モーパッサン公会議4
狭い巫女の間から、否、アラス城から、否、広大で肥沃なロベスピエールから離れて広い世界を鋸歯的に俯瞰したい。
さて、十字軍がいまこそ発生しようとしている。モーパッサンにエウロペのなだたる諸侯が集結しつつあるのだ。これからエウロペは聖地エイラートを異教徒ルバイヤートから奪還するために海を越えるのである。
平凡でどこにでもいる世界史の教師ならば、そのように表現するだろう。
しかしながらじっさいには十字軍もエウロペも存在しなかった。実在したのはエイラート奪還軍と世界だけである。そして異教徒ルバイヤートという言い方もおかしい。
異教徒というからには人間だろう。自分たちとは違う神を信仰する人という意味が適当だ。しかしながら、当時のエウロペ(世界)に住んでいた人にとってルバイヤートは人間ではなく正体不明の妖怪でしかなかった。もっと言えば宗教という言い方そのものが的を射ていない。神の教えはひとつであり、それ以外はありえないのである。自分たちとは別人間がいてそいつらは別の神を信仰しているなどと、間違っても想像の翼が向かうところではない。それはポーラですら例外ではなかった。
だから現在におけるように、ナントを教国を称すること自体がナンセンスというよりほかにない。宗教を名称で呼ぶこと、それ自体が自ずとその他が存在することを暗示するからだ。ポーラたちにはありえないことであることを知ってほしい。
さて、人が行動しているとき、それについて本当に理解しているのか甚だ疑わしい。それは個人ではなく集団に置き換えても同様である。
世界中の人が字義通りの意味で外征しようとしている。が、世界は自分の立っている大地にしかなく、外は存在しない。
当時の人間はそう考えていた。
しかしながら、後世の人間はこの二年間、つまりは1027年と1028年の出来事を次のように理解している。先の世界史教師の講義を追ってみよう。彼は一般的な世界史の教科書をつかっている。
1027年、モーパッサン公会議をミラノ教皇ザカリアス12世が招集。
1028年4月28日、第一回十字軍が開始。ルバイヤートに向けて大艦隊がモーパッサンを出港。
すでに1028年の初春を迎えても公会議は開催されていない。
当時、世界中の人間たちは自分たちの住んでいる土地こそが世界であって外があるとは夢想だにしていなかった。間違っても自分たち以外に人間がいるとは思ってもいなかった。だから、聖地エイラートを奪還するために海を越えよと天使さまに命じられたとき、人々は混乱した。
それ以前に突如として姿を見せ、演説を始めた女性聖職者を天使さまとは誰も認識できなかった。彼女の言葉に説得力を与えたのは、彼女自身が醸し出す高貴な空気でも、言葉そのものが示す力でもなかった。聖職者ならば普通のことだが、頭部はフードのようなもので隠されていた。
彼女は声を張り上げたが、それほど通る美しい声でもない。ごく普通だ。
「水平線の向こうは滝があって、奈落の底に海水は消えていくだけではないのか?その向こうに何かがあるわけがない。そんなところに聖地があるのか?!」
海を越えてエイラートを奪還せよと云われたところで、だれもろくに耳を貸そうとはしなかった。
たしかに上品なことはわかる。だが、それならば一つの町に何人かはいる金持ちの奥様ではないか。
別に神々しいわけではない。貴種にしてはいささか質素な白い木綿の貫頭衣を着用している。身体の様子からおそらくは女性だろう。顔の多くが生地によって隠されているために年齢は不詳である。少なくとも悪い印象は受けない、という程度だ。せいぜいで司教くらいの聖職者だろうか、しかしそれ以上という印象は受けない。目の前にいて敬意は示すが、まさか両足が震えるなどということはありえない。
群衆が目を剥いたのは、女性が率いている面々にたいして、である。
目につく赤紫色の衣装は枢機卿だが、多くはその職責に思い当たりがない。ただ豪華な衣装からかなりの高位聖職者であることくらいはわかる。だから一斉に人々は足下に跪いた。
正体不明の女性聖職者がフードのようなものを脱いだ。
絹のような肌は労働と無縁であることを示している。たしかに王侯貴族の生まれなのだろう。容貌はどうか。
それほど美しいというわけでもないが、少なくとも見苦しくはない。やや頬骨が張り尖った目つきと鼻っ柱の、上品と言っても大過ない女性である。
とたんに枢機卿が言った。
「この御方は、天使さまにあらせらせる。天上からご降臨遊ばれたのだ!!」
その一言が人々の目を
単なる石炭がダイヤモンドに成り代わったのである。
「て、てんしさ…ま…?!」
人々は自分たちが漏らした言葉を疑った。そのような存在が自分たちのような者の前に出現することはありえないからだ。しかし内心から語りかけてくる声に耳を貸さないわけにはいかなかった。
