ニネベの攻防11
ポーラはこれ聴きよがしに言った。
「まったく両陛下は本当にエイラートを奪還する気持ちがおありなのか、マリー、疑問に思わないか?ラインハルト、アリエノール、男爵、どうか?」
最後の二名には酷な疑問でしょう、という顔でマリーは応えた。
「ご老人たちには安息が必要でしょう。ニネベを制圧した段階でお疲れなのでしょうね」
ニマと笑ったマリーはポーラを叱った彼女ではなくなっていたが、真意を隠しただけだろう。恋人に対する不満よりも老人に対する憤懣が勝ったとも考えられる。もっともナント王の悪感情は今に始まったことではないが、それは、相手がモンタニアール家ゆえだ。
ポーラは、単体のドリアーヌをみつけて思わず頭をかいた。
「ポーラ、どうなさったのですか?」
「いや、そなたの妹が…」
「ドリアーヌが単体で来てるのですか?」
肉体から離脱し魂だけとなった妹を感知できないことに悔しさを滲ませながら恋人は言った。しかし自分以外には何のことなのかわからないだろう。
「身体は大丈夫なの?」
魂を単体で飛ばす術が物理的に身体に影響しないことは知っているだろう。だから、あくまでも枕詞のようなものにすぎない。
そのようなことは頼まれていないとわかっていながらポーラは言わずにはいられない。ドリアーヌにせっつかれたせいだ。
「ドリアーヌは大丈夫だと言っている。とにかく参ろうか、ラインハルト、頼むぞ」
強引に本題へと持ち込むことで恋人の反論を門前ばらいにしようとしたわけだ。
彼に案内を頼むまでもなかった。ピエール二世と皇帝は瘴気を制御していない。それにしても東王は来ていないのか、彼一人、参加していないというのが気になる。戦場では見かけたが、以来、いっさい感じることはできなかった。
領地のことが気にかかるか、しかしながら敵対する土豪たちはまだ奪還軍に参加しているはずだ。
これほど狭い土地に諸侯が集中すると、さすがにポーラといえども各人の瘴気をそれと同定するのは難しい。土豪という身分にもかかわらず強力な瘴気を備えている者もいる。それでも捉え切るのは難しい
が、ナント王や皇帝ならば話は別だ。
何もここに余はおるぞ、と主張しているわけでもあるまい。それでもビンビンに伝わってくるのだ。
「あの塔に陛下はおられるか、ラインハルト」
「お連れいたします、閣下」
クリーム色の塔は南東にある。クライディスの特殊文様には名状し難い感動を覚えたが、あの塔には何も感じない。あえて言うならば子供が土を固めて拵えたような感がある。塔に走る水色の線が何を主張したいのかわからない。訪問者を笑っているのか。
「不思議に思ったことなのだが、ルバイヤートには天守閣というものがないのだな」
「まだニネベですよ、すこし気が早いのではありませんか」
ふたたび、恋人の胸に手を当てたマリーが言う。
「マリーさま、恐れながら、私はお姫さまがよりもルバイヤートにかんしていえばずっと玄人のつもりですよ」
ハイドリヒ伯爵の誠意が疑われたとき、遠隔制御を目論むアデライードは二人の少女を送り込んできた。ラインハルトは少年ながらに公爵たる夫を失ったばかりの大妃が只者ではないことを思い知らされた。まるで征服者のように小さなポーラ殿下とサンジュスト伯爵が赤い竜に乗っていた。視覚的には巨大な生物のどこにいるのか、すぐには判別がつかなかったが、半端ではない瘴気に度肝を抜かれた人々は、それ自体が公爵家の意思に思えてしょうがなかった。
父の言葉は今でもラインハルトの耳にこびりついている。
「ラインハルト、我々はあと100年、公爵家から離反するなど、すでに夢のまた夢にあってしまったのだ、わかるか」
竜に乗った小さな女の子たちの瘴気の膨大さが父を怯えさせているのだと、当時のラインハルトは確信したものだ。確かに幼女たちの並外れた潜在能力に父も瞠目しただろう。しかし事実はそう単純なものではなく、彼は背後にいるアデライード太妃をこそ恐れていたのだ。
