撤兵、そして・・・・。
ルイは少女の双眸を見据えた。新しく主君になるロベスピエール公爵ポーラ三世に他ならない。
ポーラは少年の視線を受け止めがたい。だから彼女の方から先に視線をずらした。相手がナント王ならば忸怩たる思いに駆られるだけだが、その弟となれば別の感慨がある。
宴会が終わって、翌朝となり。それぞれの領地に引き取るという段になって少女は王に言わないわけにはいかなくなった。冷静になってみると、モンタニアール家の人間を本当にアラスの城門を潜らせるのか、そのことがあまりにリアリティがないことに気づいたのだ。
太陽が東の空から金色の顔を覗かせている。ここにいるほとんどすべてがそれが黄昏にしかみえない。どうやら無意味なまでに晴天な春の一日になりそうだ。軍勢を従えてアラスの城門を潜ったときにも、今朝のような空を見せていた。空は美しく透明さは何処までも保証されているように見えた。そのときは天が世界の誰よりも彼女を賞賛しているように思えたのである。まさに勝利を確信したのだ。だが、同じ空は、視覚的には同じようなのだが自分を何処までも拒絶している。空はあんなに高く遠方にある。出立するときはすぐ手が届くところに空があったはずなのだ。
その理由はルイ殿下のことだけではない。城で彼女を待ち受けている母親の顔が浮かぶと思わず気鬱にもなる。マリーに顔を見られることを恐れた。彼女はすぐに洞察してしまうだろう。
竜騎士が地上を行く騎士たちを守るように空を巡航する。そして彼らの戦いをサポートする従者たちの群れが続く。
西、王都ナルヴォンヌを伺うのがナント王軍であり、北東を同じように向いているのは公爵家の軍隊である。これでは戦争どころではない。ことここに至ってもポーラは武人だった。
しかしながらすべては終わったのだ、終わってしまったのだ。次はない。なんということか、出立してからこのことは全く脳裏に浮かばなかった。おそらくは戦いを好む彼女の青い血が嫌なことを忘れさせてくれたのだろう。しかしそれも終わってしまった。とたんに彼女は鏡を見ることを恐れた。水面すら忌避するほどだ。きっとあのことを思い出してしまう。
母親の声が再生される。
「今回が最後だと約束なさい。でないと、私は法令を発動させます」
地平線まで続くかと思われるほどに軍列は伸びている。まさに長蛇と呼ぶべきだ。これでは互いに干戈を交える気がないことはだれの目にも明白だろう。兵站といった、いわば両者ともにもっとも無防備な部分があらわなのだ。しかしながら互いの惣領が対峙している。二人とも一流の竜騎士と魔法の使い手だ。事と次第によっては何が起こってもおかしくない。両軍とも二人の瘴気に神経をとがらせている。
ポーラの瘴気にごくわずかだが変化が起こった。将兵の多くが耳を尖らせた。
「陛下、本当によろしいのでしょうか?殿下を引き取っても」
王はそっけなく答えた、それもこちらを見ようともせずにだ。
「そなたには襁褓を直してもらう大人が一人では足りないようだ」
「はて、前提たる一人とは果たしてだれのことでしょう?」
きっと王は少女の反応を予期していたのだろうが、最初から応えるつもりなぞなかったに決まっている。無言を押し通した。
背後でマリーが笑っているような気がしたが無視をすることにした。きっと錯覚にすぎぬ。
王は話題を変えた。というよりかは元に戻した。
「さっさと領地に戻ったらどうだ?竜が呼んでいるぞ」
確かに竜が主人を求めて鳴いている。
「我が竜、リシュリューはナルヴォンヌに厩舎を欲しがっておるようです。私は竜語が堪能でしてね」
「なら、本当は竜になったらどうか、いや、竜なのか?幼女だと思ったら竜だとは。さしずめ永遠に成長できない幼獣のままで止まっているのだろう。そこに四つん這いになるがいい。余が飼ってやろう。とうてい戦には使えぬようだから愛玩用か、いやそれには何ともかわいげがないなー」
「飼い主を食い殺す狂竜かもしれませんぞ?陛下」
マリーはわざと口を開けて尖った犬歯を見せびらかしてみせる。
「公爵どのとは思えない振る舞いだな。先代オーギュスト殿が天から嘆いておられるのが目に見えるようだ」
「あいにくと父は最後の審判を控えて寝ているので私を見下ろすことができかねます」
「ほう、それはよかった。そなたは最後の審判を受けるまでもなく地獄行きが決まっているから、先代殿も目に毒であられよう」
二人のやりとりを互いの家臣たちはおびえながら見つめている。これまで何度も干戈を交えあってきた間柄だが、長広舌という点においては二人は酷似している。微笑まで浮かべているが、毒を含んだ言葉の数々がそれぞれに剣と杖を押し隠していることが明確なだけに、予想もしないことが起きるかのようで気が気ではないのだ。舌戦が舌戦だけで済まない様相を呈しているようにしか見えないのだろう。
