ニネベの攻防5
ドリアーヌが単体でやってきたこと自体がポーラにある事実を告げていた。単体とは魂だけ、というほどの意味だ。叙述に面倒くさくなった少女が端折ったのだ。しかしマリーには視えないのだろう。
苦しい胸の下で、ポーラはマリーに配慮する方法を知らない。余って、事の真相を彼女は察してしまったのである。
彼女の華奢な手はなおも自分の胸の上にある。
恋人は全く動じずに言った。
「ドリアーヌが来ているのですね、ポーラの様子からわかります」
姉上と呼ばない。まだ完全に目を開けるほど回復しているわけではない。だから薄目を開けて彼女に応じる。想像よりも安定しているようだ。事、妹のことになると彼女は神経が過敏になる。
治療のおかげで、否、そのせいで口をきけるようになったポーラは言った。
「二人とも、私は思うのだが、彼奴はいつでも私を害せるのではないか?それをしないのはその価値がないか、別の目的があるかだろう」
「ポーラ、それ以上はしゃべらないで・・・・」
太陽光が天頂から降ってくる。それは人々の会話を含んでいる。声なのか光なのか、少女のなかで曖昧になりつつある。治療がいつになく心地よいせいだ。まるで魂が在肉体のまま宙に浮くような気分だ。
「二人とは、どういうことかしら?おひとりは、当然、マリーさまでしょうが、今一人は・・・・」
「お怪我のせいで譫言を仰せられているのでしょうか」
やおら野太い声が少女を地上に落とした。
「いかに幼女といえど、戦場にて理性を失うことはない。もしもそうならば、すでに我が囚われ人になっていたことだろう」
その言葉の意味するところは、まさか自分を旅立たせるつもりはなかったということか?何気なく発した言葉だが、それが政治的にどのような意味を持つのか誰も察しないのか。
マリーとドリアーヌは気づくところまで達しているのではないか。あとはルイだ。
いや、今はそれどころではない。彼奴だ。きっとすでにこの近くに忍び寄っている。ドリアーヌに話しかけたいところだが、マリーの嫉妬を招聘するだろう。
ここで彼奴に抵抗しえるとすれば、頭に浮かぶのは一人だけだ。
「陛下の剣さばきは素晴らしゅうございました・・・」
一体、何を言っているのか。
マリーから瘴気が伝わってくる。
全く持って回復が遅れているような気がする。これはマリーの作為だろうか、ならば嫉妬がもたらしているのか。
著しい出血の後に少女は正確な判断を放棄しつつあった。そのことを後に後悔することになる。
マリーを助けたことを後悔するはずがない。この世で最も大切な存在だ。自らの生命の片割れと言っても過言ではない。彼女に何かがあったら自分は生きていけないだろう。エイラート奪還どころではなくなってしまう。
だが、天使さま。
そのことを思い出すだけで少女は思考停止に陥ってしまう。
ラケルさま・・・・。
畏れ多いことだが、アラス城では母親になってくださった。大昔に名乗ってくださったことを昨日のことのように覚えている。
こんなことを考えるだけで灰にされてしまうのではないか。すべて戦争の経過においてだが、城、軍隊、森、どれほど多くのものを少女は灰にしてきたことか。そんな彼女が燃やされることを恐れる。自分の死に方の中で最も恐ろしいと考える。
それは主の教えに帰結するのだろうか。遺体が灰にされてしまえば、最後の審判で復活ができないからだ。
母親の嫌味が脳裏に蘇る。
「ポーラ、もっとも、そなたは灰にならなくても天国に行けるのかわからないわね」
あの時は、娘を名前をまだ読んでいた。きっとなけなしの愛情を使い果たしたのだろう。
・・・・・。
母親の像が姿を変えた。
彼奴だ
これはとても不思議な感覚だ。彼女は顔を分厚い布で覆い隠しているにも関わらず、顔かたちがわかるような気がする。これは視覚ではない。当たり前のことだ。相手は単体なのだ。それが人間の言葉をしゃべった。
「我が名は、アーイシャ、覚えておけ、異国の女公爵よ、ニネベ太守の妻だ」
見事なケントゥリア語だ。
しかし音声ではないはず。心に直接、叩き込んでくる。このメッセージの方法は人間と同じだ。しかしアーイシャとやらは人間ではなく、ルバイヤートなのだ。
目が温かい。
視界に温かい膜ができたのだ。
そうおもったら、ドリアーヌだった。彼女は自分を楯にして我が身を守ろうとしている。しかしおかしなことだ。自分は寝ているはずだ。こうやってマリーの治療を受けているのだ。
自分は立っているのだ。
ドリアーヌが振り返ると同時にアーイシャとやらの声が響いた。
「ほう、ロペスピエールのお嬢ちゃんはこんな術も習得しているのか?大方、こちらから盗用したのだろう」
ポーラはニネベ太守の妻とやらの軽口よりも他のことに気を採られている。
「は、肌が黒い・・黒死病か?!賤民か?いやまさか、そんなはずは・・・いや、しかし、人間の肌が黒いなんてことが・・・バカな・・・」
「なんだと、この小娘・・・まさか我をそこまで洞察しているのか?」
「それはこちらの言いたいことだ。お前は人間ではないのに、どうして言葉が話せる?賤民なのか?しかしそんな魔法が使えることはおかしい。それ以前に賤民に魂があるわけがない・・・」
