帰国
愛竜リシュリューは主人の様子が普段と違うことに違和感を禁じ得ないようだ。水晶のように透明な肌は曇りがちのようだし、何よりも皮膚を透けてみえる身体内部の光の玉が輝きを失っている。まるで月のようだ。だが、一般的に、いうなれば人間が知っているような月ではない。連中は本当の月を知らない。まるで太陽の妻のように白く輝く珠は、現実には単なる穴だらけの醜い球体でしかない。人間の視力ではそこまで見ることができないのである。
リシュリューはポーラにメッセージを送ってみた。
竜は人間以上に豊かな言語を有していて、人間の言葉に翻訳できない単語や言い回しや概念もあるほどだ。しかし今はただ「それで戦えるのかしら?」という程度にすぎなかった。
ポーラはもちろんリシュリューからの有難いメッセージを受け取ってはいる。しかしながらそれは無意識になげ渡した。今の彼女にそんなものをまともに受け取るのは無理というものである。
「リシュリュー、そなたも不満気だな、戦いたりなかったことだろう・・・。私も同意する」
確かに精神的な疲労が溜まっている。修復にはかなりの時間を要する。しかし時間的余裕はないのだ。すぐにでもアラスに帰還しなければならない。
いま、だれかと干戈を交えたら、たとえそれがバブーフであろうとも完敗するかもしれない。ナント王の言葉が脳裏によみがえる。
「一か月後だと?」
戦争の準備に一年を要する。それは当たり前のことだ。あまつさえ、相手はルバイヤートであり、奪うというか、奪還すべき聖地エイラートを占領しているのは人間ではなく得体のしれないモンスターなのだ。剣や魔法が通じる相手なのか、それすらわかっていない。天使さまが無体なことを仰るはずもなく、まさか殺傷不可能な相手と戦えなどと命令なさるはずもない。月や山と戦えと命じられる天使さまのお姿をポーラは想像できない。
とはいえ、平均的なモンスターの強さが人間でいえば、皇帝や王、それに公爵レベルという可能性は否定できない。
それ以前にエイラートという土地について人間は何を知っているのだろう。そもそも竜騎士や魔法の使い手が戦うには魔法源泉が必要だが、所在の確認すらできていない。これまで幾世代に渡ってモンタニアール家と死闘を繰り広げてきたために、何処に魔法源泉があるのか、相手がどのような戦術で襲い掛かってくるのか、互いに手に取るようにわかっている。エイラートはそうはいかない。世界各地の諸侯は何を考えているのだろう。おそらくポーラのように悩んでいることだろう。
ルバイヤート、それは世界の外にある。巨大な滝が落ちる向こう側にある土地だ。すくなくとも一般的にはそう思われている。
しかしながら、ロベルピエール公爵はルバイヤートについて世界でもっともくわしい。少なくとも巨大な滝が海の臨界地から落ちていくことはないし、その先にも世界と似た地面が広がっていることも知っている。南方におけるこの程度の認識であっても当時としては稀有な存在なのだ。ろくに地図すらない伝説の聖地エイラートを奪還せよというのだ。
ただし、その土地に住むのはモンスターだ。
ただし、連中が貨幣という概念を持っていることは知っているし、黄金がそれ自体は何の役にも立たないのに非常に価値があることもわきまえている。だから表向きは略奪という名目の交易が成立するのだ。モンスターたちはロベスピエールが産する毛織物を欲する。一方、ポーラは胡椒を欲する。どれほど魔法関係の古書、奇書の類を世界各地に訊ねてもそれを得るための方策は見いだせなかった。認めたくないが、かの地には優れた魔法が存在する。
天使さまから話を伺って以来、数日、ポーラが無駄に時間を過ごしてきたわけではない。従軍した将兵の中から略奪に参与させている連中を集めてかの地に関する情報を集めていた。もちろん、天使さまの話は秘す。
巨大な滝の向こうには大陸があるらしい。海岸からそう遠くない場所にある。
少なくとも魔法は使えるらしい。竜騎士の剣も両者の能力が同根ならば通じるにちがいない。だが、それが有効なのは人間に対してであってモンスターではないのだ。ポーラの関心事は戦う相手に
ついての知識だ。
とりあえず家臣の中で略奪に関与しているものを集めさせた。普段はポーラに近づける身分ではないので目にあまるくらいに緊張させてしまったようだ。
酒に酷く酔ったような家臣の声がルバイヤートを説明する。
