51 ニネベの攻防9
身体が重い。指、一本の動きすらままならない。動くの瞼だけのようだった。だがそれを、唯一、ポーラは残された力を行使する勇気はなかった。マリーの顔を見る、そうチラ見ですら企図しただけで怖くてたまらなくなる。意識を失う前に笑おうとした気力は彼女の強烈な瘴気の前にとん挫どころか完全に雲散霧消してしまった。
マリーの手が胸を貫いている。
いや、彼女の手が自分の心臓に成り代わってしまったかのようだ。もはや、彼女なしにはいられない。
ポーラ以外がみれば聖女の微笑にみえるかもしれない。しかし違うのだ。彼女は微笑したまま憤怒の表情を浮かべている。そして視線を合わせることを強要している。
「公爵閣下、お眼を外されては困ります。治療に差し障りがございます」
治療属性の専門書の何処にもそんな記述はみたことがない。患者に接するときには、特に戦いというこの世界で最も気高い行為によって負傷された方には至誠を以て治療に当たること、ただその一文が脳裏に刻み込まれている。確かに周囲の目には、名高いサンジュスト伯爵の施術にみえることだろう。治療属性の鑑と映るに違いない。じじつ、若い属性たちが憧れの目つきで恋人をみている。ポーラは思わずにはいられない、よかったら、そなたに代わってもらえないかしら?そんなことを思うだけで八つ裂きに会うような気がする。いまや、少女の生殺与奪は彼女の華奢な手に握られているのだ。
身体の生殺与奪は当然である。
それだけでなく心においても同様なのだ。身体が回復しつつある今、そちらの方がより恐ろしい。
被害妄想かもしれないが、この場にいる誰しもから非難を受けているような気がする。目下のところ最高の治療属性から施術を受けているのだ。それも至誠という言葉に恥じぬ素晴らしい態度で、だ。それを迷惑がるなどと何とも贅沢なことか。
マリーの微笑は続いている。しかしそのじつ、触れたら沸騰してしまう水のように情緒不安定だ。
若い治療属性たちはマリーの一挙手一投足に釘付けだ。呼吸の一つ一つを聞き逃がすまいと瘴気を垂れ流している。しかし彼女はまだ17歳なのだ。その事実を知らないわけでもあるまい。
無駄な思考を脳裏に躍らせたくない。視線からマリーに見破られてしまう。それが恐ろしい。しかしここでわざとほかの女を脳裏に過らせたところで、マリーはわざと苦痛を恋人にもたらすことはしない。
アーイシャなる化け物と相対したときのことを思い出す。
思い出すと言っても、つい先ほどのことなのだ。わけのわからないことを言い残して消えたが、いまや何処で何をしているのか?
「公爵閣下、ポーラ、お気をたしかに」
視線を逸らすなという再三のご命令だ。
治療属性の仕事となれば恐ろしいほどに冷静沈着なのだ。もしも完全なる回復のために片腕を切り落とさなければならない、となれば患者がポーラであっても表情を全く変えることなく実行することだろう。が、周囲に注意は向いていないようだ、もしかしたら世界には自分とポーラしかいないと思っているのではなかろうか。
「伯爵閣下、いかに閣下といえど公爵閣下を呼び捨てになさるなどと・・・」
そういう言葉が誰かの口から迸ったと思う。言葉はすでに個性を失い、単なる記号とンり果ててしまったので、発言者にかんしていえば性別や年齢すらわからない、もっとも追求する気すらないが・・。
背後で誰かがマリーとポーラの関係を説明している。そいつはわかるはずだが、ポーラにとってはどうやらどうでもいいらしい。瘴気から識別できるはずだが、理性がそんなことは無意味だと告げている。
「僭越ですが、申し上げます。公爵閣下は既に死神に嫌われたようにございます、あちらにやんごとなきお方がケガをされております・・・」
それに対してはマリーも返事をしないわけにはいかなかった。
「こちらも僭越ですが、そのやんごとなきお方が100人ほど集まったとしても、公爵閣下おひとりに叶いません。私が治療申し上げているのそれほどやんごとなきお方なのです」
もはや激情を隠しおおせられなくなったようだ。微笑は消えて、いつしか真顔になっていた。とはいえ激情を露わにするわけではない。
いま、彼女は全身でもって抗議をしたいようだが、それを露わにできないことから排水の経路を模索しているようだ。
だが何かを言おうにも口を動かすことすらままならない。先ほど、誰かがポーラの容態を保証してくれたが、じっさいは呼吸を維持するのがやっとなのだ。視界が真っ青だ。よほど血を吐いたにちがいない。意識を喪失していたときのことはよく覚えていない・・・・、・・いないはずだ。あんなことを憶えていていてはたまらない。心が崩壊する。
うん?!