「偉いお坊さまが我々に言葉を発しておられる。これすら奇跡ではないのか?」
そのことを思えば事実でないとは言い切れない。
奈落の底にすべてを消去ってしまう滝は恐ろしい。しかしその反面、まさに音に聞こえた天使さまがその向こうに聖地エイラートがあるという。
聖伝は天使さまが世界に降臨していると、それが高貴な家に住んでいると説いている。幼いころからそれを聴かされてきた人々にとっては、じっさいに目の当たりにできなくても現実だったのである。一生に一度でいいから天使さまに一瞥してもらいたい。畏れ多くも御御足に口を這わせることなど欲求すら浮かばない。偉いお方がその栄誉に預かっている場面にお眼にかかった事はないが、さぞかし美しい光景なのだろう。
それは自分たちには過ぎた幸福にちがいない。
地上における本当の支配者は王様でも公爵様でもない。天使さまなのだ。天使さまは主から委託されて勿体なくも地上に降臨なさっている。
水平線の向こうにあるという巨大な滝、それに続く奈落の底、それらは聖伝に書かれていることではなくあくまでも口伝にすぎない。しかしながら聖地エイラートは実際に記述がある。カナンの民は瀆神の罪により聖地エイラートを追われた、とある。文字が読めない者が大半だが、聖職者さまが仰っているのだから事実なのだろう。
ルバイヤートについては詳しくは告げられなかった。もっとも、発信者自身が何も知らないと言っても過言ではない。しかしながら意図的か、自然にそうなったのか。
このような光景が世界の各地で見られた。
人々は挙って、エイラート奪還軍を支援しはじめた。
豪商と呼ばれる存在はすでに萌芽をみせていた。後世のように大貴族の財政を左右するほどに影響力を持っていたわけではないが、独力で軍に参加することのできない士大夫に竜や馬に急かせる働きかけることはあった。ポーラやナント王の経済力以外に彼らや彼女らを戦いに向かわせる力学が存在していた。
これらの出来事は、ザカリアス12世が招集したとされる1027年に起きたわけではない。1028年の4月に大船団がモーパッサンを出航する、それよりもはるか前に萌芽はすでに何十年も前にあった。あえて始点を求めるならばモーパッサン建設にまで遡ることが適当になる。それより前は陰謀論の領域だろう。もっとも歴史と神話と陰謀論にくべつはない。
ならば、いかなる理由によって後世の受験生は呪文のように意味不明な分列を覚えなければならないのか?
それはエイラート奪還軍にとって重要なファクターを歴史から消去しなければならなかったからだ。それは後世の人間、とりわけ中世末期からルネサンスに至る人々にとって強迫観念でしかなかった。
もっと重大な事実を示せば、十字架は宗教のシンボルではなかったのである。故に十字軍などという呼称は、少なくとも初期にあってはありえない。後世、悪名高きヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト総統が自らの思想と党派の象徴としてΩ(オーム)を採用するような必要性など、奪還軍にはなかったのである。
天使さまこそ、すなわち奪還軍!
それに人々を集結させるためのシンボルなど必要がなかった。天使さまの存在がその役割をすでに果たしていたからだ。
それまで魚こそが主を象徴するものだった。だが、それをあえて掲揚する必要はなかった。いったいどこで、誰に対してそんな必要性があるのか?世界のどこに行っても同じ主を仰いでいる。あえて自分たちの正しさを主張しなくてもよい。あえて言うならば自分たちこそがより主に愛されている。そのことをただひたすらに信じて剣や魔法の杖を振るったということだ。
奪還軍の中枢とでもいうべき二大諸侯の会話が残っている。
「奪還軍を象徴する旗があってもいいのではないか?」
「ならば、陛下、魚はご免こうむりたいですね。少なくとも私はあれのために命を懸けたいとは思いません。食べたいとは思いますが」
ちなみに後者はギョイエンヌ川のウナギがたいそう好物だった、とされる。
単なる伝説にすぎないだろう。地政学が示すとおりに二人が憎しみ、あるいは殺意以外の関係で結ばれることなどありえないからだ。
モーパッサンで公会議が行われたはずがない。
教会法にある。
公会議は聖遺物が蔵された聖堂がある都市に限られる。
新興都市にすぎないモーパッサンには、それどころかそもそも聖堂すら1027年の段階にあってはなかったである。
それを公会議と呼ぶならば、ザカリアス12世が主催したモーパッサン城における晩餐会がそれに当たるだろう。しかしそれは前述のごとき1028年のことであるし、城はまだ完成していなかった。
