ニネベの攻防1
新たなる刺激がモーパッサンへの思いを過去のものに変えてしまった。ひいていえば、そのことは世界そのものから奪還軍を分かつ結果になるのではないか。みながそれを危惧してやまない。
だれしも目を白黒させて周囲を見回している。が、どちらを向いても水平線しか見えない。海、海、海でしかない。
ポーラだけでなく、諸侯のほとんどが陸地における戦いにしか体験していない。奪還軍において例外といえばナント王だが、水都ナルヴォンヌに住まう彼とて水域における戦闘は未体験なのだ。
戦闘魔法はおおざっぱに分けて、風、火、水、土の4属性に分かれるが、圧倒的に水の使い手が不足している。文法で言うところの冠詞や枕詞のような存在意義が主張されるのみだった。陸地が活躍の大部分だった結果だろう。じっさいに、ポーラが一つの城や町を焼き尽くしたりすれば、確かにそれは誰にもわかりやすい魔法の成果ということができるだろう。しかしそれ以上に儀式を魔法は重要視する。学者先生によれば、火の魔法があれば反対側に位置する水のことを考慮しないわけにはいかない。それが図式通りということらしい。
コンビエーヌ戦役があと一日ほど延長していれば、歴史は変わったかもしれない。が、その時はポーラにしても新境地を味わったはずだ。だが、いくら水属性に優れた素質をもって生まれようが、どれほど努力しようが実戦では使えなければ何もならない。圧倒的に水が不足しているのが世界だ。土、風はどうか?世界中にあふれている。火も同様だ。幼いころのポーラは、どうして世界が火にあふれているのかわからずに「何故?何故?」を繰り返してアデライードを代表する大人たちを困らせたものだ。
世界最大レベルの川の流域にあるナルヴォンヌはどうか。
この土地を支配したカペー家(西家)は、水魔法を育て上げるほどの時間をこの土地で過ごしていない。王位戦争から500年が経過しているが、たったその程度の年月は地に足が付いた魔法を育てるのに十分ではない。大河に湛えられた水をすべて使ったとしても、ポーラが町を焼くのに十分な炎の量の三分の一にも満たない。
ちなみに娘の何故攻撃にどのようにアデライードが報いたか。
「この世はすべて分子でできている。それらは見えない炎によって成っている。故に世界は炎に満たされていると言える。だからそなたは物を燃やせるのだ」
しかし見えない炎という概念が理解できずに、さらに攻撃を畳みかけられた太后は逃げ隠れするしかなかった。
常識的に考えれば海の向こうにルバイヤートがあるならば、水魔法が必要だと想像できるのではないか。
当然の疑問だが、まさか世界の外に位置するルバイヤートにおいて、源泉があるとはほとんどが想像しなかった。
しかし彼の土地における事情にあるていど通じていたポーラやナント王たちは不作為ではないか。が、それも魔法を育てるのに必要な時間を勘案すれば、そうでないことがわかる。その証拠に数少ない水属性をポーラもナント王も自軍に参加させている。儀式用だけにどのくらい実戦に活用できるのか、それを踏まえたうえで軍に轡を並べることを命じた。
その者たちはいざ世界の外に接して、大量の水とともに、それを活用できる源泉の存在を感じて狂喜していた。自分たちにもやっと活躍の場が与えられた、というのである。
しかしそれは少数だし、文献上における技量のクリアがどれほど実戦に通用するのか、専門家とてもまったくわからない。
圧倒的大多数は、完全に泡を食っていた。
なんにしても四方に水しかない環境は、奪還軍にとってそれだけで新境地というよりほかにない。
鼻孔をくすぐるのは潮の味であって、土煙が発酵させる鼻を衝くような馴染のにおいではないのだ。
これは何だ?この感覚は?