アーイシャ?
やけに響きのいい名前がさいしょから印象的だった。化け物に付けるには過ぎる名前だ。ミカエルとか、ウリエルとか汚らしい名前こそ本来ならば相応しいはずだ。
そいつが唇をポーラのそれに重ねてきたのである。
妄想だ。妄想に違いない。妄想でなければならない。
生まれてはじめて唇に接吻を受けた。しかも舌が喉にまで侵入してきて、少女はそれをろくに拒否すらしなかったのだ。
額への接吻ならば幼いころに両親から受けた。しかし唇となれば話はべつだ。相手がマリーならば、それはポーラが主体となって客体たる彼女の唇をこじ開けて舌を侵入させるのだ。そして一つの身体を二つの魂が共有する。
けっして、少女が客体になること、立場が逆になるなどとありうるはずがない。
腹が立つというか違和感を禁じ得ないのは、あの行為を甘美だと受け止めていたからだ。されたことよりもあれ自体の方が許せない。
勝者は敗者に何をやってもいい。それはこの世で最も神聖な行為たる戦いの結果なればこそだ。が、それ以前にあれは人間ではない。
アーイシャのイメージが脳裏をよぎる。
それと同時にマリーの表情がさらに硬くなった。
もしもマリーが誰かにそんなことをしたら絶対に許せないだろう。この世にあるマリー以外のものを焼き尽くすことを企図するに決まっている。
そうすることで彼女に怒りの感情を存分に見せつけてやるのだ。
それにしてもわけのわからないことを言っていた。さすがは黒い化け物だ。まさか赤はありえないが、黄色や白い血が身体を巡っているにちがいない。
あれは言ったのだ、母となるにはまだふさわしくない、子供だと。
あまりにもバカバカしくて話にもならない。
しかし自分が子供を産むだと、母親になるだと?ばかばかしいと唾棄するわけではない、わけではないのだが・・・、母親のことを思い出した。
たしかいつものように母と口論をしていたような気がする。どういう話の展開か、出産のことになったのだ。ポーラは、とうぜん、母がこんな風に娘を罵ると予想した。
「閣下が母親になられるなどとありえません、それは閣下ご本人が誰よりもお分かりのことでしょう?」
それを言ったのは、アデライードではなく伯母の一人だったと記憶している。とたんに、母は伯母の名前を呼ぶと魔法で彼女の頬をはたいたのだ。
素手で叩く(はたく)ことすら憚られるというのに呪文を唱える、しかも同じ血族に対して魔法の杖を向ける、公式の場でそのようなことを行うなどと常識ではありえない。ポーラも、その伯母も唖然として口をきけなかった。母親以上に女性趣味を押し出して、本人や娘たちにも強引に推し進めていた。
だからアデライードの態度はわからなかった。
「気分が悪い、失礼する」
そう言って母は姿を消した。
どうしてその時のことが思い出されるのか。アーイシャと母が重なる。母にあんなことをされるなどと空恐ろしくたまらない。
マリーは恋人の心情を見抜いていた。
「姉・・・ポーラ、母上さまが来られましたか?私は感じませんが?」
ロペスピエール太后アデライードは音に聞こえた魔法の使い手である。信じたくもないし認めたくもないが色々な方面において多くの人間の尊敬を集めている・・・多くの人間を騙して欺いている、ポーラに言わせればそうなる。戦争という世界で最も価値のある濃ゆいに才能を傾けずに浪費するだけの人だ。
母親のことを考えると許せないことばかりだが、その中で最も認めたくないのが女性趣味の喧伝だ。しかしエイラート奪還軍によってその空気というか潮流は収まりつつある。少なくとも少女はそう信じたい。
騙された連中はここにも多い。マリーの言葉によって偽りの尊崇の念を喚起されたらしい。口々に太后の名前を口にして、いかに彼女が美しく聡明なのかを詩にし始めた。鬱陶しいたらありゃしない。三十代、四十代にとってみればまさに垂涎の的なのだろう。本人の想像以上に女性趣味の象徴たる存在になりつつある。それは戦場に影響を与えつつあるのだ。才能ある女性竜騎士や魔法の使い手たちが剣や杖を持つことをためらいつつある。
