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架空十字軍  作者: 明宏訊
37/61

 モーパッサン公会議11



 最初に魂が肉体から離脱することを知ったのは、いったい、いつのことだっただろうか。

 ドリアーヌはその瞬間をよく覚えていない。

 そもそも今でさえが普通の人間のように、肉体の中に在るということが理解しきれていない。少女は先天的に視力も聴力も全うではない。完全に盲目というわけではないが、光をようやく感じ取れるくらいだ。音はといえば、人の声が何となくそれとわかるくらいだ。

 手足はそれらしきものが肉体に付着しているだけで、通常の人間のような用途には使えない。それより前に手や足が何のために使われるのか、それすらわかっていなかった。姉上さまが自分に向けられる温かい手とそれが同一だとはとうてい思えなかったからだ

 もっともそんな風に自己を客観視できるようになったのは、肉体から分離できるようになってからだ。

 もっとも、それはいいことばかりではなかった、いかに自分が醜い存在なのか、それが俯瞰的に見ることができてしまったからだ。自分の五感が十全ではないことをいやでも思い知らされたからだ。もしかしたら何の価値もない肉塊にすぎないのではないか。羊や牛ならば人の食料になって栄養になることができるが、少なくとも人の身ならばそれすら望めない。人々の役に立たない。当時、自分が人の役に立てるとは笑顔で迎えられることを意味した。姉上さまはこの世界で最も重要な人だった。誰からも笑顔で迎えられていた。

自分は、といえばその真逆だった。しかし本当につらかったのはそのことではなく、特にマリーから優し気とも悲し気とも取れない視線を注ぎこまれることだった。むしろ圧倒的多数がそうするように蛇蝎のように扱われたいと考えた。しかし、彼女の視線に縋るしか生きる道が当時のドリアーヌにはなかったのである。

彼女にとって新たな地平が開けたのは、皮肉にも両親が亡くなったことだった。しかしその事実は彼女には理解しきれなかった。

マリーはアラス城から急遽、帰国した。

一も二もなくドリアーヌに駆け付けた。たった1人の伴の入室も拒んだ。彼女の養生に当たっていた治療属性をも放り出した。

「大切な妹を診るのに、私以上の誰がいるとそなたらは言うのか?!」

 その言葉がドリアーヌを、自称、単なる肉塊から追い出した。そして本来の自分を思い出させる景気となった。

 そのころ、侍女の娘であるジュリエッタは魔法の使い手見習いとして修養中だった。ドリアーヌは意識的に彼女を目指したわけではなく、引き付けられるようにそちらに飛んで行った。

肉体から離れると自分がジュリエッタと呼ばれていたことを思い出した。だから、その時点で最初だったことはない。あくまでも自分を客観視できた最初の日でしかない。しかしなが

彼女にとって本当の誕生日ともいえる重要な日であることは変わりがない。

 ジュリエッタの肉体に侵入しても、ドリアーヌとしての意識が生きていた。むしろ、こちらが主であって、あくまでも人間としての基礎を固めるための一時的な蛹状態にすぎなかったのである・・・あくまでも後々から見返した結果にすぎないが。

 ただ、少女の中ではひとつの気持ちだけが高ぶっていた。

 大好きな姉上さまとお話がしたい。

 気が付いたら、生まれて初めて立ち上がって駆けだしていた。

 「もどかしい!」

 それは自分の叫びではないようだった。いつの間にか眩い光に包まれていた。

 それが消えるとたんに目当ての存在があった。

 姉上さまだ。

「ジュリエッタ、どうしてのですか?え?誰ですか?あなたは?」

 生まれて初めて人の声を音ではなく、意味を理解した瞬間だった。ジュリエッタという名前は聴いたことがあった。そのように呼ばれて違和感がないことは不思議だった。自分はあくまでもドリアーヌ、ドリアーヌ・ド・ダンヴィルのはずだったからだ。まだ意識してジュリエッタとドリアーヌを使い分けていたわけでもなかった。あえて言うならば、その日、生まれて初めてジュリエッタを知ったと言っても過言ではない。そうか、そういう身体で歩き回って世界を体験していたのだ、と思い知ったのだ。

