ニネベの攻防10
マリーの献身的な治療によって、ようやく歩けるようになったポーラは戦場を検分することにした。
鬱陶しいことに治療属性の光る手は少女の胸に食い込んでいる。きっとすでに胸骨の一部になってしまっているにちがいない。彼女は反対したのだがそれを押して罷り出てきたのである。
ポーラの恋人以外の手も、戦場にて倒れた竜騎士や魔法の使い手の胸骨の一部になり果てている。
恋人はポーラの言葉を聴いたとたんにこう言って黙りこくった。
「もう私は何も申し上げません。ご自分の胸にお尋ねになってください。私は姉上さまには必要ないようですから消えます。いないものとして、お扱いください」
そう言ったきり字義通りに雲隠れするようなマリーではない。ぴたりと身体を押し付けてくる。そんなに大腿を押し付けてきたら、戦場とは思えない行動に出てしまいそうだ。しかし彼女の溶けそうな絹の肌にはびっしりと針が刺さっていてポーラを罰するのだ。逆に言えばそれはマリー自身をも傷つける。
いい加減に離れてくれないだろうか。
いっそのことそうなった方が気が楽というものだ。・・・しかしすぐに改心する。永久凍土の発熱体に対して非礼を働くわけにはいかない。ちょうど尿意を感じそうなのだがそんな理由で離れることは許されないような気がする。
何も知らない諸侯たちは感慨深げな視線を送ってくる。きっと美しい友情の成果などと的外れな感想を抱いているにちがいない。
ある男爵は帯同した妻に向かって言った。
「まるでご夫婦のように見受けられる、公爵、伯爵両閣下は・・・・」
「確かに何かおかしいですわね、お二人は・・・」
敏感に何かを感じ取った妻は資質に恵まれた魔法の使い手だった。女性趣味にかぶれていた彼女はあくまでも夫の付き添いで奪還軍に参加したのだが、ポーラに改心を迫られて再び杖を持つ気になった経緯がある。たぐいまれなる資質を見込まれた故だ。
ポーラは男爵夫人の言葉に聞き耳を立てていた。
「マリー、現場検証に行こう・・・・血の色のことが気になる」
そのことに言及すると、恋人の表情が変わった。嫉妬で狂った永久凍土が、戦いを生業をする人の眼差しに変わったのである。ポーラが指さす先からはナント王の瘴気が感じられる。化け物の検分が諸侯によって行われているのだろう。これからの戦いを予測する重要な行事だ。それに賢人会議の一翼が参加しないなどとありえない。
はるかなる地平線上の目的地にはカラスが真っ黒なベールをかけている。
どうしても死臭に惹かれるが、ポーラはアリエノールを目的の場所に連れて行きたい。能力に比して控え目なのだ。謙遜とは憎むべき悪癖にちがいない。
男爵夫人と目が合いそうになると、彼女は恐縮して腰を折った。
「あなたも検証に参加してもらえませんか?男爵夫人」
自分は身分が低いという引け目があるのだろう。
「公爵閣下、畏れ多いことです」
そう言ってポーラの背後に従う妻に夫が複雑そうな視線を向けてきた。少女はそれを見逃さない。
「男爵、アリエノールは優秀な使い手ですよ、今回の戦闘で誰の目にも明らかだと思いますよ、我々が有利に戦いを進められたのは数量の差だけではありません、彼我の違いは女性の有無に尽きると言っても過言ではありません」
少女は自分の発言に違和感を禁じ得ない。女性・・・?化け物を人間扱いしているのか。もっとも連中に性別があってもおかしくない。悪魔というならば話は別だ。なんとなればかつては天使だったミカエルやウリエルには性別があるはずもない。
ルバイヤートについてはデータがなさすぎる。
少女は心を悪魔にして男爵の言葉を聴いている。どうやら彼は疑問を抱かないようだ。
「畏れながら、閣下、アリエノールは母なのです。故郷の城には子供たちが待っておりまう・・・・出過ぎた発言をお許しください」
妻に叱られた夫は発言のトーンを落とした。
「いえいえ、これほど魅力な北の方をお持ちならば、あなたや子供たちもさぞかしご心痛と思います。ただし、あなたたちの主君が誰なのか、それを思い出していただければ解決とまではいかなくても少なくとも心強くなれると思いますよ」
