ニネベの攻防8
それにしても本当に心地よい瘴気だ。今現在、戦闘中でありポーラを圧倒している敵が発しているというのに、何故か深刻になれない。その理由は那辺にあるのか。化け物は、個体の水によって我を絡めとりつつある。かつてこれほどの使い手に出会ったことがない。あえて挙げるならば、いや、この至福の時間にあの人の名前を挙げたくない。あの人の横顔が脳裏に浮かんでしまうからだ。それは避けたい。
いま、少女はとてもいい気分を満喫している。願わくばこの状況が永遠に続くとよい。驚嘆すべき事実に気づいた。化け物という主語を据えておきながら、それを使い手を評した。一方で人間と認めていたのである。
もうじき、死ぬのだからそんなことはどうでよしとすべきか。
そうではあるまい。最後の審判にそなえて床に就くというのならば、いい夢をみんがために現世はできるだけよい行動を採らねばならない。それは聖伝に準拠した生活のことだ。
いま、もしかしたら・・・いやもしかしたらではない。かなり確実に戦う相手を人間と認めるだけでなく褒めたたえている。これはかなりまずいことではないのか。
最後の審判は怖ろしい。
しかしながら、この蕩けてしまいしまいそうな甘美な水に少女は理性を失いつつあった。
水とはこれほどまでに心地よいものであったか。世界の外は砂漠がえんえんと続くというイメージが少女のなかにあった。当時、エウロペにおいては対ルバイヤートにかんしてもっとも知識的に進んでいた彼女であってこの段階にすぎない。
偏見と言ってしまえばそれまでだが、これでも略奪関係者からの乏しい知識が咲かせた花であった。まだポーラにはそれを徒花だと評価する目すら獲得していない。
魔法は大別して四大元素に分かれる。火、土、水、風である。
ポーラは典型的な火の使い手である。彼女の右に出るものは世界にはいないとされるし、本人もそのつもりだ。
が、魔法の属性が火だからといって、必ずしも幼いころから水を怖がるわけではない。確かに青い血が濃ければ濃いほどにその傾向は強い。
しかしあっけらかんとして水浴びに興じるポーラを目の当たりにして、アデライードは素直に喜ぶどころか恐怖すら否定できなかったものである。
そのときの母親の微妙な表情の変化に幼いポーラが気づくはずがない。当時は公爵夫人だった太妃がそう高をくくっていた。しかしそれが誤りだとだんだんと気づかされる。
ポーラの脳裏に当時の母親の表情が姿を見せる。声をかけてくるが、どこかおかしい。これほど高い声だっただろうか。ここに母親がいるはずがない。理性が健常ならばきっとそう忠告したはずである。しかしそうできなかった結果、妄想は無限に膨らんでいく。声の高さなどいくらでも補正がきく。
記憶に合わせて映像も調整されるはずだった。しかしそうはならなかった。
浅黒い肌が目に飛び込んできたからである。それは人間の肌を構成する色ではない。そして太妃は金髪だ。認めたくはないが見事な光を放っていた。
それが漆黒の黒に変化している。
面差しは…、はるかに若い。
それにしても不思議な情景だ。人の顔をみるとき、顔、目鼻立ち、あるいは目や肌の色、それに艶などは当たり前のことだが同時に現れる。しかしいま、ポーラの眼前で起こっていることはそれらの要素が1つづつ立ち代り現れるのだ。
これはどこかで見た光景だ。そう、肉体と魂が分割したときに彼女が体験した世界だ。あのときは人間以外のものが人間のように感じた。それとも何処か、なにかが違う。
声は少女に纏わり付いているが、意味を為していない。というより彼女が摑みきれないのか。
人の声だとわかるのに意味がわからない。それは荷重なストレスになって襲いかかる。やがては押し潰してしまうにちがいない。
そう思ったときに始めてわかった。
「また会ったわね、ロベスビエールの公爵とやら。私たちには公爵に当たる貴族位は存在しないのよ。私たちからすれば、主が身分を決定するなどという考え方自体が理解できないわ、なんて傲慢なのかしら?」
流暢なケントゥリア語だった。
「ニネベ太守の妻、たしかアーイシャとか…主だと?化け物のくせして・・・」
そのやけに、そして無駄に美しい響きが記憶に焼き付いている。あのときはいっさいの瘴気を絶っていたということか。それもそのはず肉体は帯同していなかったのだから、当然といえば当然だ。ちょっと待て瘴気とは肉体が発するものなのか。ドリアーヌがいれば質問しているところだ。彼女は働き過ぎたのか、調子がいまいちなのか、船で休ませている。しかしポーラに危険が及ぶとなればいつ飛んでくるのかわかからない。
まさか、この至福の水は彼女が用意したものなのか。
ドリアーヌが応えてしかるべき質問の解答は、頼みもしないのに黒髪の化け物からもたらされた。
「主とあなたたちの言葉に翻訳しているだけよ、お嬢ちゃん。正しくはカルテンロンよ」
「何をわけのわからないことを言っているのか?主は主だ。そのような雑音でわが主を語られてなるものか!」
さすがにポーラは至福を忘れて純粋な怒りに目覚めた。侮辱された怒りであるが、この世で最も大切なものにされた感情とはまた違う。
この化け物はわけのわからない理屈を続ける。
「それはあなたの主でしょ?私が言っているのはカルテンロン、あえて翻訳したのよ、まったく別でしょ?」
自分が理解できないことを簡単に解かれる。それほど腹が立つことはない。しかも彼女の説明は少女の知性では全く歯が立たない。
「あなたは何を言っているのか?」
「あら、化け物に対してあなた?そんな文法はケントゥリア語にはなかったはずだけど?」
我が主という言い方について、少女は自分の主という字義通りの言い方しか知らなかった。しかし字義通りというならば別の用法も可能なのだ。
他者、この場合はアーイシャならば彼女たちにとっての「我が主」があってもいい。
「そんなバカな、そんなことはありえない・・・」
しかしだんだんと周囲が見えてくる。アイーシャがどんな衣装を着てここにやってきているのか。
彼女の身体はここにはない。
男の身体に入り込んでいるのだ、ちょうど、ドリアーヌがバブーフを乗っ取ったことと同様に・・・・・。
しかしやり方において決定的に何かが違うような気がした。いや方法には変わりはない。が、違和感は禁じ得ない。それは何だろう?
