ヴェルサイユは赤く色づいた。
感情はいわば巨大な樹木に喩えられる。ぱきりと真っ二つに裂けてしまう思いにポーラは駆られていた。怒りと困惑に全身がわなわなと震えているのだ。天使さまの存在は、もはやそれを助長するだけでしかない。ナント王を指導したという天使さまが姿を現すと、少女は見悶える気分になった。
天使さまは、ご老人であった。あの王を養育なさったのであれば大変に骨が折れたことだろう。
「祝福を許します、私はモルデカイといいます」
ナント王が接吻した足に自らも口づける。それを不快に思うことは不遜なことだった。世界に遍く降り立たれた天使さまは、いずこにあられても無能な人間たちを指導してくださっておられる。そんなことをチラッとすら思いをよぎらせることは、これまで彼女が信じてきたことへの裏切りにほかならない。
伝わってくる光はとてもやさしく気高いものだった。このような天使さまに養育されて、よくもあのような悪魔が育ったものだ。天使はポーラに向かって名乗った。そのことがいかに特別なことなのか、少女は感動のあまりなかなか気付くことができなかった。ナント王は密かに眉を動かしたのだ。
「そなたがピエールと干戈を交えた公爵殿ですね、この子から話はよく聴いています。大変にお若くあられる」
好々爺を思わせる老人だった。大量の髭によって口元は覆われていたが、微笑を浮かべておられることは明白だった。
これまで体験したことのない感情に胸が覆われていく。これは何だろう。しかしながらあえて結論は保留することにした。ある程度の冷静さを取り戻したポーラは未来の自分に決断を託すことができたのだ。それが天使、モルデカイによってもたらされたとは考えていない。まるで知らない種類の感覚だったので、それを説明する概念に心当たりがなかったせいだ。
並みいる竜騎士と魔法の使い手たちの胃袋を満足させるべく、宴席は整えられようとしている。天使はこの場に姿を見せない。どこかで会合の場をつくっているようだ。そちらが太陽のように輝いて思える。頬の片方がやけに熱があるのだ。この世には不可視の光がきっとあるにちがいない。
夕日はヴェルサイユを赤く色づかせる。このような寒村でもそれなりに絵になるものだ。春の風に吹かれて小麦が息吹を発生させている。魔法源泉が近いために生育状況は素晴らしくよい。やがては見事な黄金に成り代わるだろう。赤い光線はそれを預言している。その時に自分はいったいどうしているだろうか。ポーラははるか地平線の向こうにある王都ナルヴォンヌを見据えていた。これは未練か。ポーラはもとより計算づくで戦をする方ではない。しかし今回は重臣たちと図って試行錯誤を地図の上に繰り広げた。戦いは魔法源泉との会話によってはじまり、そしてそれに終わる。いつになく自分たちの言葉に耳を傾ける若き主君にドゴールは逆に不安を覚えたようだ。
「いつか落とす。エイラートを攻略した後はナルヴォンヌだ」
ポーラはふいに笑いたくなった。実在である王都と伝説の聖地を同列に扱っていることに気がついたのだ。こうして天使さまから離れると、どうしても現実に思考を戻される。彼の地は、そもそも本当にあるのか?あるにしてもルバイヤートという人間に非るモンスターが徘徊するという。それでも他の諸侯に比較すれば、公爵家は彼らと関わっている。略奪によって利潤を手にしている。普通の人間はモンスターと取引をすることなど考えるはずもない。ポーラにしたところで好んで魑魅魍魎と直接的に関わりたいと思うはずもなく、すべては特別な商人たちに任せている。
ふいにナント王の瘴気を感じた。相手は王なのだから振り返るくらいはしてやらねばならない。。
「陛下、宴席は整いましたか?しかし人を呼ぶのに陛下を使うなどと失礼な連中ですね…」
果たして、王は武装を解いていた。黄昏に燃やされる王を見て、少女は言葉を失った。現実に非ざる光景を見てしまったのだ。彼の声を聴くまでそれは続いた。
「宴席は整えられつつあるが、そういうことではない。私は自分の意思でここにやってきた」