マリーが失笑しかけたことを少女は見逃さない。
男爵から離れてから彼女がいみじくも言ったことを少女は忘れられない。
「よくもまあ、ぬけぬけと姉上さまはホラが吹けますね?少なくとも今回の戦いにあっては指揮官として完全に失格です、人間としては言うまでもないですが・・・・」
ポーラはあくまでも軽く笑ったつもりにすぎない。
「なんだ、その言い方は・・・・」
男爵とアリエノールが恐縮していることに驚いた。ポーラの到来を聞きつけてやっていた諸侯たちも一様に開けた口を閉じることができずにいる。ポーラに対するマリーの態度が馴染のない彼女にとってみれば異様に映るのだろう。しかもポーラを姉と呼ぶことは、主の教えに反する。戦慄を禁じ得ないのだろう。
ポーラは言った。
「検分に参る」
少女と契約を結んだ諸侯だけではない。この者たちをぞろぞろと連れ歩くことにどのような政治的な意味を招聘するのか。ポーラはそのことが気にならないわけではない。ただし、それは基本的にマリーの専門分野のはずである。
彼女は死臭に惹かれている。
現場の総指揮がハイドリヒ伯爵ラインハルトに任せられていたことは、少女にとって朗報だった。有益な情報をもたらしてくれるだろう。彼の命令によって死んだ化け物は一か所に集められていた。そこまで行くためにいくつもの検問があり、一つ一つを潜り抜けるごとに緊張感がいやがおうにも高まっていく。いや高めるように細工が為されているのだ。それに伯爵の思想が見て取れる。
よもや彼が建てた城ではあるまい。砂しかない土地でありながら石を積み重ねて建築物を構成するところは、世界の物まねだろうか。
城とポーラは呼んだのだが、それが相応しいのかわからない。そう呼称することでアラス城をはじめとする世界に屹立する名城への侮辱とならないだろうか。しかしながら、独特な模様は少女のみずみずしい感性を刺激しないわけにはいかなかった。
「何ともまあ、面妖な・・・・」
それは少女によれば美しいという意味である。しかしまさか化け物の営為を人間のように評価するわけにはいかず、気を使ったのである。
例の男爵はいみじくもこう評した。
「まるで化け物の内臓をそのまま表しているようです、気持ち悪いですな、はやく世界に帰還したいものです、閣下」
「それはエイラートを奪還しないことにはかなわない、うん?複雑な文様なれど矛盾がないのだな・・・」
いつしか、少女は世界には存在しない様式に魂を奪われていた。それは建物の柱や天井、床に所せましとレリーフされている。まるで植物が這っているかのようだ。あるいは植物をそのまま石化したと言って方が適当だ。これを何と呼ぶのだろう。ぜひとも名称を知りたいとさえ思い始めていた。
しかしそんなことよりも化け物の検分の方が重要だった。戦ったというか、駆逐したときと違い冷静な目で確かめる必要がある。あの青い血と瘴気は錯覚にすぎなかったのだと。しかしアーイシャという固有名詞が脳裏に浮かぶに至って、少女はそれまでの表情を保っているわけにはいかなくなった。
幼いころからの知己である伯爵に見抜かれることは想定内だ。
「閣下、どうかされましたか、あの文様はクライディスと言うそうです」
ラインハルト自ら話題を閉じた。少女の気持ちに気づいてしまったことを恥じているようだ。後で二人になったときに追求しようと決意した。
何かが違う。
建物の三分の一ほどを制覇した段階で少女は違和感を禁じ得なかった。しかしその正体はわからない。きっと完全に制覇したのちには気づくだろう。そのことよりも化け物はどこにあるのか?
もっと重要なことを失念していた。
「ラインハルト、生きてある化け物は?」
ラインハルトという呼び方に、つい昔を思い出してしまうのか。伯爵は言い間違えた。
「殿下、いえ、閣下、すでに両陛下がご検分にあります」
生ける化け物を尋問に当たっているだと?