寝耳に水の情報があった。決死の思いで大陸に渡った者がいるという。
「私はそんなことを許可した覚えはないが?」
家臣を睨みつけると、彼は思わず口を押えた。どうやら自分を幼女だと軽く見ているのは、ナント王に限ったことではないらしい、足元から粛清しなおさなければならないようだ。
主君の知らないところでルバイヤートブームが起こっていたらしい。魔法の初心者はとかくより強力な秘術を手にすることで強い力を得ようとする。高貴な血に恵まれなかった者ほどそういう傾向が強い。未知の領域に命の危険も省みずに飛び込む。その勇気は賞賛に値する。
しかし主君の許可なくことを起こすとは断罪に値する。
あれほどの実績を上げていながらこのざまか。先代からの宿将の功だとみなされているのか。まだ若いと侮られているのか、忸怩たる思いだ。
確かにより高きを求める精神はポーラも認めるし、例外的に身分低きにも強力な竜騎士や使い手を見出しことはありうる。
しかしそれをモンスターがひしめく土地に求めることもあるまい。
家臣は慌てて取り繕うとした。それをポーラは言葉で押しとどまらせる。
「どうして、口を滑らしたのか、わけもわかるまい」
「閣下、魔法を使われたのですか?瘴気は全く感じませんでしたが・・・」
どちらかというとそれはマリーの領分なのだが、いくら戦闘専門とはいえこのくらいの目くらまし魔術は子供の頃からお手の物だ。ナント王に言われるまでもなく本物の幼女のころは、侍女たちを揶揄ってよく遊んだものだ。一言でいえば仕事の邪魔をするのである。シーツを代えてもいないのにその気にさせるとか、そういう類の罪のない冗談のことだ。
慌てる家臣に公爵は念を押すことは忘れなかった。
「私がルバイヤートについて興味を抱いていることは他言無用だぞ、いいな」
強く念を押して下がらせた。しかし彼は他言をするだろう。人の口に戸が立てられるとは思えない。それを計算して事を進めねばならない。
当該家臣は従軍していない。すべては帰国してからだ。
だが、アラス城にはそれよりもはるかに大きな問題が待ち構えているのである。
しかしたった一か月で世界全体の軍隊を一挙に集結させらえるのだろうか?そんなことが技術的に可能なのか。目的地は古代ミラノの時代から軍港として有名なモンパーサンであることはだれの目にも明らかだ。
ポーラは瞬時に計算した。公爵家の軍隊をかの地に運ぶためにどれほどの艦船が必要だろうか。それはすぐにわかる。さて、乱暴な計算において全エウロペの50分の一の国力だとする。計上した数字は少女を愕然とさせた。ハードの面で不可能ではないが、いったい、何年の間、戦線を維持できるというのだ?
まるで上陸したその日にエイラート奪還が成るような前提ではないか。
そこに世界中の艦船を終結させるのか。
航路は確立しているのか。
略奪関係者が陸地に達しているのだから、ある程度はできあがっているのだろう。
そもそもそれをを始めたのは先代公爵オーギュスト五世だった。ポーラの父親であるが、広大な版図を受け継いでいらい、それを維持し、あわよくばナルボンヌを伺うことだけに神経が集中して銭勘定に関すること以外でルバイヤートに興味を持つことはなかった。
だが、少女を後世から責めることは無意味だ。狭量な後継者だったら、人間がモンスターと交易どころか関係を持つことすら主に弓引く行為だとして忌避したかもしれないのだ。
彼女はナント王と対峙するために軍資金が欲しかった。彼女の目的がただ一点に集約していたとはいえ、主の教えに反する行為を忌避しなかったことは評価に値する。
ポーラは帰国するより前に恐ろしい事実に気づいた。
世界の諸侯たちは、彼女が計算したような前提をルバイヤートに対して持ちえないのだ。ナント王はどうか。彼ならばあるいは、隠れて公爵家がやってきたようなことをしていたかもしれない。エイラート奪還という甘い物語に単純に引き寄せられている最中ではないうのか。
彼女にとって不安はさらに拡大していく。
もしかして、公爵家が可能以上な重荷を背負わされるのではないか。天使さまを批判申し上げることは憚られる。
エイラート奪還・・・・、人間とバケモノの戦いとは・・・本気なのか。まずはバケモノの一匹や二匹でも拉致してその強度を確かめてみるべきだ。一年ほど時間があればそれも可能だが、一か月だって?