「ほう、陛下手ずからに襁褓を幼女に替えてやろうというわけですか?」
王は意外な反応をした。
「余にも覚えがある、我がモンタニアール家は多産な王家でね、弟や妹に事欠かなかった。今は冗談を言っている場合ではない。公爵殿・・」
「陛下・・・・?」
いつもと何かが違う。それが少女を不安にさせた。王家という言い方が普段ならば彼女を苛立たせる。どうしてロベスピエール家は王家になりえなかったのか。
モンタニアール家とかかわる度にその種の念慮は欠かせない。しかし今はそんなことよりも彼がここにやってきた理由を知りたかった。しかしそんな思いを露出するには自尊心が高かった。
「いよいよ、陽も落ちそうです。宴席も整ったころでありましょう・・・」
「言っておくことがある。ルイのことはバブーフが勝手にやったことだ」
「王弟殿下のことですか?ドゴール伯爵にご葬儀の采配を任せてあります・・・事情がかわりますれば、確かに変更の余地はありますね・・・・」
少女は怒りで下腹が疼くのを感じた。しかし鉄面皮を通すという意思に変りはない。まるでそれが王者の条件であるかのように彼女は思っていた。
「公爵殿、ロベスピエール公爵殿、ルイのことは余は知らない。バブーフが勝手にやったことだ」
王の言っていることは少女は全く不明だった。
バブーフ男爵、いわば、虫けらだ。彼が裏切らなければ王にまで手は届いていた。天使さまが来られる前に王を手にかけナルボンヌに向けて進発できたであろう。王都攻略はできなくても、王の首さえ奪えればその後は何とかなる。
王の言っていることはうそだ。自分をたばかっているのだ。そう思いたい。しかし少女の理性と感性がそれを否定していた。
態度を保留させたものは宴席が整ったという侍女の声だった。王は何か言いたげだった。
あなたは私のことを蔑んでいなければならない。公の場を憚ることなく「幼女」と呼ぶべきだ。それなのにどうして人間として認める顔をしているのか。
「・・・」
少女は逃げるように宴席が発する喧騒に向かった。わざと強烈な瘴気を発して自らを主張する。
戦場の事とて、このような用意をするための条件は最悪と言っても過言ではない。コンビエーヌ魔法源泉は、単なる荒れ地と森が混在しているだけで、全くと言っていいくらいに人の手が入っていない。勢力均衡という軍事的な事情がそういう環境をつくったということは、逆の意味で人工物だということもできる。人が入っていないだけに良好な狩場となっている。ヴェルサイユ近郊はよい狩場だが、あいにくとコンビエーヌまで足を延ばさねば宴席に必要な獲物を用意できなかったようだ。休戦によって敵の攻撃の心配がなくなった今、無防備な使用人たちは安心してコンビエーヌを歩き回ることができた。
何にしろ、使用人たちはそのような状況で簡易的なテーブルや椅子を拵え、食材を集めてきたとみえる。総覧するかぎりとうてい兵站から用意できる代物ではないことは確かだ。しかしポーラは、そっけない大公爵を演出する。もちろん、貴族としての正装に身を包んでいる。戦場とはいえ兵站と同じ重要度でその種類の用意に抜かりはない。母親の助言を待つまでもない。王を倒し、王都ナルボンヌにあり、新しい主人は誰かと印象付けるためには正装以外にはありえない。
ポーラは朗々とした声で客人に挨拶をする。
「私は、ロベスピエール公爵ポーラ三世にございます。ここは戦場ゆえに贅を凝らした用意というわけにも参りませんが、公爵家を挙げてみなさまをご歓迎すべく家の者たちが力を注ぎました・・・・・」
宴席の主客であるナント王の盃にポーラがワインを注ぐ。すべての動きが優雅で完璧だった。姉を頼もしく思った。殺したいほど憎んでいる敵を目の当たりにして完全に平常心を保っている。感情に薄い人間ならばともかく、姉は激情を常に身体の内奥に飼っている。今はそれこそが姉を美しく輝かしている。マリーは思わず立ち上がってしまった。
「サンジュスト伯爵閣下、どうなされました?」
周囲はマリーの態度に困惑を隠せなかったが、彼女の整った唇からこぼれた言葉はどよめきを産んだ。
「姉上さま・・・」