最初はポーラが声に魔法を乗せた。それは地平線まで届く。ナント王の家臣たちが驚いたのは、主君までもがそれに応じたことだ。竜騎士と魔法の使い手の能力の源泉は同一である。よって王ほどの竜騎士ならばこの程度のことならば、赤子の手をひねるよりも簡単なことだ。そのことよりもはるかに19歳の少女と同じ土俵に立ったことが意外だったのだ。
「あれでは、陛下の仰る、幼女と五十歩百歩でしょうに・・・・」
家臣も一人が首をひねった。ポーラの家臣にドゴールがいるようにナント王にも老兵はいる。彼からすればピエール二世など孫のようなもので、ポーラと年齢的にさほど差異はないのだ。
ベルグソン伯爵は何を思ったのか竜首を巡らすと地上に降下した。軍列全体が怯えている。この戦いを和睦させたのは何と言っても天使さまなのだ。子供の戯言で元の木阿弥にされたら溜まったものではない。伯爵は公爵の軍列にある人物の瘴気を見出すとそちらに向かう。
ドゴールのところだ。互いに先代から干戈を交えてきた相手だ。為人のことはわかっている。敵に回せば手ごわいが目的を共有できれば彼以上によい相手を見つけられない。それに、若いながらにサンジュスト伯爵マリーは話しが通じるだろう。幸い、彼女は夫婦のように公爵の傍らに侍している。
少し離れたところでドゴールは静観していた。
「少し、楽観視しすぎではないか?ドゴール伯?」
「いやあ、ベルグゾン伯、陛下はすでに大人であろうし、こちらには何と言ってもサンジュスト伯という心強い味方がいるものでね」
「それにルイ殿下もおられる。殿下は17歳になられたばかりだ」
長く干戈を交えあってきたとはいえ、このように平和な状態で語らいあう機会は少ない。しかしながらまるで同じ主君に仕えているかのように、出会えば自然と会話が流れ始めた。
彼もまた、あの少女に期待しているらしい。
「あの子は、公爵閣下とそれほど年齢は変わらないのではないか?」
「17だよ、こうしてみているとどちらが年上かわからないが、姉妹のように育ってきたので、互いに気ごころが知れている。ここは若い人たちに任せようではないか。わしはどうやら次の戦が最後になりそうだ」
「エイラートのことか?わしは異世界に屍を晒しそうだ」
「それは同感だが、まさかそなたと同じ軍列で青い血を流すことになりかねないとは不思議な気分だ」
互いの宿将が腹を割って語り合っている。この光景は両軍に関係なく一定の安心感を会えた。
自分の肩に許容量以上の耐久性を求められている。マリーはどうしてだか、そんな思いに駆られていた。姉上さまは感情が先だっている。天使さまのこともあるので大丈夫だとは思うが、背後からみていてさすがに不安を覚えずにはいられなかった。
「姉上さま、早く戻りましょう。新たな戦の用意が待っております」
いくらマリーが従姉を姉と呼び主の怒りを買うようなことをしても、だれも咎めたてをすることはない。彼らが考えているのは、すぐに二人の口論が終わることでしかないからだ。
誰かが要らぬ嘴を出した。
「殿様、早よう帰国しましょう、お方様が待ちくたびれております・・ぁ」
家臣の一人が失言をして顔を青くした。慌てて取り繕うとしたが、本人の代わりにものすごい形相でマリーが睨みつけた。
これ以上、無意味に舌を動かずな、ということだとわかった家臣は軍列の後方に下がった。幼いころからアラスの宮廷で育ったマリーはロベスピエール家の内情に詳しい。というよりは肌で知っている。何と言っても迂闊な家臣が言うところのお方様、ポーラの実母を内々という限定だが「母上さま」と呼ぶことを許されているのだ。
そしてその人物のことポーラの前で出すのはタブーである。
マリーは姉の気分を変えるためには一つの方法しかないと思い切った発言を披露した。
「別れ際ですが、ところでバブーフ男爵はどうなったのですか?陛下」
王の眉間にしわが入った。ここでその話題を出すのか、という無言の非難を17歳の少女は無視した。
王側の家臣たちはどよめいた。せっかく事がいい方向に進もうとしていたところである。いらぬ波風を立てるサンジュスト伯爵とは何者か、と言いたげである。ふたたび、公爵を姉と呼んだ、主を畏れない言動を非難してもいいところだ。
これはどうしたことだと、二人の老将たちは互いの目を見合った。さすがに若すぎるということか。これでは油を火に注ぐようなものではないか。が、両者の瞳に讃える色は微妙に違った。
アラス宮廷の内情を知らぬ者は、マリーを責め立てたいと思ったにちがいない。
「いや、違うぞ、ベルグゾン伯爵、あれは苦肉の策でござる」
母上さまに匹敵するのは、あの男爵しかいない。むろん、比較するのは無理筋だということはわかっている。賢明な少女は姉の前で自分の考えを披露することはありえない。