 喉の奥で不思議な文章がよみがえる。

 魔法の三大変換とは何か?火の魔法を水のそれに変じせしめること、その逆、そして地の魔法を水、火に変じること。ただ、木の魔法は不変である。どれとも交換できない。

 どうしてこんなことが知っているのだろう。

 ケントゥリア語による・・。

 ケントゥリア語?何よ、それ?母国語すらろくに理解できないくせに・・・。

 なんて醜いお姿かしら?きっと、心なんてないのよ、だから一族から追放されたんだわ、いっそのこと殺しちゃえばよかったのに、ダンヴィル家としても迷惑でしょうに、最後の審判を待ちながら泣いているわ、我が家の名前が汚されたって・・・・。

 誰の声だろう。

 歩くことすらできないのに!

 いや、自分はこうして立ってかけている。それだけじゃない。すでに魔法だって使える。え?魔法ってなんだっけ?あれ? 

 いきなり視界が真っ白になった。いや、視界ってなんだ?

 それよりも、いま、自分がどうしてこれほどまでに頭の中が小気味よく回転するのか?こんな体験は生まれてはじめた。もしかしたらこれが言葉というものなのか?そうだ。いま、自分はドリアーヌとして言葉を使っているのだ。・

 自分の名前はジュリエッタではない。ドリアーヌ・ド・ダンヴィルだ。

 生きている人間をドリアーヌとしてみたのは生まれてはじめてのことだった。それまではあくまでも瘴気として受け止めていただけのことだ。

 肉体としては、あくまでもジュリエッタとしてみていたにすぎない。

 「どうしたことだ?確かにドリアーヌの瘴気!?」

「私です、あなたの妹のドリアーヌ・ド・ダンヴィルです」

「まさか、ドリアーヌがしゃべるなんて・・それに今のは魔法は?!それに瞬間移動をこなすなんて・・・ジュリエッタならばありえないわ」

 母国語すら理解していないはずの少女がケントゥリア語や魔法ができるはずがなかった。いつのまにか、肉体から魂が離脱してジュリエッタなる少女に憑依し、彼女とともに学んでいたのだ。

 ジュリエッタが取得していない魔法をどうしてドリアーヌは発揮できたのか。ポーラはそれを疑問に感じて質問したことがある。

「姉上さま、城内における誰かの身体に入り込んで取得した際に学んだのでしょう」

 それが彼女の答えだった。公爵はにやっと笑った。

「なるほど、そんな難しい魔法を、それもその当時に取得したものが誰なのか、今ではほぼ判明しているわけね」

 ドリアーヌはポーラの聡明さを改めて理解した。

「我が姉がどんなに優れた人を輔弼していたのか、思い知らされた気がします」

 彼女の言葉は、マリーと自分を差別している。そのことに微かな嫉妬を覚えながらポーラは言った。

「いくら輔弼する立場が優秀であっても将が私では目的は達成できなかったわけだ」

 それはポーラにあるまじき言葉だった。それがどうしてこの子が相手ならば可能なのか、ポーラは疑問に感じた。だが、それゆえに興味を覚えるというものである。

 ポーラは、事情から察するとドリアーヌの成長は信じがたいことばかりだった。すべてが独学で達成したかのように思われるからだ。 

 だが、ドリアーヌ本人がどうやって今の自分になりおおせたのか、わからないことばかりではあった。

 彼女は、それらの体験を晩さん会の後に語った。

 その部屋には、ポーラ、マリー、そして、ナント王とルイがいる。

 モンタニアール家の人間をこの場に招待することを、マリーは渋ったが何とか説き伏せた。それはポーズであり、ドリアーヌへの愛情を示すためだったとわかったからだ。知性の権化で若いながらに老獪な戦略家、そういう外面の裏にあるのは優しい微笑なのだ。どうしてそんなことを知っていたのか、ドリアーヌは今もって混乱することがたまにある。