しまったと臍を噛む。姉上さまは感情を収めたというのに、自らはそれを成しえなかった。そもそもマリーは年齢とは不釣り合いなくらいに冷静沈着な性質を自他ともに認める。そんな彼女だけに目立つ。従妹関係である二人が姉妹と呼び合うことは主の教えに反する。
早速、目くじらを立てたのはナント王の家臣たちだった。僧職にあるものが苦言を呈した。ポーラは助け船を出そうとしたが、急激な瘴気の襲来に思わず身構えた。
「そなたはこの場の主人であろう。未熟者、そなたはまだ主君の器ではないわ」
耳元に王の囁きが起こると同時に、彼は立ち上がっていた。ポーラ以上に優雅なしぐさは王者の風格をいかんなく示した。竜騎士でありながら魔法の使い手のような瘴気の使いこなしを見せつけられた。ポーラは完全に王に負けていた。圧倒されてしまっている。
「諸侯、お静まりください」
王は自らの家臣に敬語を使い、あまり目くじらを立てないように諭した。主君にこのような態度に出られては引っ込まざるをえない。¥
鶴の一声とは現況をこそ意味するのだろうか。鉄面皮の下で少女は焦っていた。このまままではナント王という権威がさらに固まってしまう。
王はいつになく青ざめたマリーに顔を向けた。
「サンジュスト伯爵殿は、公爵殿を姉上さまのように慕っておいでだ。伯爵殿、いささか言葉足らずでありますな、しかし主はすべてを見ていてくださいます」
一連の動きによってすべてが静まったことを確認すると、王は何事もなかったかのように羊の肉に手を伸ばしたのである。ポーラも彼の横に座って同じことをする。王の言いたいことはわかる。だがあえて彼はそれを口にしようとしない。何という腹黒い人間だろう。自分の一枚も二枚も上であることは認めるが、性質の歪みたるはどうだ。これが王者の風格というものなのか。先ほど圧倒されたことも忘れて羊肉を口に運び込む。王は嫌味たっぷりに言った。
「一流の料理人を軍列に加えらえるとは、何とも公爵殿にあっては余裕ですね」
「陛下を料理して、我が竜に馳走しようと国中から一流の料理人を集めました。世界に冠たる陛下には失礼のないように」
この言葉には王の家臣の不評を買った。もちろん、そんなことは計算の上だ。しかし気分を害したようだが、王の先ごとの言葉の手前、だれしも飲み食いに意識を集中することにしたようだ。しかしながら宴席における波乱はまだ先があったのである。ポーラは敵意を含まない瘴気が宴席を串刺しにするのを感じた。
「何者でしょう?陛下」
ポーラがそう言ったことには意味がある。自らの家臣ではないことはわかっている。王の家臣だろうか、ならば新参者だろうか。初陣か、若者、はたして少女の予想通りに正体は少年だった。
まずはこの場の主人であるポーラに正式な挨拶をした。貴族のたしなみとしては当たり前のことだが、少女は彼の態度に素直によい感触を持った。もしもナルヴォンヌを計画通りに落としていれば傍に仕えさせてもよかった。
そんなことを考えていた少女だが、少年が発する瘴気にただ事ではない事件を予感させる何かを感じた。しかしそれを追求することは礼儀に反する。少年の為人に対しても失礼であろう。
しかしそんなことを言っていられない事態はすぐそこまで来ていた。
王は言った。
「包み隠さず話せ、公爵殿に隠すことは不可能だ。わかっておろう」
ポーラにあえて聞かせたくないことなのか。もじもじとする少年にポーラが気を遣うことは、彼の立場を逆に傷つかせてしまう。観念したのか、少年は言った。
「ルイ殿下、バブーフ男爵さまがいらしております」
ポーラは鉄面皮をどうにか持ちこたえた。もう二度と、王に揶揄させることはない。だが、それも限界だった。殿下はみまかられたのではないのか?それにバブーフ男爵、あの虫けらがこの場に到着しているだと?どうして瘴気を判別できなかった。
ここには王だけでなく、マリーやその他、強大な瘴気を発する竜騎士や魔法の使い手たちが居並んでいる。宴席では瘴気を隠すなどということはマナーに反するとされている。だからこそ、ポーラは感じ取れなかったのだ。