黒死病とは人間が罹る病気ではない。動物の病気でもない。汚らわしい賤民のみが罹患する。それによって、魂を持たない賤民がいくら死のうとも動物や植物が壊れることと同様で意に介する価値などない。なお人間に役に立つ動物は魂無きものの、有用性ゆえに大事にされる。竜は、まだその扱いが決定されていない。天使さまと同列に扱うべきと主張する学者から、人間と同等、動物と変わらない、あるいは地獄の生物と主張する学派までもが存在する。
因みにポーラは自分の愛竜リシュリューをただ「わが友」とだけ言っている。
浅黒い肌が目の前をいったりきたりする。それは手であったり、足であったり、あるいは胸であったりする。
不思議と手のひらは白いのだな。
自分でもおかしな感慨の仕方をしていた。そんなことはどうでもいいことのはずだ。気が付くと肌の黒さを不快に感じなくなっていた。艶を美しいとすら彼女の無意識は形容し始めていたほどだ。腰を締め付けてくるコルセットのような違和感は拭いようがないのだが、少なくとも見るに堪えないというかんじではない。
アーイシャというキレイな響きがやけに耳に残る。
子供の頃、母親に魔法審査を受けたことを思い出した。幼いころ、戦争に行かない母親は魔法能力が低いのだと思っていたから、真実の片鱗を見せつけられて思わず失禁しそうになった。そのときだ。はじめてこんな言葉を吐いていた。
「母上さまは、どうして戦に行かれないのですか?」
多くの竜騎士や魔法の使い手が死なずに済む。母親を非難する、第一回目にその言葉が迸ったのか、詳細は覚えていない。
それにしてもアーイシャとやらを目の当たりにして、どうしてあのお方のことが脳裏に浮かぶのだろう。
彼女は笑った。猫が小動物を弄ぶ響きがある。
「末恐ろしい子供だな。生かしておくわけにはいかないか・・・」
「黙りなさい、姉上さまに手を出すことは許さないわ」
「ほお、魂が消滅したらどうなるのかわからんぞ、小娘」
「どうせ、私は呪われた身、それならばいっそのこと消えた方がましよ」
ポーラは思わず叫んだ。
「ドリアーヌ、止めないか!!」
とたんに世界が暗転した。自分が寝ているという自覚がいきなり頭に浮かんだ。アーイシャは消えた。ドリアーヌは、彼女は自らの華奢な身体を自分に押し付けてくる。まるで寝具の上で普段、マリーにたいしてやっていることのようだ。
いったい、自分に何事が生じたのか。
危うく隣にいるドリアーヌに直接的に尋ねるところであった。
マリーの自分を気遣う声が耳に入る。
「ポーラ、まだ動かないでください」
彼女の理性は信用してもいいようだ。彼女の手はまだ自分の胸に張り付いている。あたかも生まれたときから彼女の手を介して二人がつながっている。そういったありえない想像が浮かぶ。それを妄想と呼ぶのだろうか。
・・末恐ろしい子供だな。
アーイシャとやらの言葉で、もっともそれが印象的だった。いや、相手は人間ではないのだから、言葉であるはずがない。そして次に記憶に残っているのは映像だった。浅黒い肌は人間のそれではない。この事実は彼女を納得させた。やはりルバイヤートは人間ではないのだ。
忸怩たる思いの原因は何か。
それは彼奴の言葉らしきものに引っ張られたことだ。彼女は自分を殺すつもりなどなかったのだ。瘴気がなかったせいで見抜けなかった。少女はそのことに気づいていない。だだからこそ自分を責めている。
野太い声が少女をまたもや現実に引き戻した。
「幼女、賢人会議を洋上で行うそうだ。そなたは参加するのか、陛下の船だ」
しめた。マリーを連れて行く口実ができた。けっしてナント王の粗野な声のおかげではない。少女の心は、賢人会議という言葉によって激しく動きはじめた。それが理由でもあるまいが、身体の動きも先ほどよりはよくなっている。
少女は立ち上がった。
「しかし完全ではないようです、陛下、マリーも連れていきたいのですが、あちら側に許可を上申していただけますか?」
「ふふ、幼女は私を使い魔扱いするのか?」
ポーラは返事の代わりに精一杯の微笑をつくってみせたが、それは微苦笑にしかみえななかったかもしれない。観衆が驚愕する中、ナント王は立ち上がると皇帝の使いに向かった。
「カールスバート伯、すでに事情は聴かれたと思うが?」
クララは目を見張った。確かハイドリヒ伯爵の従兄弟のはずだ。
「失礼ながら、私のことはご存知と憶測申しあげますが?」
「もちろんです、ヒトラー伯の水属性魔法はこちらにも音に聞こえております・・」
ただし、配下の使い手たちに恵まれませんでしたな・・・と瘴気を押し隠さなかった。クララも、もう少し若ければ違う反応もあったはずだ。嫌味のひとつでも投げかけていたかもしれない。
ポーラは、親戚筋に当たるハイドリヒ伯のことが気になっていたが、あえて彼も質問することはしなかった。奪還軍に参加していることは事実で、いずれ出会えるはずだからだ。クララがいることできっと遠慮しているのだろう。彼らしくない態度ではある。
カールスバートは言った。
「我が主君は、すぐにでも話を始めたいという所存です。賢人会議といえど、観衆の監視中で構わないそうです」
これは微妙だとポーラは思った。常にマリーを参加させる口実になりそうにないからだ。
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