大学や自治都市でもないのに、この地には領主というものが存在しない。主によって選ばれた諸侯なくして、人の営みというものはありえない。特殊な目的によって捏造された都市にすぎないモーパッサンが諸侯を迎えるには十字軍を終えるまで待たねばならない。
多くの耳目は、どうしてこのような辺境に物資が流入するのか疑問を抱いた。
「ただ海があるだけではないか?どうしてモーパッサンごときに?」
圧倒的多数にとって海とは奈落の底への道程であってしかなかった。けっして、魔法が廃れた後世のように湾岸都市が重宝されることはなかった。流通のためにあえて海を利用する必要はなかったのである。
それでも多くの人たちは町のありようをみて驚いた。城は未完成で貧弱にも関わらず、巨大な建物がいくつも軒を争っていたからだ。
しかし訪問者が知っているような街であるならば、とうぜんあるべきもの、人々の営みは存在しない。巨大な建物はさながら立派な霊廟にみえた。
その中でも一際目立っていた屋敷がふたつあった。ナント王とロベスピエール公爵の屋敷である。しかしながら何も玄関に標識が嵌められているわけでもなく、誰それの所有物と認識したわけでもない。ただ、ただ、あたかも古代の遺物であるかのような立派な建物に唖然としただけである。
「いずれの諸侯だろうか、どうしてこんな辺鄙な場所にあんな建物を建てる意味があるのだろう?まさか、奪還軍のために建てたわけもでないのに」
その某従子爵は、完全ではないが事実についてあるていどの正鵠を射ていた。
それは軍の中枢にあっても同様だった。だから、真実の意味でそれを理解している存在は、天使を含めて誰もいなかった。なんとなれば、天使さまはこの地にはいなかったからだ。
この瞬間、この土地において最高位にあるザカリアス12世ですら、あるていど察してはいてもそれに対して確信があったわけではない。
彼は前教皇が属していた派閥に所属していなかった。だからいかに枢機卿とはいえ、モーパッサン建設に纏わる事実に直前まで触れていなかった。
いや、直前になってもただ天使さまのご命令に従うだけにすぎなかった。
だが、事ここに至ってどうして自分の血を引く枢機卿が教皇となったのか、ポーラは何も認知していない。それはマリーも同様だった。モーパッサンに至ってすぐに謁見するように彼女に言ったのも、純粋に軍事的な理由だけである。
確かに血族とはいえ、容易に接見することは危険であることはマリーも認識している。が、そうであっても確かめなくてはならないことが多すぎた。まず総司令官はだれなのか?それが有能であれ、無能であれ、公爵家としてはどうにも動きようがないからだ。
そのことを主張したのは、モーパッサン入りした翌朝だ。
顔を洗うための盥を運んでいた侍女を見つけるなり、仕事道具を奪い取ると哀れにも少女は尻もちをついた。
マリーは瘴気を自ら出して侍女の存在を緩和させねばならない。おもらしをするように瘴気を出すことは想像するまでもなかったからだ。
「は、伯爵・閣下・・・」
「休んでいてよい、ポーラには私が持っていく」
恐縮する少女の唇に長い指を持っていく。彼女の唇は柔らかだった。
姉上さまのことを呼び捨てにしたのは久しぶりである。身分から、そして立場から言っても何の支障もない。ごく当たり前のことだ。
公の場で「姉上さま」と呼びでもしたら事である。訓練の意味でもプライベートな空間においても呼び方を統一する必要がある。
先程の少女は見覚えがあった。そう母上さまのところにいた侍女だ。いつ、モーパッサンに来たのだろう。後で確認しておこうと思った。瘴気からそれなりの氏族が脳裏に浮かんだが記憶に対するそれ以上の検索は止めよう。今は姉上さまと談義することだ。
ドリアーヌも連れてこようと思ったが、彼女には男爵としての仕事がある。それに専念したいとの申し出があった。
マリーが近づいてもポーラは気づかない。
瘴気を抑えるということは、危篤状態の患者や王や公爵レベルの貴族に相対するよりもエネルギーを使うことだ。姉上さま相手にギミックを仕掛けるのだ。いくら警戒していないとはいえ、字義通りの意味で公爵と相対している。
姉上さまは寝具に潜り込んだまま言った。
「イザボーか?瘴気を抑える術を学んだか・・?何かおかしい、きのせいか?」
にゅと竜騎士のような腕が寝具から伸びてくる。しかしそうはいっても筋骨隆々というわけでもはない。あくまでも魔法の使い手にしては活動的すぎるというだけのことだ。
ポーラの手は盥を求めてさまよっている。どうやら先ほどの侍女に魔法の手ほどきをしているらしい。しかし手ほどきしているのはそれだけはないかもしれない。マリーは気が付かないうちに嫉視を向けていた。しかしその対象が姉上さまなのか、侍女なのか?よくわからぬ。
思わず声と瘴気を出しかねなかったのは、ポーラの手が胸に当たったせいだ。
