モーパッサン公会議3
運ばれてきた盥を使って手を顔を拭っている最中、ポーラは次にマリーがどんな顔をしているのか気になってたまらない。あえて気にしないようにしたが、向こうは瘴気を使ってメッセージをこれ見よがしに絶えず送ってくるのだ。それを無視し続ける勇気はアラスの城主にはない。
巫女の間は、天使さまの御所と並んで他人に踏み込まれる心配がない。例外は巫女だけだが、彼女は自分がすべきこと、してはならないことの分別がついている。
自分たちの寝所のように侍女たちを合法的に排除出来る分、ここを肉体関係を成立させるための場所として重宝していた。クートン枢機卿の嫌味にはそのことが含まれていた。もちろん、本人たちはそれをわかっていて無視している。
正式にそういう関係でなくても姉のように思い慕う女性に「姉上さま」と呼ぶことすら神に摂理に反すると言って指弾するのが、古来聖職者というものである。それ以前にポーラとマリーは血のつながった従姉妹同士であり、幼いころからまさに姉妹のように育ったのである。
現ミラノ教皇であるザカリアス12世がかつて枢機卿のころ、ミラノに至る通りすがりでアラスを訪問したことがある。幼女ふたりは、年齢からかけ離れた聡明さを示して血のつながった猊下の頬を緩ませていた。ところが、マリーが「姉上さま」とポーラに言ったとたんに問題が起こった。好々爺然とした温厚な顔が変貌を遂げたのである。まさに逆鱗に触れるという言い方を身をもって二人は知ることになった。彼は、その場が凍りつくようなことを言い出した。
「主の言葉を違える自体が生じた。適切に処置がなされなけばならない」
ザカリアスが幼女たちに古代語が通じないと見なしたのは当然のことだった。普通の発達状態からすれば母国語の本ですらまともには読めないはずだった。いくら破格の聡明さといっても程度というもあろう、というわけだ。幼女たちを非難したわけではなく、暗に母親であり、伯母であるアデライードにそれを向けていたのである。
マリーはだれの目にも明らかに凍り付いた。
ポーラは今にも泣き出しそうな顔をして、そして次の瞬間に怒っているのか、泣いているのかわからない顔をした。
それが事実の矢となって発言者の双眸に突き刺さった。
高位聖職者が言う適切な処置とは、聖界が突きつける死を意味する。聖俗の区別がなかった、否、前者が後者を支配するところの多かった中世ならば、自動的に死刑を意味すると受け通ってもおかしくない。
幸か不幸か当時のアラス城主オーギュスト5世は不在だった。その場における最高位は、ザカリアスを除けばアデライードだった。彼女ほどの知性の持ち主が事態をのっぴきならないものと判断した。それは彼女にとってこの世で最も大事なものが失うことを危惧したからだ。
ポーラはもっと純粋な気持ちから同じことを直感していた。
大事な妹の命が危機に瀕している。対処法は自分の身を張って大切なものを守ること以外にはなかった。
一方で幼女は母親に対しても意識のアンテナを向けていた。
ポーラの主観からすれば、母である公爵夫人が最後に娘のために情動を示した最後の一件となった。マリーに対しては幾度もポーラの前でこれ見よがしに見せている。それも、あくまでも少女の主観にすぎない。そもそも「これ見よがし」に見せること自体が情動と言えるのだが、それをあえて主張できるのはアラス城においてマリーだけである。その他は保身のために口が曲がってもそんなことに言及できるはずもない。
話がずれた。
当時に枢機卿ザカリアスの発言が冗談では済まされなかった。それが中世という時代にほかならない。が、ロベスピエールという土地は、歴史という見方を否定するゆえに先進的とは言わない、かなり聖職者の監視が緩かったのである。
クートン枢機卿が苦々しく思うのは、今に始まったことではない。
沽券を満足させるためには嫌味をほのめかすことぐらいしかできなかったのである。
彼らや彼女が憎悪の視線を送る先がアラス城内にはある。
巫女の間というものは、諸侯の城には存在した。が、苛烈な戦いが古代の神々が生きる余地を与えたのである。