少年にとってはあの子たちは従姉妹であり、そもそも敵ではない。それも手伝って離反という言葉が父の口から迸った意味まではわからなかった。当時の伯爵は公爵家とモンタニアールを両天秤にかけていた。
公爵は没したとはいえ、まだ太妃がいる。伯爵は無言の恫喝に従わざるをえなかったのである。永年の敵であるヒトラー伯爵家を侵攻するわけはいかなくなった。太后は何もいわないが、公爵家の家庭教師に当主クララが入っている、その事実が何よりも雄弁に語っていた。そのようなことも洞察できないのならば、いつでも踏みつぶせるぞ、と平和主義を語る優雅な太后が笑っている声が実際に響いていてきた。父はその声を聴いたといって、甲冑を纏おうとする息子を制したものだ。
幼女たちの望みもあって、しばらくのあいだハイドリヒ伯爵における遊興は予定よりも伸びた。
マリーはおとなしそうな顔をして恐ろしいことを述べたものだ。
「姉上さまを人質にして中原への覇を唱えられたら如何ですか?伯爵どの?」
とても幼女が吐く言葉ではなかった。この子は常日頃からこんな言葉遣いをしているのか。子供とは大人の言をオウム返しにするものだと、父は息子に笑ったものだ。しかしラインハルトはそうは思えなかった。彼だけにそっと囁いたからだ。
「人生は賭けですよ、ラインハルトおにいさま・・」
その声は伯爵となった元少年の耳に響いている。
とうてい幼女の言葉にはおもえなかった。かといって大人が強いてそう言わせたという風でもなかった。その証拠に次の瞬間には、ちゃんと伯爵家の跡継ぎが知っている幼女の顔に戻ってマリーと微笑みあっていたからだ。
ラインハルトの胸にすら見事な金髪は届いていなかった。それが今では…見事に成長なさったものだ。公爵家の権威は揺らぐどころか、以前より倍増しとなり、皇帝の耳にまで届くほどになっている。伯爵家においてはヒトラー家に対する権益を担保してもらうことぐらいが関の山だった。
巧緻な外交手段を弄するポーラはそちらにも触手を伸ばしているとか、いないとか。
ラインハルトの耳にもその程度の情報は伝わっている。それは少女が意図的に漏らしたのだと考えている。さすがはあのアデライードの娘だけはあり戦争だけが能ではない。
少女は、担当官であるハイドリヒを一応は立てている。そういうところに作為のようなものを考えずにはいられない。
「ラインハルト、あの塔のようなものは何と呼ぶのだ」
「ただ、塔とだけです、通訳によれば・・その通訳は陛下たちとともにおられます」
少女には思いつくことがあった。
「連中はケントゥリア語ができるのだろう?通訳などいるものか」
「どうして、殿下がその件をご存知で?」
どうしてポーラがそんなことを知っているのか?それは言うまでもなくアーイシャとのやり取りを通じて知ったことだ。あるいは略奪行為を通じて知っていたとも考えられる。
だが、確かに彼女はケントゥリア語を語っていただろうか。今となってはまるで夢の中の出来事のように曖昧になっている。彼女が瘴気を発していたことすら確信を持てずにいる。
「まあ、いい、捕虜がどのくらいか?身代金の支払いの申請はこないのか」
「閣下、ここは世界ではないのですよ、それにあれを建設したのは人間ではありませんので。きっと蟻のように唾液で固めたのでしょう」
ポーラは地平線に戯れるリシュリューを指さしながら言った。
「三代前の先祖は竜の身代金を払ったそうだ・・・それから、ハイドリヒ伯爵殿はやけに蟻の生態に詳しいのだな」
少女の記憶の中に、少年期、それもかなり終末期にあったラインハルトが蟻を目でおいかけていた情景が蘇った。酷薄な灰色の瞳がその時だけはやけに温もりを帯びていたように思える。