ナント王の周囲を固める女たちの多くがそういう連中なのだ。何とも嘆かわしい。
エイラート奪還軍がこの時期に始まったことは、不幸中の幸せというべきだろう。女性趣味という悪疫が蔓延する以前ゆえにこれほどの軍勢が揃ったのだ。
肉体の苦痛はひどい。マリーに対する申し訳なさから情動の爆発もこれまでになかったほどだ。
しかしそれとは真逆に頭脳は明晰になっていく。ほぼパラレルに進行していく。人格が分裂しているのか。しかし狂ってしまったわけではない。理性と感情を統括する何者か存在する。軍隊を想像すれば容易にわかることだ。指揮命令系統が存在しない軍隊など、いくら強力な竜騎士や魔法の使い手を擁していたとしても物の数ではない。
今回のルバイヤートたちをみていれば子供にも明らかだろう。
バカなことを・・私は舌打ちする。彼奴らが人間なものか。褐色の肌や異様な風体を思い出して強いて貶めようと意識する。しかしアーイシャが思い浮かぶ。今回は接吻されたことの怒りは遠のいている。彼女の唾液が喉に注ぎこまれる。柑橘系の刺激が黄金の剣とやって身体を貫いた。
それが少女を刮目させた。
マリーの怒鳴り声が耳を打つ。
「あね、ポーラ、ロペスピエール公爵!!まだ身体を起してはなりません!!!」
ポーラは口を押えていた。
恋人は自分の胸を摑みつつ猛禽のように睨みつけてくる。
「ポーラ!アナタがは私の目を直視できますか?いったい、何事があったのですか?それ以前に!!あなたはこの世で私がもっとも大切にしているものを壊そうとなさったのです、おわかりですか?いえ、おわかりになっておられません・・奪還軍が終わるまで寝ていていただきます」
ポーラは恋人の言葉に色めきだった。なんとなれば、今現在ならば彼女は自分にそれを実行することが可能だからだ。
「待て、マリー!!そこな、諸侯たち、ルイ、手を貸してくれ・・」
やおら勢いを増した彼の瘴気にすがろうと考えたが、それよりも先にやるべきことがある。
「マリー、アーイシャに接吻された・・・あれは私が望んだことではない、いわば強姦されたも同様だ・・・・わかった、わかったからやめよ」
諸侯たちの瘴気が飽和状態になって空間が爆発しそうだ。それより前に窒息するか。育ちからか人から注目されることは願ってもないことだが、こんなかたちで好奇の視線に晒されるのはご免こうむりたい。
マリーはそれをわかっていて、恋人を罰したいのか。
彼女は泣いて迫ってくる。
「そのアーイシャとは何者なのですか?私たちをつけ習う影ですね」
「人間なものか・・・・」
「その人間ではない、何者かに?あなたは賤民に強姦されたとで仰るのですか?」
これは人間に対する侮辱であり、いくらポーラがマリーにたいして引け目があるとはいえ、聞き逃すわけにはいかない言質だ。
だが逆にいえば恋人にそんなことを言わせてしまったことになる。その事実が少女を苦しめる。
「悪かった。私はあの瞬間に確かに恐怖と憎しみ以外の何かをかんじていた。わかった、今度出会ったら、必ず殺す・・・それでいいな、マリー。だからそれまでに私の身体を元に戻してほしい」
恋人の瘴気が緩まった。しかし気が抜けない。彼女はいつでもポーラの魂を彼女の肉体の中に監禁することができる。それを解けるのは母親、アデライード太后ぐらいのものだ。
マリーは言った。
「私が怒っているのはそんなことではありません、それは嘘です。だけど、それはこれから私の好きなようにすればいいだけのことです、姉上さまが痛い思いをすれば癒される・・そうではなく、姉上さまがご自分の大切な生命を足蹴になさったことが許せないのです」
事情を知らない人間が聴いたら、きっと発言者は狂っていると確信するにちがいない。いや、知っていたとしてもおかしい。しかしマリーはすべてわかっていて、あえてぶつけてくるのだ。
ようやく彼女の手が胸から離れた。華奢で可憐な手が竜の頭ほどの大きさにも思えたから、いざ離脱するとなるとその大きさに気づく。深いところで彼女に支えられていたのだ。しかしここで揺らいでしまえば、もういちど摑まれてしまう。両足に必死に力を入れる。