感情は疑問を呈するが、頭では誰しもわかっているはずだ。
しかし多くの者たちは現実を受け止められなかった。旧態依然とした意識はこう主張する。ここは世界の外であり、そこに魔法源泉があるはずがないのだ。源泉とは主の福音であり、主の教え、救いの範囲外においてもたらされるわけがないのだ。よってここは世界ではない。
が、身体に流れる青い血はそれが源泉だと見なしている。これは生まれてはじめの体験だった。身体と心が矛盾する。前者と後者は激しく葛藤し、互いを認めようとはしない。
ポーラはどうだったであろう。すぐにそれと割り切れただろうか。
彼女はすでに竜上の人になっていた。背後にはマリーを乗せている。ナント王に最初に投げかけるセリフまで用意している。
アニエスが待ちぼうけを食う最高の責任者に指名された。しかし彼女は憮然とした顔をしていない。彼女の言う通りに主君がちゃんと女性趣味に叶った服に袖を通したからだ。
彼女の着衣技術ならば、早さ、身体に加わる負担とともにそれほど不満はない。しかしいざ戦うとなれば要求したい点は多い。しかしながらそうなったらそうなったで、自分よりはるかに不満顔にアニエスが陥ることは容易に想像できる。が、本当に魔法でボロボロになった高価な衣装を見せたい相手は、ここにはいない誰かである。
いま、晴れの舞台にその人物の姿など脳裏に写したくないのだが、向こうから強制的にやってきて彼女の心を侵食する。
だが、赤い竜は彼女の心を癒してくれる。出発までの不快な経緯などもうきれいさっぱり船に置いていくべきだろう。
はたして、ナント王の船の周囲には竜が群がっている。さながら諸国の竜の展示場が海上で開催されているかのようだ。皇帝の瘴気を感じないからといって、ポーラは安心しなかった。彼ならば、その血の濃度からいえば瘴気を押し隠すことなそ簡単なことだ。
諸侯らは、体験したことのない状態にあたふためいているのだ。連中が最も信頼できると見定めたのはナント王だった。
皇帝にはできるだけ鷹揚であってほしい。まだ主の福音に頼っていてほしい。そういう思いがポーラ野中で支配的である。その方がやりやすいに決まっている。
ここまで来て気掛かりなことを思い出した。クートン枢機卿を誘おうとしたところ船酔いで臥せっているということだ。枢機卿はあえて皇帝に近づこうとしない。そのことの真意を少女は理解しない。大人たちによって大変に危なっかしい存在であることをわかっていない。頭からクートンを味方には思えないのだ。もとより僧侶というものにあまりいい印象を抱いていない彼女の目は多少なりとも歪んでいる。
ポーラは王を見つけるなり直進した。
ナント王に迎合する者たちの多くは、同時にこの少女に対しても同様の態度を採る。そのために、わざと瘴気を出し惜しみをしない。
王の反応はわかっている。何を吐くのか、失礼な言葉の数々は織り込み済みだ。しかし彼はまたしても少女の度肝を抜いた。
表面上、完全無視を決め込んだ後に言ったのである。
「どうして、ここに幼女がいるのか?。聖職者にはご同行願ったが・・・・あいにくと養育係までは連れてこなかったようだな」
マリーは王の抜け目のなさを見抜いていた。恋人の脊髄にそって指を走らせる。そのことによって我が意を伝えようというのだ。
ナント王は不敵な微笑を浮かべているが、ポーラは以前のように無邪気な怒りを感じることができない。
明らかに周囲に散らばっている高位聖職者に牽制したのである。
緑色養育係とは、貴族階級の城ならば常駐している子育て係のことだ。よりによってその中でも最も幼い子供担当の職務を使うなどと・・・・王の罵詈雑言も刃こぼれがない。切れ味のすごさは、認めたくないが確かだ。
しかし姉上も負けてはいない。
「陛下、幼女が参りました。襁褓を代えてほしく参上しました・・・・・」
人々は唖然となる。環境の変化よりもそちらの方が気になるのだ。ポーラの言葉は限りなく宣戦布告に近い嫌味か皮肉にしか聞こえない。ことここに至っても、王と公爵が言い争うのは既に生命の危機を感じるレベルである。
それらを横目にしながらポーラはうんざりしていた。いつものことだとスルーする気にもならない。この人たちは、自分たちが置かれている状況がわかっているのか。ポーラとて、ここが海上である以上、普段戦場にいるような緊張感を持続するのは難しい。それにこの揺れはどうにかならないのか。それと太陽光と相まって眠りたくなる気がわからないでもない。
すでに敵の領域に入っている。それなのに敵意のひとつもとんでこない。たしかに間延びしかねない状況ではある。だが、救い難い緊張感のなさはどうだ。物見遊山に来ているわけではないのだが。
上流貴族たちの多くがこのくらいのことで悲鳴を上げる。なんとも情けないことだ。このことに関するならば、きっと王と意見を共有できるはずだ。あなた方は何をしに世界の外へと出港したのか?その胸に問うてみるがいい、というわけだ。
王は相変わらず、彼はろくに相手にしていないようだが取り巻きたちを引き連れている。女性趣味に染まった女だけでなく男もまた同様の空気を漂わせるものたちがいる。少女は不快だった。