アーイシャの方から教授を始めた。
お嬢ちゃんは、この瘴気が私のものだと勘違いしているようね。違うのよ、私、個人の瘴気は極力、抑えている」
「・・・・・・?」
「そう、こちらではあなたたちのようには行かないのよ。で、質問だけどこれまでの戦場となにか決定的な違いはなかった?」
「男たちの顔だわね、よほど自信がないのか、真っ黒な毛でごまかしていた…男たち…。そう女がいなかったわ」
「ご明察。こちらでは女が戦場に出るのは罷りならない。だからこういう姑息な手段が発達したわけ。あなたたちの世界にも同類がいるとはおもっていなかったわ」
さすがに彼女の口からその語が迸ると違和感を禁じ得ない。
「同類?ドリアーヌを化け物と一緒にしないでちょうだい」
「化物とはご大層な言われようね、ま、あなたたちの思想がそうさせるのだから、しょうがないといえばしょうがいないけど、あなたには期待したんだけど…私を幻滅させる気かしら?」
思想とは何事か?化物は何を言っているの?
「ポーラ、あなたは何も知らないのね」
「化物に、そんな風に…」
耳の中に声が入ってきた。それはまるで肉体と分離した魂であるかのように意思を備えているかのようだった。
意識が薄れていく。残りの力を振り絞って言葉を発した。
「ば、化物に言っても通じないだろうけど、名誉は戦いにおいてなによりも重んじられなけれならない…私を殺しなさい…」
あっさりと返事があった。
「殺さないわ」
耳の中で声が言ったのだ。
「わ、私から離れてちょうだい」
「可愛い子…人の親になるにはまだまだどころか、まったく幼すぎるわ」
何をわけのわからないことを言っているのだろう。
きがつくと空を纏っていた。
「リ、リシュリュー!!」
そうだ、自分は竜に乗っていたのだ。それにしてもリシュリューにまったく気づかれずにやってきたというのか。しかし肉体から分離してきたわけではない。
耳の底に会話が残っていた。
一方はあの化物、アーイシャ、そして今一人は、男だ。こいつだ。彼女の瘴気だと思っていたのは彼のものだ。
「早く撤退なさい。そなたの命が危ぶまれる」
「しかし奥様…ここで生かしておいては将来の禍根になるかと、これほどの火の使い手を私は知りません。お方さまの水をはねのけるなどと…」
「よいから、撤退しなさい。それがままならないならば降伏を命じます、バットゥータ。太守さまもそれをお望みです…」
不思議な体験だった。まるで二人の人間が耳の中にいて会話しているようだ。いや、人間だと?化物の間違えだろう。しかし今でもアーイシャは耳の近くにいるようだ。思想という言葉がやけに際立って迫ってくる。意味のわからない言葉だ。化物しか知らない戦術のひとつか。
それにしても…。
視界が拓けてきた。いままでよほど制限されていたらしい。あの化物のせいだ。
どういう経緯でここまでやってきたのか、どういう風景が立ち現れ、そして消えたのか。源泉の中心はここではない。それを占領するための橋頭堡として選択したのがここだった。あの化物に出会う前にマリーと別れられたのは不幸中の幸いだった。
あの女は姿を消した。身体にまとわりつく固体の水も消えつつある。
そういう認識が、思えば油断を呼んだのかもしれない。
急に強大な瘴気が鼻孔を刺激した。花を触りたい。強烈な衝動に駆られたが両手が動かない。疲労が極みに達しているのだ。
これがアーイシャとやらの瘴気だ。
そう認識した瞬間に彼女の唇が少女の口のなかに侵入してきた。まるで猫の舌のようにトゲだらけになっている。口の中が血で真っ青になっているのではないか。
それは始めての体験だった。初潮を迎えたときの衝撃に何処か似ている。
マリーに対して何度も接吻しておきながら、彼女を抱いておきながら、そうされたことは生涯に一度もなかったのである。
それがいま、起こったのである。
トゲだらけの舌が抜かれたとき、少女は思わず叫んでいた。
「殺してやる・・許さない」
烈火のごとく感情が燃え始めた。
しかし理性は示す。もう戦う余力はない。これ以上、瘴気を燃やせば生命はない。
マリーの声で少女の心の中に響く。
しかしこの体験を彼女に話したらどんな反応を示すだろう。
それを考えるだけで一生分の笑いを確保できるような気がした。
この段階ではあのアイーシャとやらに叶わないのだ。
ポーラは笑おうとした。
何ということだろう。もはや自分をせせら笑うほどの余力もないようだった。




