質問を代えよう、かつて私に出会ったことあるか?」
ややあってから彼女は応えた。
「この距離なれば、 もはや、マリー様の影響力は衰えております」
「妹の助は得ていない、純粋にその方の能力だということか・・・待て、私の記憶から探し出してみせる。確かに既視感はある・・・マリーの口癖だが、私は魔法を戦いのためだけに使いすぎたらしい。それを言うならばナント王はどうか?竜騎士はその能力を完全に戦いのみに先鋭化させた存在ではないか・・・」
ここでどうしてナント王が出てくるのか、少女は自問自答した。竜騎士といえば彼の事しか浮かんでこない。
聖堂内部は霊廟を中心に据えて、それを囲むように座席が並んでいる。さながら小さな都市のような構造を為している。
「これではまるで歴代公爵のような扱いではないか?」
少女は絶句した。
ナポレオン・ポナパルドと思われる彫像が目に飛び込んできた。美男子とは言えないものの、彫刻から目力を感じるとは、さぞかし本物は相当なものだったのだろう。あるいは作者の才能の為せる技だろうか。よく見たら実際に名前が銘打ってある。同姓同名でなければ彼なのだろう。しかし通常の例と比較すると文字の大きさが小さい。だれかに遠慮しているとすれば世界だろう。だが主に対しては貢献した人間の業績を讃えなければならない。苦肉の策がこの聖堂なのだろう。ほかに可能性があるとすればナポレオン ポナパルドというのが偽名だということか。
「本当に平民の出だったのか?この扱いは信じられ無い。ドリアーヌ、そなたはいかに思うか?」
「確かに異例の扱いですね。それゆえに世間には広く知られていないのでしょう。あるいは真実が明らかになることが誰かにとって不都合だったのでしょうか」
「意図的に隠していたと?だがそうまでして、ここまで祭らねばならないほどに、ナポレオンとやらはたいした男だったのか?」
今自分が向かい合っている問題は、元はと言えば彼のせいなのだ。
当時の公爵、フィリップの気持がわからなくなった。政治情勢をかんがみれば理解できないわけではないが、いざ、ナポレオンの臓物の中に入ってみれば考えも変わる。まさに生臭い。時代の色に燻んだ世界は、少女にとって好ましい 。先祖の霊廟に遊んでいると心強い気持ちになる。普段ならば聖堂はただ主の懐に入ったかのような静寂が包み込んでくれるし、内部を埋め尽くすように刻まれたレリーフは、いつもならば天国への階段にみえるはずだ。しかしいまは死に瀕した人の臓器に見えてしょうがない。
若いながらに幾度となく戦場を体験した少女は死体を知っている。攻撃によって傷つけば骨や内臓など自然と内部構造が明らかにもなる。その時の体験から彼女は人体の構造について幾らか知識があった。普段ならば荘厳にみえるはずの薄暗さがかえっておぞましい感覚を惹起する。時間の流れを暗示する饐えた匂いは、いつもならば心地よいはずなのに死臭に思えてしまう。そうした戦場を思い起こす要素は少女にとって嫌いなものではなかったはずだ。むしろ好物とすら思える。そのはずなのに不安になるとはどういうことか。
エイラート奪還という未知の戦場を目の当たりにして自分は怯えているのだろうか。
違う、母親アデライードのことだ。彼女は戦争を忌み嫌う。まして女性が戦場に行くことなどもってのほかという考えの持ち主である。最近流行りの女性趣味は女性が戦場を忌避するが、それに被れたという風でもない。母のポーラに対する考えは理解しがたい。そっけないと思わせておいて、一方かなり執拗でもあるのだ。もういい加減にしてくれと思う。
ついドリアーヌの存在を忘れてしまった。
彼女はナポレオン像に見入っている。できは素晴らしい。中に入っている人が身分相応ならば何時間でも立っていられる自信がある。
彼女に意見など訊くつもりはなかったのだが。
「ナポレオン法典についてどう思うか?」
「君主といえども常に絶対ではありえないと思います…が」
どうやら一般論ではないことをポーラの態度から洞察したらしい。あえてアミアンという辺鄙な土地にある聖堂を訪れたという事実も併せて判断材料としたのだろう。
「閣下、もしや法典が発動されることをご懸念なさっているのですか?」
「ならば、その理由は何だと思う?」
「まずは執政はどなたか教えてもらえませんか?」
法典は先公爵が認定した2親等の親族を執政と呼んでいる。
「太妃さま、だ」
「閣下の母上さまですか?」
マリーは母上について何かアドリーヌに漏らしているのだろうか。実母をそのように呼ぶことに不審を抱いただろうか。
「太妃さまについてそなたは知識があるのか?」
「いえ、身共は謁見したことがありません」
「一度、アラスに連れていってやろう。面白い歴史演劇が観られるぞ」
「はて、演劇ですか?この身体でアラスまで耐えられるかわかりませんが」
ドリアーヌは自分が憑依している身体のことを考えている。たしかに見るからに老人然とした女性だ。竜に乗って旅することは無理があるだろう。しかしサンジュストからアラスまでは目と鼻の先だから、先先行してもらえばよい。