まるで聖伝の世界に舞い戻ったような気がする。幼いころはあの世界だけが現実だった。主の栄光と、主に逆らったものがどれほどひどい目にあわされるのか、淡々と物語形式で語られる聖伝以外に開くことが許される書物はなかった。公爵家では決まり事によって6歳まで他の書物は禁じられている。
それでも早熟なポーラは魔法を使って他の書物を開こうと企てたものだ。瘴気によって簡単にばれることから瘴気を抑えることを学んだ。普通の使い手が師匠から学ぶ経緯を彼女は踏んでいない。
王位戦争によって経験を積んだ結果、少女はエイラート奪還が夢物語にしか聞こえないのだ。
だが、ロベスピエール家が持ち得る知識をもってすればいささか考え方は変わるだろう。この企てをした主体はきっとそれを踏まえたうえで立案したのだろう。
公爵家をよく思わない連中が天使さまに入れ知恵したのではないか。
「なんと恐ろしいことを・・私は」
休憩で寄った村にて、少女は嘆息した。
天使さまを批判するなどと・・しかし、別の考えに変換すれば問題は少なくなる。ポーラは天使さまにもっとも近づける連中の顔を思い浮かべる。これは大変に失礼ではあるが、天使さまと言っても中枢とアラスでは立場が違うだろう。ミラノ教皇猊下・・・。しかし、それはありえない。何と言っても猊下はロベルピエール家の一員なのだ。しかし、歴代教皇と違って親族優遇主義から最も遠いところにいる。だからといって自らの出身母体を危機に追い込むことをわざわざするだろうか。それが主への気持ちだと?
村人が持参したワインを口に運びながら、事の重大性に思いをはせる。公爵家の敵として筆頭に挙げられるべきは言うまでもなくナント王、モンタニアール家だ。しかし・・・、あの男は・・・、少女は否定すべき思考が浮かんだことに気づいた。どうしてあの人格破綻者を擁護しなくてはならないのか。
ちょうど、ルイ殿下が歩み寄ってきた。
彼もまた問題の一事項だ。本当にアラスに連れていくのか。
こうしてみると、美少女が男装しているようにしかみえない。もしかしてこれまでのことはすべて芝居で、間諜として実弟を送り込んできたというのか。
しかしルイ殿下に限ってありえそうにない。それに王とて皇太子として目されている彼を送り込んでくるはずがない。
ルイは村人からワインを注がれながら言った。
「殿下と私を呼ぶのはお止めいだけませんか、閣下」
「こちらこそ、閣下と呼ぶのはご遠慮ねがいたい」
それにしてもこの事実を世間はどう見るだろうか。まさか王位戦争が終結したとみるのではなかろうな。公爵家はモンタニアール家に屈したと見なしかねない。ルイを相手にこういう話題をふるつもりはなかった。
「殿下は、王位戦争についてどのような見識をお持ちか?」
「そもそも、その名前で呼ばれる歴史事項はありません。モンタニアール家は古代ミラノ帝国が瓦解していらい、この地の王でしたし、現在、未来に渡ってそれは変わりません・・・と言いたいところですが、実際にはカペー家がロベスピエール家と王位を巡って争い、我々が勝利した、いえ、しつつある戦争でしょうね」
少女は切れ長の瞳をぱちくちりとした。
「本当にあなたはモンタニアールの人間なのか?」
モンタニアール家の人間が黒歴史たるカペーの名前を自称するなどありえないことだ。それよりも太陽が西から昇ることの方がよほど可能性が高そうだ。
周囲を確かめると誰もいない。村人が仕事をしているだけだ。ワインのお替りを所望しても反応しない。
「何事か、具合でも悪いのか」
しかし老婆はきょとんとした顔でこの地方の支配者を見上げるばかりだ。
ルイが言った。
「閣下、ケントゥリア語が村民に通じるはずがありません」
彼はこうして自然体でいても警戒を解かない。恐るべき人物だ、ただし敵に回せば、のことだが。ナント王のみならず、こんな危険な人物を相手に自分は孤軍奮闘していたのだ。そう思うと少しは自分を褒めてもいいのかもしれない。
思い直してポーラは意識的に古代語を使う。
「そうか、気が付かなかった。我々は古代語を使っていたのか」
「恐ろしいことです、古い文化には詳しいとは話しには聞いていましたが、殿下はそうまで自然に古代語を使われるとは・・・」
「私のうわさならば、悪いことしか耳に入ってこないでしょう、特にあの・・・」
「卑劣漢、人類の敵ですか?」
恥も外聞もなくナント王の悪口を大声で外線しまくっている。そのことは自覚している。
ルイは笑ったが、裏の裏がありそうなナント王とはまるで違う。そのままで聖堂を飾る聖母像になりそうな美しい微笑だ。何か、彼を美しいと形容することは同時に彼に酷似したナント王を褒めることになる。
思わず魔法の炎で自らを焼き尽くしたくもなる。
それにしても、この人はポーラと同じように炎の魔法を得意とする。戦場で干戈を交えた彼女には身に染みてその程度がわかるというものだ。果たして人格と述式は一致しないということか。どうしても彼を見ているとナント王と二重写しになる。果たして彼は内々に自分のことをどううわさしていたのだろう。気になる。
「で、陛下は私のことをいかに仰っていたのですか?」
ルイは微笑を絶やすことなく続けた。
「兄ピエールは閣下のことを大変に高評価ですよ・・・」