架空十字軍55 ニネベの攻防13
アーイシャの思惟というか思考が彼女の声で流れ込んできた。
変な言い方だが知識が単語になって脳裏の天井に張り付けられる。
「そなたは、ファーティマ・アル・カッザフィーというのか?アーイシャの侍女?ルバイヤートにおいては侍女というのは人間とは意味が違うようだが?」
どうしてそんなことを知っているのか?という顔をされるのは織り込み済みだ。しかし褐色の疑似人間が示したのは、ポーラが期待するものとは少しばかり齟齬があった。
「・・・・アーイシャ様が、そんな・・白い悪魔の魔物に?!ごときに?!」
こいつはアーイシャの能力について一定の知識があるようだ。ならばそれはこれが一介の侍女ではないことの証左ではないか。それにしても世界の外にまで堕天使の悪名が轟いているとは驚きだ。もしかして聖伝が世界の外にあるとでもいうのか。
その質問はそれ自体が恐ろしいので呑み込む。
この少女は、アーイシャにとって親しい存在なのか。いや、こいつは、いやこの物質は・・意識していないと化け物を人間扱いしてしまう恐ろしいことだ。それ自体が主に対する反逆に等しい。適当な代名詞が見つからない。
ファーティマという固有名詞はまさに渡りに船である。これによって聖職者たちに言い訳ができる。ミカエルや魔界の公爵ウリエルのようなものだと言い訳ができる。
このファーティマという奴はケントゥリア語ができるだけではない。世界ついての知識が豊富なのだ。
堕天使ミカエルについての知識がある。つい好奇心に絆されて知識の程を試問してみたくなった。
「悪魔は知っているならば、天使は知っているか?」
「あなたがいた土地においてか?白い悪魔!!」
「それ以外に世界があるか?いいから答えよ」
「ルシフェル・アスタロト・ベール、ベールベブ・・・う」
思わずポーラは生地ごとファーティマの口を摑んでいた。
「天使さまの名前が汚れる」
ちなみに最後に彼女が挙げた名前はベールゼブブである。よりによって主に近侍される最高四天使さまの名前を挙げたのだ。
「いくら最も有名だからと言って、まあよい、私が命令したのだった・・」
化け物を相手に素直にミスを認めるとは忸怩たる思いではある。しかしながら、この異世界の存在との交流を少女は決して不快には感じていない。それを自覚するにはまだ幼すぎる。
異世界人。
世界の外に住む人間、それについて異世界人という言葉をポーラはすでに発明していた。
異世界人という響きは、ファーティマに相応しい呼称に思えた。
「よりによって私を堕天使呼ばわりとは・・・笑えるな、別の言い方はないものか。しかしミカエルを知っているとは・・・どうしてお前たちは人間について知識があるのか?アーイシャもそうだったが・・・・」
ファーティマが噛みつかんばかりに言う。その勢いで自らを覆っていた布がはがれてしまいそうになった。
「アーイシャ様と呼べ・・ぁぁ・・」
ポーラは視界が絹色に染まるのを見た。
「ま、マリー、よさないか?!」
少女の察し通り、恋人は治療属性の業を悪用していた。
先ほどまで恋人の胸を覆っていた手を異世界人に向けるだけでなく、わざわざ布の隙間を見つけるとそこに手を突っ込んだ。どうしてなのか、完全にマリーの行動が読める。
「よさないか、マリー、この子を殺すつもりか?!」
驚いて異世界人を恋人から引き離す。攻撃魔法の使い手にとって最も不得手な治療属性の真似事をしなければならなくなった。
マリーは嫉妬だが、本能的嫌悪なのかよくわからない感情に身体を八つ裂きにされつつある。
この子ですって、それはこのこげ茶色を人間だと見なしているを意味します!!
「姉上さま、それは児戯にも劣る行為です。五歳の私でももっとまともにできたでしょうに」
「は?治療属性に悖る行為を行っておいて、よくも治療属性を名乗れたものだな、マリー?!」
いつもならばこんな風に反論しないのだが、そんなことをすればどのような結果を産むのか、幼女のころに骨身にしみて知っていることだったからだ。しかしそんなことを思いながらも何故かさらなる反論が脳裏に浮かぶ。機先を制するのだ。
「ファーティマが人間ではないというのであろう」
「まさか・・・違うと?」
マリーが押し黙ったのは、姉上さまにやり込められたせいではない。聖職者たちの監視の目を恐れているのだ。そうした自分の態度から背景をすぐに読み取ってくれるはずだった。少なくとも今まではそうだったのである。
それは小娘、ではない、化け物の幼生のせいか。
そう思うと身体の内奥にウジ虫が湧いたかのような不快感が襲ってくる。
マリーはついに黙っていられなかった。が、聖職者特有の粘着いた瘴気がまとわりついてくる。姉上さまがそれに気づかれないとはどうしたことか。
癪だがここは折れることにした。しかし幼生への傾倒を聖職者どもに看破させるわけもにいかない。
ポーラとしてはまさかファーティマにぞっこんになっていたわけではない。聖職者たちの瘴気を無視していたわけではない。マリーに対しても、いつにない行動に瞠目せざるえなかったこともまた事実である。
だが小麦色の化け物を意識的に人間とみる、固有名詞で呼んだのである。
「ファーティマ・・・・」
自分でしゃべっていながら、誰かに口を動かされているような気がする。この感覚はどうか。だがじわじわと自らが発語していると自覚していく。異世界の名前の中には意外と耳障りの良いものがある。
最初に耳にしたのは、アーイシャだった。あれは別格だった。
ならばファーティマはどうか。
ゆるりとだが異世界人という認識を得るうえで必要な階梯だったのかもしれない。しかしそんな自覚は天使さまのご意思を達成させることを第一に思うポーラにとって意識の外にあったことだ。
ただ、二人の存在が意識にある種の変容を与えたことは事実である。それが彼女の人格に彩りを与えた。マリーもそれに気づいていた。だが意識的にではない。
ファーティマはただ、ただ泣いている自分が口惜しかった。
いま、自分を抱いているものは何者か?白い悪魔の惣領である。奪還軍の内情になど認識がない少女ならばやむをえない誤解だろう。
侵略者どもは、彼女の故郷を汚い靴で踏みにじる。各自の瘴気を解析すると、あたかも母親が娘にそうするように抱く白い悪魔が最大なのだ。しかしアーイシャ様に比較すれば、物の数ではない。しかしながら自分では全く歯が立たない相手だということはもはや議論の必要のないレベルだ。
しかもそいつはあたかも知己のようにあのお方の名前を口にする。ヒズボラ(主)よ、どうしてこのような悪鬼の侵略を聖なる土地にお許しになるのですか?