「この胸は・・・な、マリーだな、姉上さまをからか・・・・何?」
ポーラの言葉を途絶させたのは、突然に冷水を頭からかけられたせいだ。
「申し訳ありません、胸がなくて。姉上さま?!」
ポーラが胸の大きさに言及しなかったことにはさすがに気づいている。つい舌打ちしてしまったのは。姉上さまと呼んでしまったことだ。そのいらいらは暴力に訴えればよい。
姉上さまの手はなおもマリーの胸にある。
筋肉には筋肉を動かすための瘴気が走っている。治療属性ならば、知識と技術を逆用すだけのこと。
「い、痛い・・・や、やめないか・・マリー!?」
「ポーラ?あの少女の胸に普段から触れているということではありませんか?どうせ私の胸はひなびたイチジクですよ、悪かったわね」
「小さい?私はそんなことは言っていないが・・・マリー、何を怒っているのだ?間違って彼女の胸に触れたことあるが・・・痛い・・ィ、わぁった、わかった・・・」
夫婦喧嘩はすぐに終わった。状況がそんなことを許さなくなっていた。この調子で公の場でうまくいくだろうか。やれやれと思っていることは両者にあって共有されているようにみえて、そのじつ、互いにそう考えていない。責任は相手にあって自分は何も悪くないとも感じている。
マリーの口から迸った固有名詞が話題を真面目な方向にもっていった。それまで奪還軍については何度も議論しあっているために、ツーカーの感覚で互いにそれと認識しあえる。
胸が小さいとあえて言わなくても通じる事に似ている。
どちらが先だったのか。ポーラの雰囲気か、何でもない一言が刺激になったのかもしれない。
それを察したマリーが真剣モードになった。そしてすぐにポーラが呼応した。
マリーの表情が一変している。
「教皇猊下のことです、ポーラ」
身体を寝具の乾いた部分で拭いながら、ポーラはすぐに返した。
「最高司令官のことだな・・確かに最高責任者がいなくては話しにはならない」
表面的な表情だけはロベスピエール公爵になったものの、内心のうだうだはそう簡単に消えそうにない。
腕がずきずきとするのは、マリーが放った瘴気というか怒りの度合いが半端ではなかった証拠だ。まだ神経を走る瘴気がうまく動いてくれていない。
マリーは言った。
「トップはすでに決定済みです」
それがナント王であることはマリーもわかっている。彼の王としての器量は痛いほどわわかっている。しかしモンタニアールだ。両親のこと、そしてドリアーヌのこと、存在そのものが許せない理由はマリーにとってありすぎて余るほどだ。少女は自分でもきついていないが、姉上さまが以前のようにピエール二世とモンタニアールに対して憎悪を示さないからだ。もしかしてルイ・ド・モンタニアールのことが関係しているのだろうか。それならばなおのこと許しがたい。
そういう腹の内は抑えて話す。
「たしかに陛下ならば、弁えておいででしょう・・・・しかし。あね、ポーラの立場を保証してもらわねばならないのです」
「賢人会議に私を入れろという要求か?」
何か多人数によってことを起こすならば、運営委員会があって当然である。そういう名称ではなくても大軍を動かす組織は必要だろう。マリーがそれについて言及すると、ポーラは共和制ミラノ時代の組織について言及したのだった。
ポーラはマリーが一番、答えたくない疑問を知っていた。しかしそれについて言及するのは彼女でなければだめだった。二人の役割上、そうなっているのである
しかしこの場面においてはいささかも遠慮を入れてはならないと判断した。
「賢人会議のトップはだれを挙げるか?」
「・・・」
マリーは諦念したかのように言った。
「いまのところ・・・・・ピエール・ド・モンタニアールしか思い当たりません」
果たして妹はポーラの存念と同じことを言った。しかし積極的に肯定すべきではない。そのくらいの配慮はしたいが・・それはマリーを納得させるに能わない。
「私も同意する。他にいない、しかしそなたは私を推したいのだろう?」
マリーは涙目になっていた。
「何を仰ることですか?幼女にそんなことが任せられますか・・・ぅ」
何も言わずにポーラはマリーを抱きしめた。
「あ、姉上さま・・・・?!」
ナント王のマネなどしなくてもよい。
ポーラはメッセージすら妹に送らなかった。それでも肌の微妙な温度変化によって通じると信じていたからだ。
「おそらく陛下は謁見の具申をするだろう。それに呼応というか、対抗するかたちで私たちも同じことをする。そうすれば少なくとも世間的には通じるし、猊下にもわかってもらえるだろう」
マリーは姉の胸の中でわざと笑ってみせた。
「ひどい姉上さま!大事なことは予め決めていたのね?ルイづてに聴いたのね、あるいはあのモンタニーアールごしにピエールと共謀したの?」