ピエール王とジギスムント皇帝はすでに最高機密に触れているわけだ。それに賢人会議の一翼である自分が参加していない。それは主のご意思だろうか。しかし何故か悔しくない。ふいにアーイシャの横顔が脳裏を駆け抜けた。自分はこの件にかんして最も重要な知識に接している。おもえば化け物の最深部に分け入った最初の人間なのだ。
それは必ずしもこじつけではあるまい。
両陛下がアーイシャを尋問していることはありえない。これもまた根拠があるわけでもない。あれほどの使い手がそうやすやすと捕縛されるはずがない。少なくとも生きて狩ることは不可能だろう。死して捕えるならばまだわかるが。ナント王とアンリ東王が協力すればあるいは実現するかもしれない。
しかしこんなところに彼女はいない。いてはならない。いるはずがない。いったい、何の活用だろう。それにしても化け物を人称代名詞で呼ぶなどと・・これ自体が言葉にしなくても十分に主に唾を吐く行為に匹敵するにちがいない。
死臭は増している。
それが最高潮に達すると同時に視界が開けた。世界の外であっても中庭と呼ぶのだろうか。しかし確かに周囲は直方体の巨大な石によって囲まれている。何故かクライディスは外観にはまとわりついていない。
ルバイヤートの死体は軍列のように並べられていた。
「冒涜だ・・・」
ラインハルトとマリーだけには聴こえたようだ。遠くから聖職者の瘴気をかんじる。言うまでもなく監視だ。そもそも自分たちの存在を押し隠すつもりはないらしい。連中にかんしていえば、皇帝すら把握していないだろう。奪還軍とは全く別組織に動いていると考えようがない。
主の名前を出されてしまえば彼らに抵抗のしようがない。
全員が死亡していることは確かだった。
「アリエノール、生存者はいるか?」
藪から棒に話しかけられても、彼女は即座に反応してみせた。
「いえ、これらはすべて死体です」
「その理由について、そなたはどう認識するか?」
しかしこの質問には言いよどむ。どう答えれば主の教えに従うことになるのだろう。化け物の生態については聖伝にまったく記述がない。
ポーラは言った。
「瘴気が全く感じられない」
男爵は怯えた声を出す。
「閣下、お声が・・・・」
「大きくないさ、そなたら、男爵は剣でアリエノールは杖で戦ったはずだ。ルバイヤートは瘴気を発していた。攻撃すれば青い血を流したはずだ。そして息絶えれば瘴気は消滅した。我らと変わらない」
少女の言うとおり、死体のどれもが青い血を流している。
「奪還軍の多くがこれを目撃したはずだ。いったい、何を隠そうとして死体をここに集めさせたのだ?ラインハルト、戦いで見たものはすべて夢幻だったと説明するのか?」
監視する瘴気が強まった。あんなものにかまっていられない。
マリーは自らの手を少女の胸に張りつかせながらも化け物の検分に勤しんでいる。彼女の好奇心を刺激するのだろう。その一体に近づこうとした。とたんに治療行為が自らの野望を途絶させている事実に気づいたようだ。注意深く胸から手を外すと一体に近づく。
「伯爵閣下、危険では?」
マリーは屈託のない微笑を男爵に返した。
「死亡しているのでしょう?何の問題もありません。しかし・・・・」
彼女が近づいたのは、髭面のルバイヤートだ・・・と言ってもそれが個体を指し示したことにならない。何と言っても化け物は一様に髭で顔半分を覆っているのだ。
「これが触手だったら、みなも納得したでしょうね、しかし触れてみればわかるとおりに毛です、これは我らと変わるところはありません」
ポーラも近づく。それだけでなく腰を折ってよく観察しようとする。
「両陛下たちも何を考えておられるのか、兵たちも自分たちが戦った相手のことを認識しないはずがないではないか」
もちろん、少女は彼らを批判したわけではない。自分たちを監視する坊主たちを暗に指弾しているのだけだ。
死体を見ているうちに生きている化け物に会いたくなった。アーイシャに出会った時の感覚が錯覚ではないことを確かめたい。
ここの管理者に向き直ると言った。
「ラインハルト、生ける化け物のところで私を連れていけ、私とマリーにはその権利があるはずだ、否とは言わせないぞ」