この女は、汚い靴でファーティマの心の最も大事な部分に入り見つつある。ここまでくるとヒズボラの教えにさえ反発心を憶える。魔法を操る能力を魔力と呼ぶが、持てるそれを最大出力にしてまでも反抗してやりたい・・・そうしたところでこの悪鬼を殺せるとは思わない。それでも一矢は報える。しかしながらいくらアーイシャさまのためにとはいえ、ヒズボラは自殺を禁じる。
いくらヒズボラを口にしたことである種の感情を否定できないことが口惜しい。
何と、ファーティマは自分を強姦している主体に好感情を抱いてしまっている。
それは強いて、この主体を憎みたい衝動に駆られたからだ。
だが、彼女とて戦士なのだ。戦いを愛することにかんしていえば、白い悪魔に負けるものではない。むしろより強い。
その戦いにおいて自分はこの女に負けたのだ。客観的にみてそれは事実に他ならない。
・・・・ヒズボラに対する裏切り以外のなにものでもない。
それが口惜しいのだ。自殺は、自殺は絶対に許されないから・・しかし消滅したいと思うぐらいは許されるだろう。白い悪魔どもの俘虜となってもいつかはアーイシャ様とそれから・・・・様に奉ずる機会も得ることは十分に可能だろう。あのお方は凡人では理解できぬ壮大な志を持っておられる。それに賭けるしかない。
だが、だからといって、この快楽に身をゆだねることは許されるのか。
快楽?何んとも力強い筋肉か、生地ごしに伝わってくる瘴気が高貴なことは学者たちに学ばなくてもわかる。しかしあえて認められない、認めたくない、ぜったいにいやだ!!
その時に耳元に懐かしい香りが吹きかかった。
「私に抱かれていると思いなさい、ファーティマ・アル・カッザフィー」
「アーイシャ様!!」
次第に意識を見失いつつある、マリーにとっての化け物の幼生はついに快楽の滝壺に落ちることを受け入れた、しかしそれは快諾ではないが・・・。
ファーティマは感知しなかったが、ポーラとマリーは議論を交わしていたのである。しかしナント語であったために理解の及ぶところではなかった。
ファーティマのことが気になりすぎていたポーラは、マリーの危惧を受け入れた。
ハイドリヒは背後からただそれを傍観していた。口を出す機会はいくらでもあった。だがそれをしなかったことに関しては奸智が働いたせいではない。ただ観察していたかったからでもない。手を出さないことが自分のルバイヤート理解にもっとも役立つと判断したからだ。
それにしても、あの水色の塔における尋問はすでに終盤にむかっていよう。陛下たちはさぞかしお疲れだろう。それにしてもリヴァプール王は最後まで来られなかった。重臣の派遣もなかった。それは両陛下に気を使った結果だろうか。あのふたりに匹敵する権威はリヴァプール王のみである。あえていうならば、ロベスピエール公爵か。しかし彼女の未来を考えるならば形だけでもニネベ太守の尋問に加わるべきだ。
「公爵閣下、塔に急ぎましょう」
ポーラは、ハイドリヒに促されるままに立ち上がった。気掛かりなことを思い出した。
「そなたニネベ太守とやらと知己なのか?顔を合わせるのは都合が悪いのか?そうでないのならばついてまいれ、私が守ってやろう」
ファーティマは自分の耳の中に主君の唇を探り当てていた。
悪鬼などに守ってもらう義理はないと叫びそうになったところで、悪鬼の背後から聴き慣れた声が響いた。
「私はいつでもいるぞ」
が、しかしそれが単なる記憶から紡いだ妄想にすぎないのか、じっさいにアーイシャ様が単体で来られたのか、瘴気を発しておられなかったので少女には判断しかねる。
「それから、この子は世界でいえばサラフ・ウディンの血族に連なる地位にあるものだ、敬語を使うように・・」
一瞬、主君の瘴気が目の前を横切った。麗しいお顔がどうしてこのような下品な悪鬼と重なるのか?美しい褐色が白く醜い肌と比較になるはずがない・・・しかし目鼻立ちは一人前に整っている・・・アーイシャさまとは違う意味で美しい・・・いや悪鬼に対してそんな形容はヒズボラが授けてくださった言葉に対する侮辱に該当する。
褐色の少女はポーラにこう答えた。
「はい、太守様には謁見した機会がございます、ロベスピエール、サラフ」