ポーラにとって見れば蟻と植物を分類する意味を知らなかった。それは今でも同様である。
ラインハルトは、灰色の瞳を微かに濁らせて返す。
「ニネベ太守ですから、先方には重要なのでしょうが、そういった申請はありません。そもそも化け物に貨幣という概念があるわけがないではありませんか」
珍しくポーラは声を立てて笑った。
「そなたがそんなことを申すのか?皇帝陛下用の顔であろう、従姉妹である私の前でする必要はない」
ハイドリヒも笑った。
「イトコという単語ですが、従妹というニュアンスでお願いします、殿下、いえ閣下」
ポーラは先ほどよりも大きく笑った。歯を見せたほどだ。
「そうね、おにいさま・・」
これにはマリーが反論せねばならない。
「ポーラ、それは主の教えに反します」
自分が姉上さまと呼べないのに、その本人が違反することが許せないのだ。
「児戯だ、そう角突き合わせるものではない、マリー」
立場を弁えているということか。普段とは恋人の態度が違うことに気づいている。しかしながらそういう状況を利用してマリーをやり込めているような気もする。
が、それよりも塔からはナント王の瘴気がビンビン伝わってくるのだ。いつしか少女はそれに気を取られていた。ハイドリヒはともかくマリーまでもがそれに掻き消されてしまうわけはないのだが、心身の健康のために彼女への配慮はかかせない。
この期に及んでナント王に気を取られるなどと、彼はマリーにとって憎んでも憎みあるモンタニアールなのだ。
塔に入ろうとしたところで、突如として背後から女の瘴気が耳を撃った。ほぼ同時に鳴き声が起こった。
振り返ったところ全裸の少女が何やらわけのわからない音を立てて泣きわめいている。それは人語なのだという無意識の囁きを少女は無視しようとしたが、無理だった。意味がわからないが、それは確かに人の口が発する言葉にちがいない。
誰かに追跡されていることは疑いない。
いま、ポーラの足下に倒れた。黒い肌に違和感はないと言えばウソになるが、アーイシャと係るようになったせいか、それが人の肌であると思えているのは不思議でたまらない。
そういう認識に拍車をかけたのは青い血だ。
少女はケントゥリア語を自らの口に迸らせた。
「大丈夫か?」
返事がある前から、おもわずポーラは手を伸ばしていた。
手首を軽く握る。しかし予想したほど反発は受けない。瘴気は落ち着いている。
少女は顔を抑えて泣き続けている。こうしてみてみると褐色の輝きも悪くない。これが小麦だったらどうだろう?自らの領地に実った黄金の反射だったとすれば、どうだろう?戦争用の兵站になる。じつにすばらしい。目の滋養になる。音のない美しい音楽だろう。
いま、目の前の小麦はたわわに実りつつ美しい音を奏でている。
そのせいで多少は油断したかもしれない。身体の奥に違和感をおぼえた。それがよく知ったる炎の魔法であることに気づくまでにタイムラグがあった。もしも、世界における出来事であり、かつ、相手が人間ならばこのレベルの相手にこれほど失策はしなかっただろう。
「アツ・・・」
マリーの瘴気が巨大な翼となってポーラを覆い隠そうとした。
「あね、ポーラ?!」
ハイドリヒからは怒りと驚きが見て取れる。
「閣下、何を?!この城を灰になさるおつもりか?」
胸の奥に熱を感じた少女は、このレベルの相手にして後れを取ったことに対する羞恥心から持てる魔法を全開まではいかなくても少なくとも五分の一くらいは発揮しようとした。人並以上の使い手にとって、それは自らの生命の危機に関わる衝撃といって過言ではないのだ。
ポーラは思わず気持ちを忠実に言葉にしていた。もちろん、気持ちを整理せんためである。
「何ということか、抜かった。私としたことが油断したものだ、まさかこんな子供が私の内奥まで杖を押し込んでくるなどと・・・」