 建設中のモーパッサン城の一室を借り受けた。

 外の闇に求めては要らぬ詮索を買うだろうというのが、総意だった。

 最初にポーラが口を開いた。

「この件にかんしては、私はそなたを許した覚えがない。生まれてはじめてそなたを殴りたいと思った・・・・」

 公爵の言葉は、中途でマリーに掻き消された。

「始めて、ですって?まるで殴ったことがないような仰りようですわね、姉上さま?!それとも母国語の文法をお忘れになったのですか?」

 アラスを出発してはじめて「姉上さま」という呼称法を使ったことに少女は気づいていない。

 ドリアーヌは羨ましく感じた。もしも真っ当な身体に生まれていたら、自分もまたアラス城で育てられて、このお二人と生活を共にすることもありえたのであろうか。ふたりの剣幕に透かして幼少時代がみえるような気がする。

 自分のことを知らされなかったことに、公爵は怒りを隠せない。「姉上」と呼ぶように仰ったあの美しいお姿を永遠に忘れることはできないだろう。それが永遠が無理でも長く続くようにドリアーヌは、自らが知りえたルバイヤートの知識を披露してなくてはならない。

「ドリアーヌ・ド・ダンヴィルのことは、城外不出とされていました。姉上としてもどうしようもなかったのです、公爵閣下。それよりも重大なことをお話しなければなりません。」

 ドリアーヌは、ポーラの襲撃者について語った。

 しかしながら被害者には異論がある。

「ドリアーヌ、しかしながらあれは少なくとも襲撃ではない。この傷は私の不考慮によるものだ。そなたは正体を知っているのかしら?」

「ニネベで出会いました」 

 マリーが口を挟む。ポーラたちが得たルバイヤートにかんする情報はドリアーヌに帰するところが大きい。しかしながら彼女の体調を慮って禁じていたのだ。

「ドリアーヌ、また、海を渡ったのか?そんなことを私は聴いていないが?許可した覚えはないが?」

 きっぱりと少女は応える。

「姉上さま、私も申請した覚えもございません」

 そうなのか、当然のことだがドリアーヌはマリーを姉と呼ぶ資格がある。主の教えに決して抵触するわけではない。

 それにさすがはマリーの妹だけあって、自分が心酔する対象の奴隷とはならない。

 そうなるとマリーの罪をさらに問いたくもなる、どうしてもっと早く会わせてくれなかったのだ、と。

 二人のやりとりに微かな嫉妬を覚えながらも、今少し耳を傾けたいと思ったがそれどころではない。

「で、その正体について詳細を知りたい」

「とても危険な存在です。彼女は私の魂を捕縛できたはずです、ところがあえて解放したのです」

「ということは、だ。向こうも、それは女なのか、彼女もそなたと同じ方法を使えるということか」

「姉・・・いえ、ポーラ、人間に非ざるものに彼女という代名詞は不適当です。それは主の教えに反することです」

ドリアーヌは無言を続ける。

ナント王が口を開いた。

「どこに目が光っているかわからん、気を付けることだ、幼女」

 ドリアーヌが言う。

「陛下、その幼女というのはあまりにも閣下に失礼かと、いくら陛下に置かれても」

「すでに最初の邂逅はなされたというべきかな?ドリアーヌとやら」

 マリーの血相が変わっていく。ポーラはまずいと感じた。

「陛下、少なくとも男爵が陛下のご存知の彼ではないことはご存知なのですね、それをいつ察知なされましたか」

「幼女、大人を甘くみるものではない。一目瞭然だ。品性を押し隠すにも品性は滲み出るもの、そなたも襁褓を脱ぐことができればわかると思うが・・・」

 見かねたルイが前に出た。

「兄上、そのことよりも閣下が傷ついた理由についてはっきりさせるべきでしょう」 

 話の腰を折るべきではない。それを彼らしい言葉で示したのだろう。ポーラは、ナント王の弟の性格をかなりのところ把握しつつあった。

 促されたドリアーヌは続けた。

「こちらから、海を越えられたのですから、向こう側から同じことをされることは予想していました。しかも圧倒的に相手の方が上手なのです。私が信じられないのは、彼女が全くの健康体だということです。私がこの方法を取得できたのは、難しい書籍に齧りついた結果ではないのです。気が付くと把握していました。それは不自由な身体が原因だと思われます。もっとも私が把握しきれていないのかもしれませんが」