幼いポーラはよくマリーを連れて巫女の間に忍び込んだ。彼女の好奇心から逃れる術をこの部屋が備えているはずもなかった。並の魔法の使い手ならば一歩も入れないほどの魔法障壁も当時のポーラにとっても、ないも同様だったのである。当時の巫女は二人を歓待した。公式にはないものとして扱われていたゆえに、巫女の間は、破格の才能と素質を持った幼女たちにとって格好の遊び場になったのだ。
少女となったポーラとマリーは互いの双眸を見つめ合っている。
偶然にも二人は同時に当時のことを思い出していた。
アデライードが娘たちを庇う前にザカリアスの前に立ちはだかっていた。
「猊下、嫌がるマリーに命じて無理矢理に言わせたのです、こうやって・・」
ナント王の罵詈雑言ではなく、本物の幼女だったポーラが言い終える前に、マリーは痛がって自分の口を押えていた。
ザカリアスは黙って立ち上がった。
ゆえにそれまで彼の膝の上に座していた二人の幼女は宙に浮いた。ポーラはマリーを抱きかかえると床に見事に軟着陸した。
彼は瞠目した。
「ケントゥリア語がまさかわかるのか、それに・・・この年齢でこの瘴気・・・これほどの魔法を・・そなた、娘にどういう教育をしているのだ??アデライード!」
いくら常識から外れた知性の輝きを発揮していたとはいえ、老人の怒りをポーラもマリーも正しく理解できなかった。すべては自分たちに向けられていると思っていたのである。しかし事実は違う。彼の真実の怒りは姪であるアデライードに向けられていた。
「こんな幼子にどれほど厳しい教育をしているのか、それに魔法よりも前に教えることがらろうだろう」
幼女に死刑を宣告した同じ口が言う言葉とは、ポーラはにわかには信じられ無かった。ザカリアスはマリーを庇ったポーラを素直に褒めた。老人は元の好々爺に戻っていたのである。将来の公爵は、知らず知らずのうちに、人間とは情動しだいで別人になってしまうことを学んでいた。冗談という可能性については、さすがにそこまで洞察させるのは当時のポーラやマリーには難しかったのである。
だがその母親にはその感受性を要求してもおかしくないだろう。
アデライードは、自分の知っている叔父とは違う顔に驚いていたのである。この時点にあってもマリーばかりか、ポーラまでも失うのではないのか、そういう危惧を抱いていた。二人に対する愛情は本人ですら気づかぬほどに深かった。
枢機卿は二人の幼女を抱擁していた。賢しいとはいえ声を上げて号泣しはじめていた。
いったい、何がザカリアス枢機卿の氷を溶かしたのか?具体的な回答はできなくても、魔法とは違う力によって何かが変じてしまうことを幼女ポーラは学んでいた。魔法と剣こそが世界を動かす中心だとおもっていた。これらを有用に使うことで母親の愛を勝ち取れるものとばかり思っていた。
が、その中核たる情動というものを知ったからといって、(誤解とはいえ・・・)あれから10年以上が経過した今現在にあっても問題が解決したとは言い難い。むしろ問題を問題と思わないことで欺瞞してみせたにすぎない。母親との関係がそれを如実に示している。すでに解決するつもりなど毛頭ないのだ。
一方、ザカリアス枢機卿はミラノ教皇となって聖界に君臨している。そして奪還軍に関して重要な仕事を全うしようとしているのだ。
彼が親族を優遇するどころか逆に冷遇すらすることはポーラも知っている。しかしながら幼児期の体験はまだ忘れるには早すぎる。とにかくも大事な妹の生命はわけのわからない理由によって助かった。
モーパッサンに赴くにあたり、猊下に謁見することはあろうかとポーラは考えている。彼が直々に出師してくださることは予めわかっている。
奪還軍にかんしていえば彼に要求することはないと言っても過言ではない。というよりかは、戦争に造詣が深いとは思えなかったのである。ポーラは教皇の諸侯への影響力を過小評価していた。一つには親族だからといって優遇しないという常識がかえって逆に意識させた、そして幼児体験も加えられるべきだろう。
だが、マリーは違った。
彼女はモーパッサンに向かう前日の夜に忍んできた姉の頬をまさぐりながら言ったのである。
「教皇猊下への要求をリストアップしなければなりません」
それに対してポーラは冗談めかして、妻の身体を要求した。
「私たち専用の寝具のことかしら?マリー」
「冗談ではありません、今度こそ本当に処刑されてしまいますよ、姉上さま」
当時、死刑台に挙げられようとしていたのはマリーだったのだ。何ということ姉上さまは言い出すのだろう?