早く本題に入りたいのである。こうまで妨害が多いと、いったい自分が何のためにこのようなところまでやってきたのかわからなくなる。わからないのは、つい先ほどまではおびえていた連中の怠惰ぶりだ。これは大船に乗った気持ちになっていいのか。いやそうではあるまい。恐怖が極言を越えた結果、精神を病んでしまったとみるのが適当だろう。
少女は彼らを振り切るように言った。
「陛下、竜上から失礼いたします・・」
間一髪を入れずに王が口を開く。
「私は幼女などに見下ろさせる失礼など許した覚えはない。船上でも文句がある。海に潜って私を見上げろ、大人というものへの礼儀を頭に叩き込め・・・」
どうして気分がよくなるのか、少女はわからずに不快だった。こうでなければ、王と顔を合した甲斐がない。
しかしそれは周囲の慌てように拍車をかける結果にしかならない。いちいち王と彼女の態度に反応する。それは全く持って鬱陶しい。少女はそれを無視することにした。
いきなり、ではない。紆余曲折があってやっと本題を投げつけられるところまで漕ぎつけた。
「そうですか、陛下、竜上から失礼いたします。陛下に質問があります。魔法源泉が近いというのに敵側から攻撃がありません。これを歴戦の竜騎士であられる陛下はいかに思われますか?」
王は即答しない。それはわかっている。ポーラが知りたいのは外野の状況だったのだから、それはそれでよい。しかし予想と違って彼はすぐに口を開いた。
「悠長に賢人会議など開いている場合ではない。各々の事情に合わせて、それぞれが戦時体制に入るべきだろう」
内心で汗をかきながら、少女は返す。
「陛下のご対応は私の襁褓を代えることですか?」
ここが敵地であることを身をもって皇帝たちにわからせる。それが王の目的だろう。恋人の背中に身体を温められながらマリーは推察した。不快極まりないモンタニアールの当主の思考などに触れたくもないが、彼女の理性は好んでそれをしてしまう・・・全くもって憮然とするよりほかにない。
マリーはそれよりも耳目を引く出来事に遭遇していた。ポーラの態度である。いちいち、王の言葉に反応しなくなった。その裏にある意図に恋人も近づきつつあるのだろうか。彼女の感覚が鋭くなっている。
しかし王の意図はうまく諸侯に伝わっていない。連中は警戒する気持ちなぞ全くないのだ。マリーは世間話に託けて言葉を発することにした。
「今回の戦いで、私の仕事場はあるのでしょうか?ないに越したことはないのですが・・・」
背後からルイが口を出した。
「伯爵殿は伯爵殿にしか為せないことがありましょう」
この人らしくない俗な言い方だ。何らかの意図があるのか。諸侯たちは相変わらず怠惰な素顔を晒している。連中にこそ具体的な言い方を用いてかけるべきなのだ。
「私は青い血など見たくありませぬ」
諸侯の一人が笑った。
「将来を嘱望される治療属性のお言葉とは思えませんね」
今すぐにでもルバイヤートが攻め入ってくるかもしれない。その時になって泣くのはそなたたちに留まらない。いささか少女は腹が立ってきた。
「諸侯方、私は治療属性です。治療属性の本分をご存知ですか?たとえ、明日、処刑される方でさえ目の前で青い血を流していれば、その胸に手をもっていかざるを得ません、仮に、その人物が治療属性の最も愛する人を殺した者であったとしても、です。私はいつでもあなたの胸に手を持っていくと、私はそう申し上げているのです、おわかりですか?」
孫ほどの年齢の子供の言葉に、貴族は言葉を失っている。ポーラは目を見張っている。それは王も同じだろうと勝手に決めつける。それは自分の領分ではないか。いつから勇み足をするようになった?それはポーラの十八番ではなかったのか?それを陰に日向に諫めるのはそなたの役割ではなかったのか。
ポーラの思考を停止させたのは、1人の少女だった。
マストの上に立っていた。思わず彼女の名前を叫んでしまうところだった。背後を慮ったのである。マリーにはドリアーヌを見ることができない。正しくは単体で魂だけとなった彼女を視認することができない。それは彼女にとって許しがたい事実だろう。この世で最も彼女のことを思っている自分が見られずに、どうして姉上さまがそうできるのか。それは納得できる言い分だ。
瘴気で会話するわけにもいかない。
しかし彼女は口を開いた。
「姉上さま、敵襲です。姉上さまにはあれが見えませんか?」
確かにドリアーヌの声だ。それが響き渡っているが、だれも反応しない。マリーですらだ。ただし、ポーラのおかしな態度に怪訝そうな目つきを恋人は見せた。
「ポーラ、何事ですか?」
ここで何でもないというのは、対マリー的に言えば完全に素人だ。ポーラはその点をいえば完全に他を引き離している。両親はすでに他界している。ドリアーヌは、目の前にいる少女にかんしていえば自信はない。そのことが口惜しいが、少女にそこまで感じさせる、それを嫉妬というのだろうが、主体にポーラは生涯で会うとは思わなかった。仮にありえるとすれば結婚相手のことだが、そのことにかんしては考慮したことがない。
ドリアーヌが傍にいることの懸念は、自分の心を完全に見透かされることだ。自分を透明にできるならば、それもまた可能ならば、可能かもしれない、瘴気以外の方法で自らを表現できる方法を知っている彼女ならばあるいは・・・。
そう思う。