 マリーが言った。

「それほど大した相手なのか?それにもかかわらず攻撃した理由を、私は知る権利を持っているはずだ、そうではないか、ドリアーヌ?」

「確かに明確な敵意は感じなかった、がそれゆえに恐ろしい相手なのかもしれないが」これはポーラ。

彼女の言葉に付け足すようにマリーが言った。

「ポーラよりも強力だと?もっとも相手は人間に非るゆえに比較は無意味だろうが…」

姉上さまと呼ばなかったことを褒めればいいのか、それにしては無理が少しばかり目立ちすぎる。

それにしても、魂と肉体が分離するとはどういうことなのか。公爵は強い興味を抱きつつある。あるいは、恐れ多いことだが聖職者の説教や聖伝の記述と矛盾するところはないか?もちろん、それについては言及せずに質問した。

「そのことこそ、皆さまにお知らせしたいことです。私は生まれてから別の世界で育ったのです、しかしジュリエッタという少女の身体に憑依していたことに気づいたのは、かなりあとになってからです」

「その子が最初なのか、ちょうど、この男爵を利用しているようにか?」とナント王。

王がどれほど把握しているのか、それは後に語ってもらうことにしようとポーラは決めつけている。

「私は主にジュリエッタという、侍女の娘を通じて魔法やケントゥリア語を学んだのです」

マリーが口を挟む。

「最初の姉妹の邂逅が、瞬間移動だったことは驚いたわ、しかも最初の言葉があれとは、いまだによくわからない。訳のわからない世界で人間としての基礎を学んだとは」

「ジュリエッタの身体がその世界だということかしら?でも、自分のことをジュリエッタだと認識していたわけではないのよね」とポーラ。

ドリアーヌは続ける。

「ジュリエッタは竜騎士として奪還軍に参加しています、私の信用できる家臣です。彼女に話を聞くと、自分の中にだれかが入っていたなどと、全く人事られないということです。いまだに私が自分が彼女だという認識はありません。どうやら心のどこかに寄生して知識や体験を吸い取っていたようです」

 ポーラは新世界を見る思いで、ドリアーヌの言葉を受け取っている。奪還軍という革命的な出来事を目の当たりにして、それと出会うことが偶然とは思えなくなっている

 ドリアーヌは新世界の歌を歌い続ける。-

「姉上さま、確かに私としても不思議です。しかしながら肉体と魂の分離そのものが、どうして取得できたのかわかりません」

「そなたは、バブーフ男爵について詳細を入手できたのだろう。家臣たちも把握できているようだし、それはジュリエッタについても同様ではないかz?」

「経験不足のせいか、それとも彼女への配慮が理由なのかわかりません」

「男爵については全く罪悪感を感じないが、ジュリエッタについては別意見ということか」とナント王。

王の光る眼が示唆的だ。いったい、何を摑んでいるのか。

そのことはともかく、ドリアーヌの能力について興味深い嬢を得ることができた。これから攻め込むルバイヤートに関すること以上に面白い話が聴けた。それは肉体にいるときと、分離しているときで、世界が違うというのだ。

「ドリアーヌ・ド・ タンヴィルは身動きすらままならない女の子です。目はほとんど見えず、耳も老衰寸前の老人並みにすぎません。だから本当の肉体的感覚というものがわからない可能性があります。あくまでも他人の身体における感覚との比較です。一言で言うと、このモーパッサン城ですが、人間と関係なく存在すると思っていらっしゃいませんか?」

みなが一様に、当然のことだという顔をする。さもありなんとドリアーヌはかつてマリーに説明したように言う。

「ところが、この城を構成している石や材木、それらは人間、強いて言えば皆々様の精神の一部なのです。ゆえにしっかりとした造形があるわけでもないのです。だから、肉体から分離しはじめた当初、姉上さまにはじめてお会いした頃は、城は固まった水のようにグニャグニャにしか感じませんでした。いまは意識して、しっかりとした造形につくっています。そうでないと隠密行動など不可能ですから。ルバイヤートの情報も得ることが難しくなります」

 ドリアーヌの説明を皆が皆、ちんぷんかんぷんという顔をした。主体、客体というものの説明を知らない彼らならばそれもやむなきところなれど、肝心のドリアーヌにしても自分の見方を確とした方法で説明する術を知らなかった。


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