母親、太妃は何を考えているだろうか。約束通りに縛り付けられると本気で信じているのだろう。
確かにその通りなのだが、具体的に言うと自分の場合に当てはまるのか。どう考えても母親の個人的な都合を押し通そうとしか思えないー。高等法院と三部会の方はポーラの政策に良い顔をしていない。ナント王に対する戦いに前のめり過ぎるというのだ。だが、母の考えに頷くのかどっこいどっこいだろう。平民たちのほとんどは少女の破竹の活躍に喝采をあげているが、いっぽうでブレーキをかけたい向きも存在する。綱引きの結果は予測不可能だ。
そのことを指摘すると彼女は言った。
「陛下が裏から糸を引いておられるのではないでしょうか?」
「それはないな」
確かに政治的な駆け引きは好きな性分であることは疑う余地はない。綺麗事と政治はきっぱりと分ける人間だが、こと今回に限っては違うと言い切れる。
王と母上がつながっていることはありうるだろうか。それはない。逆にあるならば道徳的な線で両者に打撃を与えられる。ことよっては修道院に押し込めることも可能かもしれない。しかしこれはいかにも吟遊詩人がつくりそうな物語に過ぎないだろう
母上はモンタニアールを憎悪しているし、だからこそルイを連れて帰ることに懸念があるのだ。まさか娘を排除するために王と繋がるなどと、想定は面白いが現実的ではない。もっともどうせ憎まれるのならばそこまでいってほしいというのもある。
「陛下はあの法典にかんして批判的な発言を行っていた。ロベスピエール公爵が世俗権停止などということになれば世界に対して目立ちすぎる。自己領域であのような考えが蔓延することを快しとするわけはない」
それに自分に相対するにあたって姑息な手段は使わないのではないのか、政治を司るものとしてありえない発想なだけにあえて口に出さない。
ポーラはことエイラート奪還にかんしては楽観的である。なによりも主が望んでおられる。その一言でごり押しができる。言葉にしたくないレベルこそが問題なのだ。ところでマリーは彼女に天使さまのことを明かしているのだろうか。
ドリアーヌは、鋭いところをみせた。
「公爵閣下は、法典のことをあまり問題にしておられないように見受けられますが?我が主君は、閣下が法典について問題にされていると申しておりましたが、それはルイ殿下に関することではないのですか?私はどうしてそこまでして殿下をお連れしたいのか、まったく理由を洞察できないのですが?」
マリーは公爵家の内情を明かしていないらしい。ならば洞察しようがない。モンタニアールたるルイと契約を結んだことを太妃たるアデライードが反対している。そうみるのが常識的な見方だろう。微妙に話題が噛み合わないはずだ。マリーも人が悪い。ここまでくると、ドリアーヌに対する見方が変わる。しかしそれは評価が下がるわけではない。年齢のことだ。予想外に若いのではないか。
「ドリアーヌ、そなたの本体の年齢を知りたい」
「閣下のご想像におまかせします」
「ヒントぐらいほしい。私はそなたに出会ったことはあるか、否か?」
「謁見していたら、きっと閣下のご記憶に残っていただろうと推察いたします」
「言葉の感じからは、遠方という感じはしない。そなたほどの逸材ならば私の目から逃れることは難しい」
「予想外に高評価を与えていただきありがとうございます」
「年齢のことはあとで確認することにしよう。そなた、ルイについてどう思う?」
「殿下のことですか?閣下がどうして受け入れられたのか不明です。ご両家が同盟を結ばれたとしか受け取れないのですが、我が主君が思ったほどに反発なさらないことが不思議です。主君は閣下を姉と思っていると言っていました。ということは、閣下のことを心から心配なさってのことだと思います。
まったく進言がないのは不思議です。
「マリーはそなたにそこまで告げていたのか」
それは深い信頼の証だと言える。
「たしかに含むところがあるようだが、彼女は表立って反対していない。」
「それはマリーから天使さまのことをすべて知らされているということか」
そこまで妹の信頼を勝ち取っているとは意外だった。そのうえで自分が知らないことは心外ではある。とはいえ、彼女は、一国一城の主なのだ。
「ならば、話は早い。天使さまは直々に私にエイラート奪還を命じられた」
「表立って世俗に口を出さない天使さまがそんなことをなさるとは?」
「だから私も驚いた。まさか天使さまが戦場に足を踏み入れるなどと、前代未聞のことだ」
そう言いながら彼女の魂はすでにアラスに戻っていた。いかなる方法で溜飲を下げてやろうかと考えている。ナポレオン法典など、今回に限っていえば完全に物の数ではない。なんといっても天使さまのご命令だ。太妃はそのことを知らない。ゆえに彼女の話に乗ったふりをするのだ。
どうやらドリアーヌは、ポーラがルイについて苦悩していると考えているようだ。鋭いというならば、真意を見抜くことを期待した。
しかしながら背景について何も知らない彼女が真実に到着する可能性は果てしなくゼロに近い。だが、天使さま関連でマリーの信頼を得ていると判断したポーラは事実を告げることにした。