ところが、そんなものを知るはずもないナント王は少女の内面に変化を見た。それは一瞬にすぎなかったが、ちょうど鎧と鎧の間が攻撃すべき対象であるように、ポーラが見せた弱点に思えた。しかしいま、王は彼女を攻撃しようなどと毛のほども感じていない。
「バブーフと契約を結んでいたわけではないのだろう。それは余も同様だ」
王の言葉は短かったが、この時代に生きる人間の常識を端的に表している。それが公爵にわからないはずがない。もしも男爵がポーラと主従の契約を結んでいれば、彼のやったことは自殺行為に等しいし、彼と彼の親族は永遠に世界から否定されたに等しくもある。世俗から破門を受けたことと同義である。だがそうではない。いわば口約束にすぎない。たしかにある程度の利潤の取得を彼に約束したし、ある程度は与えてきた。だからこそ、彼が反旗を翻したことに地団駄を踏んだのだ。また、男爵が王と契約を結んでいればそもそも彼に期待することはなかった。
「男爵に何を与えた?あるいは約束したのか?」
「まさか、それに私が答えるほど甘いとも思っておりますまいに」
彼に与えるという示唆をしたのは、もしくは、すでに幾分かは付与したのはルバイヤートに纏わる略奪の権利である。
これはまずい。直ちに彼を討伐しなけば、どんな理由をでっちあげても社会から排除せねばならない。エイラート奪還のための軍隊が出立する前に何とかせねばならない。
しかしそれはいつのことになるのか。
現実的には来年だろう。未知の土地に打って出るのだ。略奪という名目の交易を通して彼女は少しばかりバケモノたちのことに知悉している。しかしそのレベルでさえが例外中の例外なのだ。主は、バケモノとの交流などもってのほかという態度であられる。
ポーラはナント王の黒い目を見た。自分は悪魔に何を求めるのか。
「ならば、陛下、虫けらと新規契約はありえますまいな」
新規とは、かつて契約を結んだことがあるということを暗示する。王は黙って少女の目を見返した。
「・・・・・」
君主なれば、個人と国家とは別ものだと考えるのは当然のことである。個人的な感情や考えを無制限に国政に援用するなど、暗愚としか言いようがないではないか。
いま、公爵は王の真意を見透かした。というよりは意識的に正気を使ってメッセージを送ったのだろう。
だが、「これでわかれ」というのだ。
「陛下は本当に悪魔ですね、エイラート奪還したのちに交えましょう、干戈を・・」
自然と微笑が浮かんでくる。少女は、しかし気づいていないのだ。ナント王の中に自分が求めてきたものが隠されている。そもそも自尊心が高い少女はそういう欲求が自己の中にあること自体を認めたくない。
が、背後にあるマリーは違う。あえて王に言わねばならない。
「陛下、姉を甘く見るとやけどではすみませんぞ」
「心得ておこう、サンジュスト伯爵殿、できればそなたと契約を結びたいものだ。そうなれば、百人力だ」
「な、陛下、それはどういう意味で?」
「あいにくと、公爵家と伯爵家は契約など結んでおりません。王号戦争以来、両家は永遠の友諠で結ばれております」
「王号戦争?伯爵殿は吟遊詩人がお好きなようだ。我が王家はよい詩人を抱え込んでいる。さぞかしあなたの心を満足させることだろう。どうせならば今宵、契約を結びませんか?」
王号戦争とは、500年もの長きに渡って繰り広げられている戦争の端緒である。ポーラ一世はナント伯爵ユーグ・カペーが当時のミラノ教皇によって王号を叙任されたことを認めなかった。そして伝説の王家モンタニアール家を襲名するなど、とうてい受忍できるはずもなかった。因みにモンタニアールの人間にカペー家の名前を口走ることはそれだけで宣戦布告を意味する。それはポーラでさえが慎むほどだ。
それが長き戦いの端を発した事実なのだが、ナント王の側ではそもそも王号ははるか昔から認められたもので、教皇による叙任はあくまでも追認にすぎないという立場であり、王号戦争などという名称そのものを認めていない。
そういう経緯にポーラが明るくないはずがない。王が失笑した理由はわかる。だがロベスピエール公爵として了解することなどありえない。しかし今はそのことよりも他に問題とすべき項目がありそうだ。
その点において、二人は危機意識を共有している。
ルイは兄に近づこうとしない。それを見たポーラはすこし安心した顔をした。
「では、陛下、一年後にモーパッサンにて・・・・」
大規模な軍隊を押し出す港といえば南にあるその都市しか思い浮かばなかった。
ところが、王はとんでもないことを言い出したのだ。
「天使さまから申し渡されていないのか、一か月後だ、モーパッサンにて再会するのは・・」