架空十字軍60 ファーティマの洗礼3
ファーティマ・アル・カッザフィーの洗礼はこの日から一週間後だとクートン枢機卿の中で密に固まっていた。しかしながら、ポーラはその事実を知らされなかった。
彼女が宿舎に選んだのは、とある貴族の邸宅だった。ニネベ市街の、どちらかといえば中心街から外れた地区に位置する。枢機卿がでっち上げた臨時教会から100歩ほども要しない。
帰宅した際、ポーラを驚かせたことがある。何とファーティマは人間の服装をしているではないか。小麦色の肌が露出しているではないか。
あたかも人間のようにそれを肌と呼んでいいものか、少女はそのことすらがずっと疑問だったのである。ことここに至ってその考えを変えなくてならなくなっている。しかしそんなことは彼女の意識が許さない。主によって命じられた気高い地位が容認しないのだ。
瘴気は安定しているのか、しかしながら小刻みに身体が震えている。どうやら自らの本心を押し隠すためにある種のエネルギーを浪費しているのだろう。
ファーティマに親しくなった、ある侍女が嘴を突っ込んだ。
「殿様、とても素晴らしいことだと思います。ファーティマはやはり、人間・・・」
くわっとポーラの慧眼が光を帯びた。
「止めぬか、アンヌ、何処に目が光っているかわからないのだぞ、口を慎め」
この子はまさか洗礼の話を聴いているとは思えないが、それなりに親しさを獲得しているとみた。それほど社交的だとはポーラは受け止めていなかった。
ファーティマは、ポーラに歩み寄るなり主君に示す礼儀作法を実行した。もう驚かない。いや、そうしなければならないのか。
「これはアーイシャに命じられたゆえか」
ドレス生地が白いだけにより肌の黒さが目につく。それがポーラを拒絶しているようで不快である。
ファーティマは応えようとしない。
侍女の瘴気が疑問を示している。アーイシャというものが化け物を識別する固有名詞であることぐらいは彼女とて認識しているはずだ。この少女を介して何事かメッセージを送ろうとしていると見て良い。干戈を交えたとき、もしかしてポーラを殺すこともできたのではないか。
何か弄ばれているような気分がしてきた。
しかしここはあくまでも自分の本心をファーティマに摑ませることもない。ポーラはもどかしい思いを隠しながらも言った。
「私が悪かった。ここでは答えなくてよい」
そう言ってからで合図して下がらせた。
侍女が消えると、異世界の少女は膝を床に打ち付けた。
必死に制御しているのだろうが、怒りとも自嘲ともつかぬ感情に満ち満ちていくことが手に取るようにわかる。もはや押し隠す気力もないのか、それともアーイシャの命令なのか。
ポーラは、ファーティマに何も気を使わずともよい立場にいることにやっと気づいた。
「そんなにこちらの主とやらは寛容ではないのか、そなたの本心くらいは簡単に見通せるはずだろう」
ファーティマはあたかも全裸であるかのように恥ずかしがっている。そんなにまで肌を露出させることがタブーなのか。ここには異性は誰もいない。ただ姿を見せる可能性があるというだけの話にすぎない。そのことですらが少女を戦慄させるのに十分らしい。
彼女を見ているうちに不思議なことにきづいたのである。いま、彼女はこちらの主という言葉を用いた。これから洗礼によって世話になるみ御心のみが主であって、こちらもあちらもない。主とは比較ではなく絶対値でなければならない。あるとすれば、決して具象化してはいけない対象は悪魔だ。しかし悪魔というものも主によって天界から追放されたというエピソードを持っている。比して世界の外の存在をどういった方法で定義していいのか、ポーラは検討すら付かない。連れてきた学者たちはああではないこうでもないと、議論の最中だという。
ポーラはただ戦いにきただけなのだ。聖地エイラートさえ取り戻せればそれだけでよい・・・・しかしそう思えるほどに子供ではありえなかった。いわゆる略奪によって得られる裨益は想像もできないくらいに大量だろう、無尽蔵と思えるほどに。
それはナント王と雌雄を決するために使う。聖地奪回のための戦いはまだ始まったばかりだというのに、こうした気分が立ち上がってくるのはどうしたことか。普段の戦いにおいては嘴を刺しはさない聖職者や学者たちがいつになじく饒舌なのだ。不快でしょうがない。
.ファーティマはポーラの質問を無視を決め込んだようで両肩をそれぞれの手で摑んで、もはや何者をも自分の内面への侵入を許さじとばかりに虚空を見つめている。
「そんなに震える必要はない、もしもそなたの主とやらが正しいのならば見咎めはしまい。」
ポーラは自分の口からついで出てくる言葉に驚いた。そうやって自分の変化を観察するのも面白いかもしれない。
そう自身に言い聞かせないとつい本心が溢れてしまう。クートン枢機卿も含めて危ない橋を渡っているのではないかと不安にもなる。この異世界人に洗礼を受けさせる意味について、多くが深く考えていない。ふいに浮かんだナント王を意識の埒外に追い出そうとする。
洗礼を受けさせることで目の前の生物を人間だと認めてしまうのではないか。それがどれほど深い意味を備えているのか。深淵の入り口を見つけたような気がしてポーラは言葉を失う。反対派もそこまで深く思考を進めていないだろう。いまだに世界の外があるという事実に直視できていないう。まだそういうという段階にちがいない。ならば賛成派どうか。どうしてクートンは積極的な姿勢を保っているのか。
洗礼を認めることで世界が広がることにポーラは気づいていない。ただ自身が変化していくかもしれないと感じているだけだ。
ポーラはマリーが近づいてくることに気づいた。そうだ、どうして彼女を相談相手としてまずは心に思い浮かべなかったのか。
なぜか、彼女の瘴気を感じる以前に来訪がわかったのである。
「マリー、どうしたことか?」
マリーはあくまでも無表情を決め込んでいた。自分がどう考えるのか、それをポーラがいかに重要視してきたのかわかっているからだ。
「猊下の考えに乗るのが適当だと思います」
ポーラはわかっていてなお返す。
「猊下とはどのお方のことか?」
互いに無言で目で何事かを合図しあう。ファーティマは2人の間柄に気持ち悪いものを想像しないわけにはいかない。これから料理される食材の心持ちとはこのようなものか。
いくらアーイシャの命令とはいえ、恐れがなくなるものではない。異国の神の愛撫を受け入れろと言っているも同義だからだ。しかし次の瞬間には主君に疑念を抱く自分に嫌悪を感じてしまう。何も仰っていないが、じつは重要な目的がお有りなのだと自分に言い聴かせる。しかし震えは止まらない。ここに異性はいないはずなのにどうしたことだろう?料理人たちはあのように肌を露わにした衣装を纏って平静なのだ。ここに男がいようがいるまいが全く関係がないと言った様子に恐れは通り越しつつある。が、簡単に嘲笑えないほどの何かを料理人たちは持っている。それだけは明らかなことだ。
ファーティマは、この時点においてポーラよりもずっと高い位置から事態を俯瞰できていることに気づいていない。
この肌の白い連中の神と自分たちのそれは果たしてどんな関係にあるのだろう。そのような疑問を抱けている。それは誇っていいはずだ。宗教という枠組みでまだ完全に受け取れなかったとしても、ポーラたちの考えに比較して隔世の感がある。少なくとも連中は世界の外から侵略してきたわけではない。
とにかく、連中は自分たちの神を押し付けにやってきたらしい。それに乗ってみる。そのことは主もご承知であろう。そう思うと気が楽にならないわけではない。少なくとも前を向いて歩いている気分にはなるだろう。それに賭けてみるしかない。
彼女がどう気構えようとも一週間後には身体がすっかりと濡れてしまっているのだ。それにしてもこの二人の関係が不明である。主君と家臣にしてはあまりにも馴れ馴れしい。姉妹にしてもどこか変だ。ファーティマの辞書によれば友人という関係性がすっぽりと当てはまりそうだ。料理人たちはかなりの信頼関係にあることが、醸し出される空気からも確からしい。
ケントゥリア語には明るいファーティマもナント語にまでは、手が届いていない。が、瘴気でわかるのだ。それはこの二人がファーティマにそう覚られてもいいと感じていることを意味する。そうまで考えると相当にふたりが憎らしくなってくる。
ポーラは意外な顔をしていた。マリーは枢機卿の考えに賛成していたからだ。慎重な考えを彼女に期待していた。
「姉上さま、私は無制限に猊下を支持するわけではありませんよ、我々の立ち位置からすると他に選択肢がないだけにすぎません」
「つまりは現地人に伝がなければ、いつかは打ち止めになると?」
「表現に品がないことを除けば、正解は正解です。まだ我々はこの地を平定しきっていないのです。にもかかわらず緒戦の勝利に酔っている。それが冷めた時、目の前に何があるのか想像するだに恐ろしくはありませんか?」
「魔法による食糧生産には取り掛かっているはずだが、それも限界がある。これからどれほど必要なのか想像もできない」
「そこでこの娘を洗礼させてしまうことで、我々はより良くを得られることでしょう」
いつのまにか、ふたりはケントゥリア語に替えていた。もちろん、ある一定の配慮があってのことである。
上から下まで勝利に浮かれていることとは対照的にじっさいはニネベは攻略しきってはいない。そもそもアーイシャはどこに行った、というよりかはどこにいて軍隊を指揮していたのだろう。
ケントゥリア語でそういうニュアンスのことを二人は会話しはじめたのである。
「そなたは知らないのか?」
あたかもそのように揶揄されているかのようだ。アーイシャさまの行方などファーティマにも知るよしがない。どこからか命令が飛んでくる。それがどこなのか、ファーティマにしても是非とも知りたいところだ。そしていまひとつはいかなる理由によって洗礼を支持するのか、ということに他ならない。普通の人間からすれば敷居の高い聖職者を簡単に論破してしまうアーイシャさまだだが、取り分け信仰が深いわけでもない。しかしだからと言って、そう簡単に信仰を捨てるような行為を認め得るはないと思えるからだ。
ありえぬことだが、この二人遠く深いところで繋がっているような気がしてならない。あるいは偶然にも目的地が重なってしまったのか?
そのように具体的な理由は、頭を幾ら捻っても仮説といった段階ですら答えは出てこない。




